† 心のデボーション 01461
「その怒はただしばしにてその惠はいのちとともにながし 夜はよもすがら泣かなしむとも朝にはよろこびうたはん」 詩篇30:5 明治元訳聖書
「いのちは恩寵のうちにある」 新改訳聖書
「糸トンボ」
メダカの池で糸トンボがふ化した。昨日水グモのようなものが水面を這っていた。一夜明けて、水草に一匹の糸トンボがふ化したばかりの体を休めていた。近くに、透明のぬけがらもある。クモのからをぬぎ、羽をのばし、風に乗って大空に飛び立つのだろう。
「恩寵」とは「いのちを新たにする」ことである。水面を這いまわりながら見上げる空もなかなかのものだったろう。だが、今は飛び立つ時が来た。
(†心のデボーション01461)
† 心のデボーション 01462
「我等この寶を土の器に有てり、これ優れて大なる能力の我等より出でずして、神より出づることの顯れんためなり」 Ⅱコリント4:7 大正文語訳聖書
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」 新改訳聖書
「老いた日に」
若い日には人のために生きる。しかし、老いては自分のために生きたい。老いて人に必要とされないことを嘆くものではない。若き日の全ての経験を自分に向ける。老いた日はそれをするだけの価値があり、そうすべき時が来たのだ。
(†心のデボーション01462)
† 心のデボーション 01463
「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書
「ラケルの涙」
ラケルは子がなく長い間悲しんだが、ついにヨセフとベニヤミンの二人の子を生んだ。出産にあたり、ひどい陣痛に襲われベニヤミン出産直後にラケルは亡くなった。「ラケルの涙」は生まれた子を胸に抱くことを許されなかった母親の嘆きである。
(†心のデボーション01463)
† 心のデボーション 01464
「おのれの道を守るは霊魂を守るなり」 箴言16:17 明治文語訳聖書
「自分の道を守る者はその魂を守る。」 口語訳聖書
「守るべきもの」
どのような時にも守るべきものをもっているひとは強い。守るべきものが見つからないというのは、守ってくれるものの中に安住しているからかもしれない。外に出て見ることだ。そうしないと、いざ守ってくれるものを失うとどう生きてよいか分からなくなってしまう。
(†心のデボーション01464)
† 心のデボーション 01465
「ヱホバ言給ひけるは爾の子爾の愛する獨子即ちイサクを携てモリアの地に到りわが爾に示さんとする彼所の山に於て彼を燔祭として獻ぐべし」 創世記22:2 明治元訳聖書
「神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」 口語訳聖書
「神の山の上に備えあり」
神はアブラハムに息子イサクをモリヤの地でささげるように命じられる。後に「モリヤ」は「アドナイ・イルエ 神の山の上には備えがある」と呼ばれた。
ソロモンはアブラハムが息子イサクをささげた「モリヤの地」に神殿を建てた。(Ⅱ歴代3:1)
神がイサクを受けとり、イサクを与えられた地が私たちの礼拝の場である。
(†心のデボーション01465)
† 心のデボーション 01466
「おほよそ四十年のあひだ、荒野にて彼らの所作を忍び、」 使徒13:18 大正文語訳聖書
「そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ」 口語訳聖書
「はぐくむ」
ヒマラヤの高地には「セイタカダオウ」という植物が生息するという。「温室植物」と言われ、テントのように白い半透明な葉をつくり、中に花を包み込む珍しい植物である。ヒマラヤの高地で強い紫外線から花を守り、テントの中の温かい空気に外からの虫を集めて受粉を促すのだそうである。
わが子を胸に抱く母親のような植物である。
神は40年間、荒野でイスラエルの民を「はぐくまれた」。「はぐくむ」と訳されたギリシャ語は「彼らのやり方」で民の「性格、気質に耐える」の意味である。
神は半透明なテントに私を囲って、私の「気質、性格」を育み養ってくださる。
(†心のデボーション01466)
† 心のデボーション 01467
「貧者はつねに忘らるるにあらず苦しむものの望はとこしへに滅ぶるにあらず」 詩篇9:18 明治文語訳聖書
「貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。」 口語訳聖書
「悩む人の望み」
悩む人の望みはいつまでもなくならない。悩みが深ければ望みは高い。望みが消えることのない悩みは神から来る。悩みから希望が見出せないのは、それが神から来たと信じることがないからである。
(†心のデボーション01467)
† 心のデボーション 01468
「視よ我は斯觀たり 人の身にとりて善かつ美なる者は 神にたまはるその生命の極食飮をなし 且その日の下に勞して働ける勞苦によりて得るところの福禄を身に享るの事なり是その分なればなり」 伝道5:18 明治文語訳聖書
「見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである」 口語訳聖書
「石臼芸、茶臼芸」
茶臼芸ということばがあるという。石臼は何でも引けるが粉が荒いところから、何でもこなすが上手くないのを「石臼芸」で、茶臼は細かさを求める茶を引くことができて、一つだけを得意とする芸を「茶臼芸」というのだそうである。一芸に秀でているが潰しはきかない。芸事はその両方があって面白いのかもしれない。
(†心のデボーション01468)
† 心のデボーション 01469
「わが時はすべてなんぢの手にあり ねがはくはわれを仇の手よりたすけ われに追迫るものより助けいだしたまへ」 詩篇31:15 明治元訳聖書
「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』」 新改訳聖書
「水時計」
水時計が使われた時代には、時間を浪費するのを「水を失う」と表現した。物思いにふけるのは「水を止める」である。
時は一方的に流れるものではなく、必要なら止めることも、増やすことも、盗むことも、残りを測ることもできた。
時計がほっておいても自分で充電したり、いつの間にか正確な時刻に修正したりするようになってからし、時は人を無視するようになってしまったのかもしれない。水時計のような腕時計は作れないものだろうか。
神の手にある時は水時計のほうがより正しく知ることができるようだ。
(†心のデボーション01469)
† 心のデボーション 01470
「なんぢの手はわれを造りわれを形づくれり ねがはくは智慧をあたへて我になんぢの誡命をまなばしめたまへ」 詩篇119:73 明治文語訳聖書
「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください」 新改訳聖書
「あなたの御手が私を造り」
彫刻家は木や石から余分な部分を取り除くように鑿をあてる。木や石の塊のなかに閉じ込められた美しい像を取りだすように彫り進める。
神はそのようにして、土塊の中から私を取りだされたのだろうか? 私が生まれる前に、すでに私は神の中にいたのである。
(†心のデボーション01470)
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