† 心のデボーション 01511
「幼子とその母を」 マタイ2:21 大正文語訳聖書
「幼子とその母を連れて」 新改訳聖書
「大事にお連れする」
「連れて παραλαμβάνω パラらムバノー」は「παρά 傍らに + λαμβάνω 掴む」で「その手を掴んで連れて行く」こと。漢訳聖書は「挈(たづさ)へて」とする。「挈」は「ひっかけて持つ」で、「左提右挈 さていゆうけつ」は左右の手で携えること。詳訳聖書は「[大事に]連れて」と意味を補って訳している。ヨセフは左右の手でマリヤとイエスを携え、「大事にお連れした」。(マタイ2:20 細き聲 研究ノート参照)
(†心のデボーショ01511)
† 心のデボーション 01512
「智慧ある者と偕にあゆむものは智慧をえ 愚なる者の友となる者はあしくなる」 箴言13:20 明治文語訳聖書
「知恵ある者と共に歩けば知恵を得/愚か者と交われば災いに遭う」 新共同訳聖書
「タートルアント」
南米には「タートルアント turtle ant」という奇妙な蟻がいる。
この蟻は頭が帽子のような形をしていて、樹に穴をあけて巣にしている。敵がくると自分の穴に逃げこみ、穴にぶら下がって帽子のような頭で穴の蓋をする。内側から頭で蓋をしてしまうのである。帽子は決して蟻のファッションではない。頭を引っ込めて身を隠す亀にどこか似ていることからタートルアントの名がある。
人生には「ここはタートルアントでゆこう」という時があってもよい。
(†心のデボーショ01512)
† 心のデボーション 01513
「凡て惡の類に遠ざかれ。」 Ⅰテサロニケ5:22 大正文語訳聖書
「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」 新共同訳聖書
「悪から遠ざかる」
NKJVは、本節を「Abstain from all appearance of evil」と訳す。Abstainは「ab 離れた+tain 保つ, 含む」からなる言葉で、離れた状態をかたく保つことを意味する。
「悪」から離れることは、一時的な行為ではなく、離れた状態を保ち続けることでなければならない。
(†心のデボーショ01513)
† 心のデボーション 01514
「我は愛によりて疾わづらふ」 雅歌2:5 明治元訳聖書
「私は愛に病んでいるのです」 新改訳聖書
「愛の病」
竹取物語の主役はかぐや姫と翁かもしれない。無理難題を負わせられる5人の公達は悩める翁をあらわしているのではないだろうか? かくして月に戻ったかぐや姫は手の届かないところでいつまでも妖しい光を地に注ぐ。
この病にかかるのは翁とは限らない。
(†心のデボーショ01514)
† 心のデボーション 01515
「神光を晝と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり」 創世1:5 明治元訳聖書
「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」 新共同訳聖書
「この一日」
神は「この一日」を基本的な単位として創造された。日毎に、その日に成し遂げられるべき事柄がある。「この一日」をしっかり生きる幸せ以上のものはない。どのような人生の状況にも神は私に生きるべき「この一日」を創られる。
(†心のデボーション01515)
† 心のデボーション 01516
「艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん」 箴言31:30 明治元訳聖書
「麗しさは偽り、美しさはむなしい。しかし、主を畏れる女はほめたたえられる」 フランシスコ会訳聖書
「美しさ」
女性の顏の最も美しいと思われる目、鼻、口などの部分を集めて一つの顏に合成すればどれほど美しい顔ができるかと実験したところ、美しいがどこか印象が薄かったという。美しい顔といのは完璧なパーツの寄せ集めではないようだ。
(†心のデボーショ01516)
† 心のデボーション 01517
「請ふわが論ずる所を聽き 我が唇にて辨爭ふ所を善く聽け」 ヨブ13:6 明治文語訳聖書
「今、わたしの論ずることを聞くがよい。わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい」 口語訳聖書
「神の道」
二人のラビ(ユダヤ教の教師)が、信仰のあり方について議論を戦わせています。どちらも、興奮してつばを飛ばしながら話しています。しかし、一方のラビが言いました。「私たちは、どちらも宗教家としてこのように口汚く議論することはよくないと思う。私たちは、どちらも神に仕える身です。あなたはあなたの道を行きなさい。私は、神の御心の道を行きます。」
この解決法は信仰の勝利でしょうか? それとも敗北でしょうか?
(†心のデボーショ01517)
† 心のデボーション 01518
「彼等なんぢにむかひて請ふ われらと偕にきたれ 我儕まちぶせして人の血を流し 無辜ものを故なきに伏てねらひ」 箴言1:11 明治元訳聖書
「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい」 新改訳聖書
「悪の仲間」
「彼ら」とは「知恵に逆らう者」である。彼らは自らが知恵に逆らうばかりでなく、若い者を仲間に引き入れようとして誘う。まず「われらと偕にきたれ」と誘い、「一緒に歩き回わろう」すすめる。その腕を肩にまわす親し気な態度に誘われてはならない。彼らは単に「共に悪を担う仲間」を求めているだけだからだ。
(†心のデボーション01518)
† 心のデボーション 01519
「汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を與へ」 マタイ7:9 大正文語訳聖書
「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう」 新改訳聖書
「石を与える」
ユダヤの海岸には丸い石灰岩の石があって、色も形もパンによく似ているという。「蛇」とはおそらく「うなぎ」のことで、律法が食べるのを禁じた魚だった。自分の子がパンを求めるのに石を与え、魚を求めるのに蛇を与える父親はいない。
子どもに「よきもの」を与えるには、まず、求めに対して本物とそうでないものを見分けることができなければならない。パンの代わりに「石」や「蛇」を与えられる子どもが実に多い。
(†心のデボーショ01519)
† 心のデボーション 01520
「ヱホバよねがはくは我にこたへたまへ なんぢの仁慈うるはしければなり なんぢの憐憫はおほしわれに歸りきたりたまへ」 詩篇69:16 明治元訳聖書
「あなたの恵みはまことに深いのです」 新改訳聖書
「恵みの大河」
海で方向を見失った小舟が漂流をはじめ、幾日かして、ようやく他の船を見つけた。「おーい、助けてくれ。水がないんだ」と叫ぶと、「水はまわりにある」という返事。いつの間にか、小舟は揚子江の河口に入っていたのである。
つまらない一日も、実は恵みの大河にあることを忘れてはいけない。渇く人は水の中を漂っているのだ。しかし水を汲むにも小さな椀一つがいる。
(†心のデボーショ01520)
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