心のデボーション150

デボーション1
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† 心のデボーション 01491

「神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり」 創世記1:27 明治元訳聖書

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された」 新改訳聖書

 「男と女」

自立した男性と女性とは、互いに相手の良きパートナーになれるに違いない。自立とは人に頼らないことではなく、相手と安定した信頼関係を保てることだからである。それには互いに、自分が相手の存在を必要としているかを知る必要がある。

人間は男と女という二つの異なる存在様式をもつものとして創られた。この二つが出会って、人間という一つのテーマが完成する。

(†心のデボーション01491)

† 心のデボーション 01492

「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」 新改訳聖書

 「冷たい平和」

「冷たい平和」という言葉がある。互いに傷つけないくらいの距離を保つことで維持される「平和」の意味だが、イエスは「平和を実現する人々 εἰρηνοποιός エイレーノポイオス εἰρήνη 平和 + ποιέω 造る者」が幸いであると教えられた。「平和ならしむる者」はラテン語 pacifici 「平和をもたらす者・調停者」である。

しかし、冷たくても、そこに「平和」があるなら、その平和を崩すのは人ではなく神によらなければならない。

(†心のデボーション01492)

† 心のデボーション 01493

「ヱホバは人の思念のむなしきを知りたまふ」 詩篇94:11 明治文語訳聖書

「主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。」 新改訳聖書

 「虚構の穴」

なにもかも手に入れた人は何に対しても興味を失ってしまうのではないか? 人が急に、それもありきたりのことに興味を抱くのはそのような時かもしれない。

自分に満たされない心の部分を残しておくのはよいことである。何をもっても満たされない、あまりに深い心というものは、本当は実在しない虚構の穴かもしれない。

(†心のデボーション01493)

† 心のデボーション 01494

「なんぢら主にありて聖徒たるに相應しく彼を容れ、何にても其の要する所を助けよ、彼は夙くより多くの人の保護者また我が保護者たり」 ロマ16:2 大正文語訳聖書

「あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください」 新改訳聖書

 「助け人」

ある精神科医が「困っている人を助けることは、助ける側にとっても、その人にとってもよくないことだ」と語っている。立ち上がる力はその人自身の内にしかなくて、外からの力で立ち上がらせることはできないからである。

それに加えて、いつも自分の近くに困っている人がいないと元気になれない困った「助け人」もいる。

その人がいると、何とかしてみようと、生きる勇気を与えてくれるのが本当の「助け人」である。

(†心のデボーション01494)

† 心のデボーション 01495

「幼兒の生命を索(もと)めし者どもは死にたり」 マタイ2:20 大正文語訳聖書

「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」 新共同訳聖書

 「つけ狙う」

ヘロデはヨセフとマリヤがエジプトに逃れた後も、イエスのいのちをつけねらい、それは死ぬまで継続された。

あるものを無きものにしようと「つけ狙う」意志は、生み出し育む意志よりもはるかにしつこく、強固である。

(†心のデボーション01495)

† 心のデボーション 01496

「神光を晝と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり」 創世記1:5 明治元訳聖書

「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」 新共同訳聖書

 「光も闇も」

神は光を創造され、闇を創造され、平和をつくり、禍を創造される。安きも禍も神の御支配のもとにある。

「われは光をつくり又くらきを創造す われは平和をつくりまた禍害をさうざうす 我はヱホバなり 我すべてこれらの事をなすなり」 イザヤ45:7 明治元訳聖書

(†心のデボーション01496)

† 心のデボーション 01497

「かしこの兄弟たち我らの事をききて、アピオポロおよびトレスタベルネまで來りて我らを迎ふ。パウロこれを見て神に感謝し、その心勇みたり」 使徒28:15 大正文語訳聖書

「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」 新改訳聖書

 「友」

パウロが囚人としてローマに到着したという知らせに、数人のキリスト者がローマから宿場まで出迎えた。

パウロは思いもよらないところで、思いを同じにする人々と出会って「神に感謝し、勇気づけられた」。

心が通じる友と会うことほど、嬉しいものはない。そのためなら、少々の道のりをものともせずに、いそいそと出迎えにいく。どこに行けば、あなたに出会えるのか、教えて欲しい。

(†心のデボーション01497)

† 心のデボーション 01498

「その口ははなはだ甘く誠に彼には一つだにうつくしからぬ所なし ヱルサレムの女子等よ これぞわが愛する者 これぞわが伴侶なる」 雅歌5:16  明治元訳聖書

「その言葉は、はなはだ美しく、彼はことごとく麗しい。エルサレムの娘たちよ、これがわが愛する者、これがわが友なのです。」 口語訳聖書

 「美しい言葉」

「美しい人」は「美しい言葉を語る人」である。美しい言葉には美しい返事が返ってくる。「美しい言葉」は「愛」から出て、人を生かし、真実に耐える。

(†心のデボーション01498)

† 心のデボーション 01499

「食事をもて笑ひ喜ぶの物となし」 伝道10:19 明治元訳聖書

「食事をするのは笑うため」 新改訳聖書

 「食卓の笑い」

食卓に欲しいのは笑いである。笑うと唾液や胃液がよく分泌し、消化を促す。逆に、息のつまるような暗い雰囲気では食欲も失われ、消化をする力も低下する。貧しい時代は、食卓に食べ物がある、ただそれだけで家族に笑みが浮かんだのだ。

私たちは豊かさと交換に「今日の糧」の喜びを失ってしまった。それは決して小さな損失とはいえない。なごやかな笑いにまさるご馳走はない。

(†心のデボーション01499)

† 心のデボーション 01500

「われ敎をいとひ 心に譴責をかろんじ」 箴言5:12 明治元訳聖書

「その時、お前は言う、「どうして、わたしは戒めを憎み、わたしの心は勧告をあなどったのだろう。」 フランシスコ会訳聖書

 「阿漕の浦」

三重県津市の伊勢湾に面した海岸を阿漕の浦という。昔は、伊勢神宮に供えるために阿漕の浦は禁漁区になっていた。しかし、秘かに禁を破って漁をする者が出て、度が過ぎる行為を「阿漕なまねをする」と言うようになった。

「逢ふことを阿漕の島に曳く網の度重ならば人も知りなむ」 古今和六帖

逢瀬を忍ぶ恋も度重なればやがて人の知るところとなる。

人の叱責の言葉を軽んじてはいけない。

(†心のデボーション01500)

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