心のデボーション146

デボーション1
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† 心のデボーション 01451

「事を隱すは神の榮譽なり 事を窮むるは王の榮譽なり」 箴言25:2 明治元訳聖書

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」 新改訳聖書

 「ことを隠される神」

神は「ことを隠す神」である。「隠されたこと」は神のものである。「隠されたこと」は神が「現わされる」まで神に委ねよ。(マタイ6:6)

(†心のデボーション01451)

† 心のデボーション 01452

「我子よ汝の父の誡命を守り 汝の母の法を棄る勿れ」 箴言6:20 明治元訳聖書

「わが子よ、お前の父の命令を守り、母のおしえをなおざりにするな。」 フランシスコ会訳聖書

 「カマキリの産卵」

カマキリは秋にその冬の雪に埋もれない高さの枝に卵を産むという。卵を産んだら死んでしまうカマキリは、どのようにして自分の死後おとずれる雪の高さを予想できるのだろうか。

母親は未だ見ぬわが子の経験する世界に備えて子どもを育てようとする。

(†心のデボーション01452)

† 心のデボーション 01453

「汝等しづまりて我の神たるをしれ  われはもろもろの國のうちに崇められ全地にあがめらるべし」 詩篇46:10 明治元訳聖書

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」 口語訳聖書

 「しづまりて」

「もし、ほんとうに祈りたいのなら、まず、聴くことを学ばなければなりません。心の静けさの中で神は語りかけられるのです」(マザー・テレサ 「日々のことば」)

聴くために耳をすませるとき、私の心はいつも静かである。だが、何も聞こえない静寂さは私を不安にする。

(†心のデボーション01453)

† 心のデボーション 01454

「女おそれ戰き、己が身になりし事を知り、來りて御前に平伏し、ありしままを告ぐ。」 マルコ5:33 大正文語訳聖書

「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」 口語訳聖書

 「ありのままに」

仏教の「無為」は何もしないことではなく、あるがままに手を加えないことである。「あるがままに手を加えない」ことをしている。

無為の反対語は「有為(うゐ)」であり、余計なことをして無為のリズムを壊すことを意味する。

イエスに癒された悩みを抱える女はこれまでのことを「余すところなく」イエスに告げた。「余すところなく」は「ありのままに、手を加えずに」の意味である。

(†心のデボーション01454)

† 心のデボーション 01455

「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書

「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書

 「慟哭の声」

人々はラマで「慟哭 (どうこく)」の声を聞いた。

「慟哭」の「慟」は「心」+「動」で、身体を上に下に激しく動かして泣くこと。「哭」は「口」が二つに「犬」と書き、犬は元々激しく吠える動物で、その口が二つで、「はばかることなく激しく泣く」こと。子を失った母の悲哀の声である。

(†心のデボーショ 01455)

† 心のデボーション 01456

「列王の書の註釋に記さる」 Ⅱ歴代誌24:27 明治元訳聖書

「列王の書の注釈にしるされている。」 新改訳聖書

 「ミドラシ」

「註釋 ‎מִדֲרָשׁ ミドラシ midrash」は「調査、捜査」の意味である。ユダヤ教の聖書分析は「ミドラシ」と呼ばる。英語の「注解 exgesis (語源 ギリシャ語 ἐξήγησις )」は同様の意味をもつラテン語から来ている。

聖書は注意深い「調査、捜査」によって意味を調べなければならない書である。

(†心のデボーション01456)

† 心のデボーション 01457

「神光を晝と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり」 創世1:5 明治元訳聖書

「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」 新共同訳聖書

 「夜と昼」

神は光を呼び出され、「光」を「昼」と、「闇」を「夕」と名づけられた。「夕」と「昼」は連続しながら、「夕」として、また「昼」として、それぞれにある。

「活動の昼」と「静まりの夜」にそれぞれの勤めがあり、それによって一日が成り立つ。昼には昼のいのち、夜には夜のいのちがある。

(†心のデボーション01457)

† 心のデボーション 01458

「心の苦みは心みづから知る其よろこびには他人あづからず」 箴言14:10 明治元訳聖書

「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない」 新改訳聖書

 「苦しみと喜びと」

人は知るということを求める。しかし、知らなければよかったということも少なくない。知った後のことも知っておかなければならないが、多くは知ってしまってからのことで、取り返しはつかない。

自分自身の苦しみを知る人は、自分自身の喜びも知っている。苦しみを知る人は喜びも知るのである。

(†心のデボーション01458)

† 心のデボーション 01459

「外にて汝の工をととのへ田圃にてこれを自己のためにそなへ 然るのち汝の家を建よ」 箴言24:27 明治元訳聖書

「お前の外での仕事をよく果たし、お前の畑をよく耕作し、その後で、お前の家を建てよ」 フランシスコ会訳聖書

 「家を建よ」

「外にて汝の工をととのへ田圃にてこれを自己のためにそなへ」、しかる後「汝の家を建よ」と言われている。

この箴言は今は「まずローンで家を建て、しかるのち外にて工をととのえ、田園を自己のためにそなえる」逆転して読まれる。家の支払いのために長い労働の日々がある。しかし、それで自己のための田園はととのうだろうか? そのため家に家の喜びなんく、工に工の喜びをうしなったのではないだろうか。

(†心のデボーション01459)

† 心のデボーション 01460

「わが子よ惡者なんぢ誘ふとも從ふことなかれ」 箴言1:10 明治元訳聖書

「わが子よ、たとえ罪人どもが、お前をそそのかしても、その手に乗るな」 フランシスコ会訳聖書

 「誘惑を楽しむ心」

「誘惑に陥る」のは、誘惑を楽しむ心が働いていることがある。「誘惑者」は誘惑されたがる心にささやくのである。「誘惑」には耳を塞いで逃げることだ。

(†心のデボーション01460)

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