† 心のデボーション 01431
「然どヱホバ言たまふ 今にても汝ら斷食と哭泣と悲哀とをなし心をつくして我に歸れ」 ヨエル2:12 明治元訳聖書
「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」 新改訳聖書
「わたしに到達しなさい」
「立ち返る」は「そこに到達する」という強い言葉である。
涙で目がかすみ、石に足をとられてつまずいても、「わたしに到達しなさい」と神は語られる。
神に到達するのは「心を引き裂かれた人」である。
道は遠くはない。神はすでに私に到達しておられるからである。
神の到達に気づけばよい。
(†心のデボーション01431)
† 心のデボーション 01432
「其曠野においてイスラエルの全會衆モーセとアロンに向ひて呟けり」 出エジプト16:2 明治文語訳聖書
「そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。」 新改訳聖書
「朝腹」
「あさっぱらから大きな声をだすな」の「あさっぱら」は「朝腹」で、朝食前の空腹の状態の意味だという。空腹のときはいらいらしやすく、つい声がおおきくなるようだ。
イスラエルの民の「つぶやき」は空腹と無関係ではない。信仰が試みられる「朝腹」もある。
(†心のデボーション01432)
† 心のデボーション 01433
「ヘロデの死ぬるまで彼處に留りぬ」 マタイ2:15 大正文語訳聖書
「ヘロデが死ぬまでそこに留まった」 フランシスコ会訳聖書
「和解なく」
ヨセフとマリヤは「ヘロデが死ぬまで」エジプトに留まった。二度とそこに戻ることのできない関係というものがある。ここには「話せばわかる」という思考はない。神が二つを隔てられたのだ。和解なく過ごさなければならない時である。
(†心のデボーション01433)
† 心のデボーション 01434
「これ汝の首の美しき冠となり 汝の項の妝飾とならん」 箴言1:9 明治元訳聖書
「それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」 新改訳聖書
「美しき冠」
「父の訓戒」と「母の教え」を捨ててはならない。それは「これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける」(箴言7:22 新改訳聖書)からである。「それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。」(箴言6:21 新改訳聖書))
(†心のデボーション01434)
† 心のデボーション 01435
「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書
「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け」 新共同訳聖書
「神の創造」
人は神に「創られたもの」であり、そして「創られるもの」である。「生まれたもの」であり、また「生まれるもの」である。人は神の創造とともにあり、創造そのものであり、そして創造であり、よきものである。
(†心のデボーション01435)
† 心のデボーション 01436
「ヱホバよなんぢ惠をもてわが山をかたく立せたまひき 然はあれどなんぢ面をかくしたまひたれば我おぢまどひたり」 詩篇30:7 明治元訳聖書
「主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせて下さいました」 新改訳聖書
「私の山」
作者は神が「私の山」を強く立たせて下さったと歌う。
「私の山」とは、揺るがず、さわがない心である。
作者は「私の山」に登り、そこで祈る。
祈りは人を深く高い山に導く。そこで神は私に「心をさわがしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と語られる。
心は山のようにすべてを受け入れ、そして揺るがない。
(†心のデボーション01436)
† 心のデボーション 01437
「時に彼婦その衣を執て我といねよといひければヨセフ衣を彼の手に棄おきて外に遁いでたり」 創世記39:12 明治元訳聖書
「ヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」 新改訳聖書
「ひたすら逃げる」
ヨセフはポティファルの妻から誘惑された時、上着を彼女の手に残して外に逃げた。この上着が疑われて、ヨセフは投獄される。
人生には、ただひたすらに逃げるしかないこともおこる。その時には「上着」を置いても逃げること。「上着」を取りに戻ったばかりに、人生を失うこともある。
ヨセフは獄につながれたが、やがて、そうしたことがヨセフをエジプトの王パロに導くのである。
(†心のデボーション01437)
† 心のデボーション 01438
「われ詰朝おきいでて呼はれり われ聖言によりて望をいだけり」 詩篇119:147 明治文語訳聖書
「私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。」 新改訳聖書
「夜明け前」
「明日」は「明け方」からきており「朝(あくる朝)」の意味で、「宵(よい)」「夜中(よなか)」「暁(あかとき)」の次に来るのが「朝(あした)」である。
「明日を思う」は次第にあけてゆく朝への期待であろう。
作者は夜明け前におきて祈り、あけてゆく朝の光のなかに神を待ち望む。それが作者のいきる「明日」であった。
(†心のデボーション01438)
† 心のデボーション 01439
「ヘロデの死ぬるまで彼處に留りぬ」 マタイ2:15 大正文語訳聖書
「ヘロデが死ぬまでそこに留まった」 フランシスコ会訳聖書
「呼ぶ者」
イエスはエジプトから「呼び出され」た。(マタイ2:15)神は「エジプト」のイスラエルを「呼ばれた」が、彼らはいよいよ「その呼者(よぶもの)に遠ざかった」(ホセア11: 2)
神は人をあるべき「私」に呼ばれる。しかし、人は神が呼べば呼ぶほど、自分という存在から遠ざかり、己の偶像に香を焚く。
「イスラエルの幼かりしとき我これを愛しぬ我わが子をエジプトより呼いだしたり かれらは呼るるに隨ひていよいよその呼者(よぶもの)に遠ざかり且もろもろのバアルに犠牲をささげ雕たる偶像に香を焚(たけ)り」 ホセア11:1~2 明治元訳聖書
(†心のデボーション01439)
† 心のデボーション 01440
「これ汝の首の美しき冠となり 汝の項の妝飾とならん」 箴言1:9 明治元訳聖書
「それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」 新改訳聖書
「朽ちることのないいのち」
「たましいのいのち」(箴言3:21~22)はたましいの内を飾る「柔和な穏やかな霊」である。「すぐれた知性と思慮」に生きる人はたましいを美しく保つ人である。
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」 Ⅰペテロ3:3~4 新改訳聖書
(†心のデボーション01440)
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