† 心のデボーション 01501
「愚なる者は明哲を喜ばず 惟おのれの心意を顯すことを喜ぶ」 箴言18:2 明治元訳聖書
「愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表す」 新改訳聖書
「異なるもの」
信仰は異なるものとも話を続ける。しかし、それは「ただ自分の意見だけ」を言い募ることではない。それぞれが相手の内に自らを見出すためである。
(†心のデボーション01501)
† 心のデボーション 01502
『いと高き處には榮光、神にあれ。 地には平和、主の悦び給ふ人にあれ』 ルカ2:14 大正文語訳聖書
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に平和、御心に適う人にあれ」 新共同訳聖書
「地には平和」
ヨセフとマリヤはイエスを携えてエジプトからイスラエルに戻る。直接の危険は去ったが、依然として困難な状況は続いていた。いつの時代にも地に絶対の平和はない。それでも人は平和あれかしとして、その地に戻るのである。
(†心のデボーショ 01502)
† 心のデボーション 01503
「神言たまひけるは水の中に穹蒼ありて水と水とを分つべし」 創世1:6 明治元訳聖書
「神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」 新共同訳聖書
「大空」
原初の「大空」は大宇宙をさすのかもしれない。創造の第一日に「光」が存在し、137億光年の時と空間が創造され「大空」と呼ばれているのではないか。
大宇宙の外を我らは知らない。神は「天と地の創造」以前から存在され、大宇宙の外もまた神の御支配である。
(†心のデボーション01503)
† 心のデボーション 01504
「ヱホバその寶の蔵なる天を啓き雨をその時にしたがびて汝の地に降し汝の手の諸の行爲に祝福をたまはん汝は許多の國々の民に貸ことをなすに至らん借ことなかるべし」 申命記28:12 明治元訳聖書
「それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない」 新改訳聖書
「恵みの倉」
天はあなたに向かって開かれる「恵みの倉」である。そこから恵みを受ける人は「貸すことはあっても借りることがない」。
自分には貸すものが何もないと思っている人が本当の貧しい人である。しかし、その貧しさを知る人にこそ、天の倉は開け、恵みの雨は「時にかなって」降る。
神の祝福に生きる人は、どんな貧しさの中でも、自分を人に差し出す豊かさを失わない。
(†心のデボーション01504)
† 心のデボーション 01505
「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗(うるは)しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念(おもひ)を賦(さず)けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲(わざ)を始より終まで知明(しりあき)むることを得ざるなり」 伝道3:11 明治元訳聖書
「神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。また、人の心に、永遠への思いを授けられた」 フランシスコ会訳聖書
「永遠を思う」
大きな目標が達成されると、突然、自分を見失うことがある。自分を励ます対象が目の前から消え、頑張りがきかなくなってしまう。いつまでも自分の輝きを失わないためには、「永遠」を目の前に置くことだ。それが人を人間にしてくれる。
(†心のデボーション01505)
† 心のデボーション 01506
「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり」 伝道3:1 明治元訳聖書
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」 新改訳聖書
「最善の時」
ユダヤ人ジョークには、したたかなユダヤ人の話が尽きない。
ソロモンとモルデカイが、深夜に家に帰る途中に、前からガラの悪そうな酔っ払いの集団が来るのが見えた。それを見たソロモンがモルデカイに言った。「確か、お前に5万円借りていたよね」 モルデカイが「そうだよ」と答えると、「ここに5万円あるから、確かに返したよ」(ユダヤジョーク集より)
借りたものを返すにも最善の時と方法がある。
(†心のデボーション01506)
† 心のデボーション 01507
「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1 明治元訳聖書
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」 新改訳聖書
「山にむかひて目をあぐ」
作者はひと際高く聳え立つ山を見上げる。そこは「神の御住まい」である。
日本人にとって「山」は「山また山」の中にある。であって、詩篇の作者が見上げる「山」のようではない。
それぞれの民族はそれぞれの自然とのかかわりのなかにある。日本人は詩篇の作者が見上げた「山」をどのようにして見出すことができるだろうか。
(†心のデボーション01507)
† 心のデボーション 01508
「最終には月足らぬ者のごとき我にも現れ給へり」 Ⅰコリント15:8 大正文語訳聖書
「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」 新共同訳聖書
「月足らずで生まれた者」
「月足らずで生まれた者 ἐκτρώματι」は「早産」の意味である。
Today’s English Versionは「someone whose birth was abnormal」と訳す。通常とは違った誕生をした者の意味であろう。
パウロは自分は信仰的には「月足らずで生まれた」、すなわち「通常とは違った、アブノーマルな救われ方をした」自分にも復活のイエスは現れてくださった」というのである。
(†心のデボーション01508)
† 心のデボーション 01509
「彼等なんぢにむかひて請ふ われらと偕にきたれ 我儕まちぶせして人の血を流し 無辜ものを故なきに伏てねらひ」 箴言1:11 明治元訳聖書
「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい」 新改訳聖書
「悪しき者の舌」
「人の血を流すために待ち伏せする」悪しき者の舌は「血に飢えている」(箴言12;6)。その指導は「欺き」である。(箴言12:5)だが、彼らの言葉は巧みにカムフラージュされ、むしろ耳に心地よく響く。彼らの口から救い出すのは「正しい者」のことばである。
(†心のデボーション01509)
† 心のデボーション 01510
「ヱホバかくのごとくヨブをめぐみてその終を初よりも善したまへり 即ち彼は綿羊一萬四千匹 駱駝六千匹 牛一千軛 牝驢馬一千匹を有り」 ヨブ42:12 明治元訳聖書
「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された」 新改訳聖書
「失ったもの」
試練の後、ヨブには失ったものの倍が与えられた。以前のように七人の息子と三人の娘も与えられる。
しかし、一度失ったものは何をもっても代わりにはならなかったのではないだろうか。
失うことで生じた空白を無理に埋めようとしないことだ。
ヨブもそのようにして失った息子、娘への悲しみを全うし、それによって新しく与えられた息子、娘を愛したのではないだろうか。
(†心のデボーション01510)
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