心のデボーション143

デボーション1
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† 心のデボーション 01421

「神汝等が之を食ふ日には汝等の目開け汝等神の如くなりて善惡を知に至るを知りたまふなりと」 創世3:5 明治文語訳聖書

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 新改訳聖書

 「目が開ける」

「目が開ける」とはそれまで見えなかったものが見えるということである。見てはいるが認識できていないことを見えるようになるということである。

しかし、エバが知ったのは、それまで見えていたものが見えなくなり、別の光景に見えるようになったことであった。サタンは人間に常にその誘惑をもちかける。

(†心のデボーション01421)

† 心のデボーション 01422

「これ汝の首の美しき冠となり 汝の項の妝飾とならん」 箴言1:9 明治元訳聖書

「それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」 新改訳聖書

 「銀をちりばめた金の飾り輪」

雅歌は恋人が愛する者に「銀をちりばめた金の飾り輪」を「あなたのために作ろう」という。(雅歌1:11)

「美しきもの」をもって愛する者の首を飾るのは楽しい。彼は「愛する者の美しさ」を見出すことを誰よりも喜ぶのである。「頭の麗しい花輪、あなたの首飾」はあなたを愛する者によって作り出される。

(†心のデボーション01422)

† 心のデボーション 01423

「かかる人は水流のほとりにうゑし樹の期にいたりて實をむすび 葉もまた凋まざるごとく その作ところ皆さかえん」 詩篇1:3 明治文語訳聖書

「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」 新共同訳聖書

 「流れのほとり」

シラ書ば、知恵とは「いと高き所におられる神の御言葉」と告げる。

「〔知恵の泉は、いと高き所におられる神の言葉、知恵の歩みは永遠の掟である。〕」 シラ書1:1 フランシスコ会訳聖書

神の御言葉は泉のように常に新鮮に湧きあがる。その流れのほとりに住む者は、渇きを覚えず、うちしおれて枯れることがない。

「主よ、あなたの定めの道をわたしに教えてください。わたしは終りまでこれを守ります」 詩篇119:33 口語訳聖書

(†心のデボーション01423)

† 心のデボーション 01424

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」 新共同訳聖書

 「赤っ恥」

「赤っ恥」の「赤」は「かくすことがない」の意味で、人前で隠れることもできない人前でかく「恥」である。

「恥」そのものよりも、「人の前でかかせられる恥」が問題なのだ。「恥ずべき事」をしても「人の目」がなければさほど悩まない。しかし、聖書は人よりも神の前の私を問うのである。神は隠れたところにおられ、隠れたことを見給う神である。罪は「赤っ恥」どころではない。

(†心のデボーション01424)

† 心のデボーション 01425

「されど汝らはラビの稱を受くな、汝らの師は一人にして、汝等はみな兄弟なり」 マタイ23:8 大正文語訳聖書

「あなたがたはみな兄弟だからです」 新改訳聖書

 「本当の自分」

どうしてもこの人とはうまくやっていけないと感じる人間関係ができてしまうこともある。それも一人ではなく何人かの顔が浮かぶ。

大切なことは、自分には、ある人々に対する特別な姿勢というものがある、そういう自分を自分として了解することである。

うまくいったり、いかなかったりする、その関係をごまかさずに生きていく、それが本当の自分ではないか。彼も又、兄弟なのである。                          

(†心のデボーション01425)

† 心のデボーション 01426

「ヘロデの死ぬるまで彼處に留りぬ」 マタイ2:15 大正文語訳聖書

「ヘロデが死ぬまでそこに留まった」 フランシスコ会訳聖書

 「派遣と拒絶」

神は救い主イエスを送られたがヘロデは拒絶し、イエスは逃亡者としてエジプトに追いやられる。神はそのイエスをエジプトから再びイスラエルに連れ戻されるが、エルサレムは拒否する。神と人間のあいだに繰り返される神の派遣と拒絶はそのままに「私」と神の間の緊張関係である。人は拒みながら受け入れ、望みながら拒む。

(†心のデボーション01426)

† 心のデボーション 01427

「おほよそ四十年のあひだ、荒野にて彼らの所作を忍び」 使徒13:18 大正文語訳聖書

「そして約四十年間、荒野で彼らを養われました」 新改訳聖書

 「耐え忍ぶ」

「養われた」は「耐え忍ばれた」と読むこともできる。

イスラエルは四百年間エジプトに奴隷として滞在し、その後、四十年間荒野を放浪する。イスラエルが困難な状況にある間、神も「その在り方」を耐え忍ばれる。

相手を変えようとせず、その在り方を共に耐え忍ぶことが、たましいの「養い」である。

「愛はすべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」

(†心のデボーション01427)

† 心のデボーション 01428

「世は去り世は來る 地は永久に長存なり」 伝道1:4 明治元訳聖書

「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない」 新改訳聖書

 「地は変わることなし」

伝道者は「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない」(伝道1:4 新改訳聖書)と語り、「先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。」(伝道1:11 新改訳聖書)と告げる。

人か記憶するのは「先におこったこと」ではなく「次に来るもの」なのだ。しかし、それが「先におこった」と思うことで人は明日を生きるのであろう。現在は過去の新たな瞬間であり、未来の流入である。

人は変わりながら生きる。記憶も変わりながら地はいつまでも変わることがない。

(†心のデボーション01428)

† 心のデボーション 01429

「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け」 新共同訳聖書

 「神の光」

「光」は「いのち」を生む。この「光」は絆を生み出す力である。

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」 詩篇36:9

(†心のデボーション01429)

† 心のデボーション 01430

「これ汝の首の美しき冠となり 汝の項の妝飾とならん」 箴言1:9 明治元訳聖書

「それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」 新改訳聖書

 「すぐれた知性と思慮」

人の首を美しく飾る「冠」とは「すぐれた知性と思慮」である。「すぐれた知性と思慮」は「たましいのいのち」である。

「わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。」 箴言3:21~22 新改訳聖書

(†心のデボーション01430)

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