心のデボーション142

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 01411

「ヱホバなんぢの憂と艱難とをのぞき 亦なんぢが勤むるからき役をのぞきて安息をたまふの日 」 イザヤ14:3 明治文語訳聖書

「主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせる日に、」 新改訳聖書

 「母親の不安」

母親が自分の不安から逃れるために、我が子にすがると、子どもは不幸になる。子どもが思うようにならないと腹を立て、怒りを子どもにぶつけるようになるからである。子どもは親の代理品ではない。

人の痛み、激しい怒りを除かれ、魂に平安を与えられるのは神である。

(†心のデボーション01411)

† 心のデボーション 01412

「愚なる者の口にはその傲のために鞭笞あり 智者の口唇はおのれを守る」 箴言14:3 明治文語訳聖書

「愚かな者の言葉は自分の背にむちを当てる、知恵ある者のくちびるはその身を守る」 口語訳聖書

 「あかんべえ」

落語の「蒟蒻問答」ではこんにゃく屋の親父が寺で修行僧に指で下瞼を押し下げて「あかんべえ」をするのを「三尊の弥陀は目の下にあり」と勘違いする。

「あかんべえ」眼球の下の赤い部分を見せて、侮辱の意をあらわす行為である。大人がやることではないが、大人がやると思わぬ勘違いを招くことがある。しかし、それはあくまでも誤解である。

(†心のデボーション01412)

† 心のデボーション 01413

「ヨセフ起きて、夜の間に幼兒とその母とを携へて、エジプトに去りゆき」 マタイ2:14 大正文語訳聖書

「ヨセフは起きて、夜のうちに幼な子とその母とを連れてエジプトに逃れ」 フランシスコ会訳聖書

 「直ちに従う」

ヨセフは夜夢で主の使いからヘロデ王の幼児殺害の動きのあることを知らされた。目覚めた時はまだ夜も明けぬ時刻だったが、「その夜のうちに」妻マリヤと赤子のイエスを連れてエジプトに逃れた。

かつてマリヤの身ごもりに逡巡していたヨセフはここにはいない。

慎重な人は大胆に信じることができる。

(†心のデボーション01413)

† 心のデボーション 01414

「我はおのれの榮光を求めず、之を求めかつ審判し給ふ者あり」 ヨハネ8:50 大正文語訳聖書

「わたしはわたしの栄誉を求めません」 新改訳聖書

 「過剰反応」

自分の仕事が正しく評価されないと感じると腹が立つものである。これまで頑張ってきたのは何だったのかと、自尊心を傷つけられ、力が抜ける。

低い評価は、自分の仕事が正しく相手に表現されていないからかもしれない。又は、それは仕事の一部に向けられたもので、仕事全体への評価ではないのかもしれない。

他人の評価に過剰に反応しないのが正しい。

(†心のデボーション01414)

† 心のデボーション 01415

「エフライムは智慧なくして愚なる鴿のごとし」 ホセア7:11 明治文語訳聖書

「エフライムは知恵のない愚かな、はとのようだ」 口語訳聖書

 「セミのオス」

哲学者アリストテレスは「セミのオスは幸いである。なぜなら彼らの妻たちは何もしゃべらないからだ」と言ったという。これを読んだ世の妻たちは「セミのメスは幸いである。なぜなら彼らの夫たちはただわめきちらすだけで満足するのだから。こちらは黙ってさえいりゃあいいのさ」と反撃するかもしれない。

(†心のデボーション01415)

† 心のデボーション 01416

「アブラハム其生れたる子即ちサラが己に生る子の名をイサクと名けたり」 創世記21:3 明治元訳聖書 

「アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた」 新改訳聖書

 「望まれた子」

男の子を期待するあまりに、産着からオモチャまですべてを男の子用にそろえたのに生まれたのは女の子で、父親は落胆して病院で子どもの顔も見ないで帰ってしまった「それがあなた」。こういう誕生の話を聞かせられると、子どもは自分をアテ外れの子と思うようになる。自分は生きるに値しないという思いが人生を生きづらくする。

アブラハムは生まれた子にイサク「彼は笑う」と名づける。望まれて生まれた、喜びの子だったからである。         

(†心のデボーション01416)

† 心のデボーション 01417

「これ汝の首の美しき冠となり 汝の項の妝飾とならん」 箴言1:9 明治元訳聖書

「それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」 新改訳聖書

 「かくれた内なる人」

「たましいの美しき人」とは「かくれた内なる人」が「柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につける人」のことである。

「かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである」 Ⅰペテロ3:4 口語訳聖書

(†心のデボーション01417)

† 心のデボーション 01418

「然るに我らの先祖たちは此の人に從ふことを好まず、反つて之を押退け、その心エジプトに還りて、」 使徒7:39 大正文語訳聖書

「ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、」 口語訳聖書

 「あこがれ」

エジプトを脱出したイスラエルの民はモーセに従うことを拒み、心の中にエジプトにあこがれた。

日本語の「あこがれる」は「あるべき所から離れる」が原意であるという。

あることに強くあこがれると、自分から魂が離れて、心が奪われて落ち着かなくなる。

古語で「あくがる」は魂が身から離れて彷徨う様をいう。心にひかれながらも、近づくことのできないのはひたすら苦しい。

(†心のデボーション01418)

† 心のデボーション 01419

「世の人に臨むところの事はまた獣にも臨む この二者に臨むところの事は同一にして是も死ば彼も死るなり 皆同一の呼吸に依れり 人は獣にまさる所なし皆空なり」 伝道3:19 明治元訳聖書

「両方とも同じ息を持っている」 新改訳聖書

 「神のルーアッハ」

「他人のいのちはアリやゴキブリと同じ、僕のいのちは大事」と少年は語り、それを証明するかのように友人を殺した。

伝道者も「人も動物も同じ息を持っている」と語る。しかし、少年と伝道者のことばは全く別のものである。

確かに人のいのちは虫や獣と同じものである。しかし、伝道者はそのむなしさ、はかなさの中に、神の「ルーアッハ 息、霊」を見るのである。

(†心のデボーション01419)

† 心のデボーション 01420

「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け」 新共同訳聖書

 「光よあれ」

「ヤコブの家よきたれ 我儕ヱホバの光にあゆまん」 イザヤ2:5 明治元訳聖書

イザヤは「さあ、主の光の中を歩もう」とヤコブの家に呼びかける。

どれほどの闇の中にも、神は「光よあれ」と語り給う。そして、どれほどの闇の中にも「光」はあり、光と闇は分かたれる。

(†心のデボーション01420)

コメント