心のデボーション148

デボーション1
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† 心のデボーション 01471

「ヘロデ死にてのち、視よ、主の使、夢にてエジプトなるヨセフに現れて言ふ」 マタイ2:19 大正文語訳聖書

「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った」 新改訳聖書

 「丁度の時」

ヘロデが死ぬと、遠く離れたエジプトのヨセフは、それを告げる「夢」を見る。別々の所での二つの経験が一致する。一つの「時」が両者を結んでいる。

神は「時」を誤られることがない。丁度の時に介入される。

(†心のデボーション01471)

† 心のデボーション 01472

「十字架によりて怨を滅し、また之によりて二つのものを一つの體となして神と和がしめん爲なり」 エペソ2:16 大正文語訳聖書

「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」 新改訳聖書

 「合わぬ敵(かたき)」

相手として力量不足の敵を「合わぬ敵(かたき)」という。「合わぬ敵」はよく「目の敵」にしやすい。負けることのない相手ほどくみしやすいものはないからである。

しかし、相手を「取るに足りない」とするところから、「合わぬ敵」は「真の敵」に変身する。気がつけば、自分が「目の敵」にされている。「力量不足」などとんでもない。

(†心のデボーション01472)

† 心のデボーション 01473

「わが子よ惡者なんぢ誘ふとも從ふことなかれ」 箴言1:10 明治元訳聖書

「わが子よ、たとえ罪人どもが、お前をそそのかしても、その手に乗るな」 フランシスコ会訳聖書

 「罪びとたちの友情」

「罪人たち חַטָּא ハッタ」は「有罪とされた者」のことで、彼らは単独を嫌い、仲間を求める。人をそそのかす楽しみを共有しようと誘う。しかし、その「友情」はいつまでもは続かない。

「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける」 箴言13:20 口語訳聖書

(†心のデボーション01473)

† 心のデボーション 01474

「神光を晝と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり」 創世1:5 明治元訳聖書

「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」 新共同訳聖書

 「昼は昼に、夜は夜に」

「昼は昼に言葉を伝え 夜は夜に知識を伝える」

「この日ことばをかの日につたへこのよ知識をかの夜におくる 語らずいはずその聲きこえざるに
そのひびきは全地にあまねく そのことばは地のはてにまでおよぶ 神はかしこに帷幄を日のためにまうけたまへり」 詩篇19:2~4 明治元訳聖書

「昼は昼に言葉を伝え 夜は夜に知識を伝える」 フランシスコ会訳聖書

昼には昼に聞く言葉があり、夜には夜に学ぶ知識がある。そのひびきは全地に及ぶ。

(†心のデボーション01474)

† 心のデボーション 01475

「この地に驚くべき事と憎むべきこと行はる 預言者は僞りて預言をなし祭司は彼らの手によりて治め我民は斯る事を愛すされど汝等その終に何をなさんとするや」 エレミヤ5:30,31 明治元訳聖書

「驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」 新改訳聖書

 「お前はどうするつもりなのだ?」

エレミヤが見ると、地は穏やかで、季節にしたがって豊かな実りをもたらしていた。しかし、人々の中に悪しき者がおり、「偉い者」となって富み栄え、貧しき者、みなしごは幸いを見いだせない。

神はご覧になって「驚くべき事と憎むべきこと」を行おうとされている。しかし、預言者は「偽りの預言」をし、祭司は「自分勝手におさめ」、民は「それを愛している」。

そこで神は言われる。「汝等その終に何をなさんとするや (その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。 新改訳聖書)」。

「お前はどうするつもりなのだ?」

(†心のデボーション01475)

† 心のデボーション 01476

「人の家に入らば平安を祈れ」 マタイ10:12 大正文語訳聖書

「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」 新共同訳聖書

 「ファーティマの手」

シリアのダマスカスの家のドアには「ファーティマの手 Fatima’s Hndo Door Knocher」と呼ばれるドアノッカーが下げられているという。

「ファーティマ」はイスラム教のムハンマドの娘で理想の女性とされる。アラブ世界では青い瞳は人に呪いをかける力があると信じられ、無意識に邪悪なものの視線から守られるように「目」がつけられた「ファーティマの手」もあるのだという。

人を訪問するときは、祝福をもたらす訪問者として迎え入れられたい。

(†心のデボーション01476)

† 心のデボーション 01477

「幼兒の生命を索(もと)めし者どもは死にたり」 マタイ2:20 大正文語訳聖書

「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」 新共同訳聖書

 「いのち」

ヘロデがつけねらったのは幼子の「ζωή ゾーエー いのち、肉体」というよりも、「ψυχή プスゆけー 魂、精神」だった。いのちそのもの(存在)をなきものとせんとする企ては決して成功しない。「いのち」は神がふところに抱かれ(守られ)てある。たとえ、権力が「ζωή ゾーエー いのち、肉体」を損なうことができたとしても、「ψυχή プスゆけー  魂、精神」を奪い、破壊することはできない。

(†心のデボーション01477)

† 心のデボーション 01478

「きたりてヱホバの事跡をみよ ヱホバはおほくの懼るべきことを地になしたまへり」 詩篇46:8 明治文語訳聖書

「来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた」  口語訳聖書

 「驚くべきこと」

「驚くべきこと」は新改訳聖書では「地に荒廃をもたらされた」である。

神は「地の果てまでも戦いをやめさせ」「弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる」、その為に地は見渡す限り「荒廃」し、人々は飢える。これまた主のみわざである。

(†心のデボーション01478)

† 心のデボーション 01479

「これは執る者には生命の樹なり これ持ものは福なり」 箴言3:18 明治元訳聖書

「知恵はこれを握る者には命の木である。これを固くつかむものは幸いである」 フランシスコ会訳聖書

 「変える勇気と見分ける知恵」

God
grant me the serenity            主よ、変えられないものを
to accept the things I cannot change,     受け入れる心の静けさと、
the courage to change the things I can;    変えられるものを変える勇気と、
and the wisdom to know the difference.    その両者を見分ける英知を与えたまえ。

これはラインホールド・ニーバーの祈りである。

この祈りには他にも次のような訳が知られている。

神よ、
私に変えることのできないものは、
それを素直に受け容れるような心の平和を!
変えることのできるものは、
それを変える勇気を!
そして変えられるものと変えられないものとを、
見分ける知恵を!
この私にお与えください。

(†心のデボーション01479)

† 心のデボーション 01480

「常に喜べ」 Ⅰテサロニケ5:16 大正文語訳聖書

「いつも喜んでいなさい」 口語訳聖書

 「いつも喜べ」

嬉しいことがあるから喜ぶのではなく、喜ぶから嬉しく感じられる。

喜びは神からの賜物である。しかし、一度手に入れさえすれば、いつまでも喜んでいられるというものではない。苦しみの深みで、人は神と出会う。そのたびに喜びを一つ見つける。「いつも喜ぶ」とは、日ごとに神との出会いを新しくすることである。苦しみの中には、まだ私の味わったことのない「喜び」がある。

(†心のデボーション01480)

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