† 心のデボーション 01521
「イエス言ひたまふ『狐は穴あり、空の鳥は塒(ねぐら)あり、されど人の子は枕する所なし』」 マタイ8:20大正文語訳聖書
「すると、イエズスは彼に、『きつねには穴があり、空の鳥にはねぐらがある。しかし、人の子には枕する所もない』と仰せになった」 フランシスコ会訳聖書
「安住の地」
人は安住の地を求める。しかし、イエスには「枕する所」もなかった。
安住の「安」は「宀 やね」+「女」で、屋根の下に女性が落ち着いて暮らす様子をあらわす。
家族が安らかに暮らせる地を求めて旅を続けるヨセフはマリヤの「屋根」だった。そして、人は神の大屋根の下で「安らか」である。
(†心のデボーション01521)
† 心のデボーション 01522
「すべて此等の惡しき事は、内より出でて人を汚すなり」 マルコ7:23 大正文語訳聖書
「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」 新改訳聖書
「いじめ」
汚いもの、不潔なものを「悪」として排除する思考が、今日の子どもにある。いじめの現場では「汚い、臭い、バイキン」など、相手を異物扱いする言葉が用いられる。いじめられるのは、個性的で協調性に欠ける子どもが多く、こうした子どもはグループの一致を乱すとして、「ゴミ」扱いを受ける。
自分の内にある汚く、不潔な思いを他者に投影し、憎むことで心の平静を図ることこそが罪である。それを子どもに教えているのは大人なのだ。
(†心のデボーション01522)
† 心のデボーション 01523
「アケラオその父ヘロデに代りてユダヤを治むと聞き、彼處に往くことを恐る。また夢にて御告を蒙り、ガリラヤの地方に退き」 マタイ2:22 大正文語訳聖書
「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり」 新共同訳聖書
「怖れの感覚」
「怖れ φοβέομαι ふォベオマイ」の感覚を消してはいけない。人はこの感覚の中で神の導きの声を聞くのである。不安の底に沈もうとする私の手を上に引き上げるもう一つの力強い手がある。
「われ汝の手をとり、汝を守り」イザヤ42:6
(†心のデボーション01523)
† 心のデボーション 01524
「みよ神はわれをたすくるものなり 主はわがたましひを保つものとともに在せり」 詩篇54:4 明治元訳聖書
「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」(詩篇54:6)新共同訳聖書
「親子関係」
佐々木正美さんは『子どもへのまなざし』に、「親子関係だけを一生懸命やっても、親子関係はうまくいかない」と指摘する。親子関係は人間関係の中の一つであり、多様な人間関係ができる人の方が、子どもとの関係もうまくゆくという。
多様な人間関係を支えるのは、自分との関係であろう。そして、自分との関係を根源的に支えるのは神との関係である。
(†心のデボーション01524)
† 心のデボーション 01525
「神言たまひけるは水の中に穹蒼ありて水と水とを分つべし」 創世1:6 明治元訳聖書
「神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」 新共同訳聖書
「秩序」
すべてをおおう「大空」を神は上の水と下の水に分けられる。神は混沌とした宇宙に「秩序」をもたらされる。「秩序」もまた神の創造の働きである。秩序なき世界は創造の目的ではない。
エントロピー変化が示すように、世界は秩序から崩壊へと変化する。しかし、神は崩壊に対して絶え間ない秩序を創造されておられるのではないか。
(†心のデボーション01525)
† 心のデボーション 01526
「夜イエスの許に來りて言ふ『ラビ、我らは汝の神より來る師なるを知る。神もし偕に在さずば、汝が行ふこれらの徴は誰もなし能はぬなり』」 ヨハネ3:2 大正文語訳聖書
「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』」 新共同訳聖書
「夜の訪問」
ニコデモは「夜」イエスを訪れる。ヨハネは後に彼のことを「夜イエスのところに来たニコデモ」と呼んでいる。ニコデモが夜イエスを訪れたのには特別の意味があったといいたいかのようである。
人がイエスを訪れるのは、普通のことではないのかもしれない。何か深い理由がある。それは必ずしも本人が意識しているとも限らない。心の深いところに促すものがあって、人はイエスを訪れるのだと思う。その促しも又、神からのものである。
(†心のデボーション01526)
† 心のデボーション 01527
「多の友をまうくる人は遂にその身を亡す 但し兄弟よりもたのもしき知己もまたあり」 箴言18:24 明治元訳聖書
「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」 口語訳聖書
「うたげのあとの友」
「うたげのあとの友」という言葉があると外山滋比古さんが『ことわざのこころ』に紹介している。食事が終わった後に残ってたのしく語らう客こそが本当の友という意味である。ご馳走だけに集まる客は信用できない。
(†心のデボーション01527)
† 心のデボーション 01528
「彼等なんぢにむかひて請ふ われらと偕にきたれ 我儕まちぶせして人の血を流し 無辜ものを故なきに伏てねらひ」 箴言1:11 明治元訳聖書
「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい」 新改訳聖書
「悪の仲間」
「人の血を流すために、一緒に待ち伏せしよう」と誘われても従ってはならない。いつか、あなたは自分が「血を流すために、待ち伏せ幸を待地伏せされている」ことを知るからである。この人たちの関心は「犠牲者」であって、「仲間」ではないからである。
(†心のデボーション01528)
† 心のデボーション 01529
「愚なる者の口はおのれの敗壞となり その口唇はおのれの霊魂の罟となる」 箴言18:7 明治元訳聖書
「愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる」 新改訳聖書
「だれかが何とか」
子どものころから、難しい問題は母親に解決してもらって育てられた人は、自分で問題を解決していく心がそだっていないことが多い。問題が発生すると「だれかが何とかしてくれる」と自分は何もしようとしない。そのため問題解決の決定的な時を逃してしまう。
(†心のデボーション01529)
† 心のデボーション 01530
「是はヱホバが彼等をエジプトの國より導きいだしたまひし事のためにヱホバの前に守るべき夜なり是はヱホバの夜にしてイスラエルの子孫が皆世々まもるべき者なり」 出エジプト記12:42 明治元訳聖書
「これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。ゆえにこの夜、すべての
イスラエルの人々は代々、主のために寝ずの番をしなければならない」 口語訳聖書
「過越し」
エジプトから脱出するとき、イスラエルは羊をほふり、その血を家の二本の門柱とかもいに塗った。その夜、神の裁きがエジプトを通過し、エジプトを打ち、血のしるしのある家を「過越され」た。これが「過越の祭り」である。
アケラオはその夜、「しるし」のつけられたイスラエルの家を襲い、人々を殺害した。神の民であることの「しるし」は、同時に迫害の「目印」ともなる。
(†心のデボーション01530)
コメント