心のデボーション141

デボーション1
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† 心のデボーション 01401

「かかる人はヱホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ」 詩篇1:2 明治元訳聖書

「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」 口語訳聖書

 「思いを巡らす」

教えは口ずさむことによって心に入る。

文語訳は「口ずさむ」を「これを思う」と訳す。ヘブル語の「口ずさむ」は「思いを巡らす」という意味を含む言葉である。「口にあげる」は「思いに沈める」である。主の教えが栄えとも喜びともならないのは、「沈め」が充分でないからかもしれない。つまり、水脈にとどかないのである。

(†心のデボーション01401)

† 心のデボーション 01402

「われ知る我を贖ふ者は活く 後の日に彼かならず地の上に立ん」 ヨブ19:25 明治文語訳聖書

「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」 口語訳聖書

 「赤の他人」

縁もゆかりもない人のことを「赤の他人」というが、この「赤」は「はっきりした」「まったくの」を意味するという。言われる方は冷たく突き放された気持ちになる。

「赤の他人」として無視されることは、対立することよりもつらい。

ヨブから親族は近寄らなくなり、親しい友やヨブを忘れられた。(ヨブ記19:14) しかし、ヨブは「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる」と告白する。

人は私を「赤の他人」と呼ぶことがあっても、神は決して私を「赤の他人」とはなさらない。

(†心のデボーション01402)

† 心のデボーション 01403

「その衆子は起て彼を祝す その夫も彼を讃ていふ」 箴言31:28 明治文語訳聖書

「その子らは立ち上がって彼女を祝し、その夫もまた彼女をほめたたえて言う」 口語訳聖書

 「夜泣き」

若い両親にとって子育ての苦労の最初は赤ちゃんの夜泣きかもしれない。

佐々木正美さんによれば、「夜泣きの多い赤ちゃんに「いいよ。泣きたいだけ泣きなさい。あなたのために私がいるのですよ」といってあげられるお母さんの赤ちゃんは、すぐに泣き止むという。しかし、「ねむいのにまたおこされた」と感じていらいらしていると、ますます泣き続ける。(佐々木正美 「子どもへのまなざし」より)

ある説によると、赤ちゃんは「母親や父親のいらいら感を煽るために泣く」という。何とかしなければという母親・父親の注意を自分に集めることで生き残るための手段なのだという。

こうして、赤ちゃんは若い母親と父親に、家族というものの在り方を問うのだろうか。

(†心のデボーション01403)

† 心のデボーション 01404

「ヨセフ起きて、夜の間に幼兒とその母とを携へて、エジプトに去りゆき」 マタイ2:14 大正文語訳聖書

「ヨセフは起きて、夜のうちに幼な子とその母とを連れてエジプトに逃れ」 フランシスコ会訳聖書

 「逃れる」

ヨセフとマリヤは幼子とともにエジプトに逃げた。信仰はいかなるものにも顔をそむけはしない。しかし、いかなるものからも「逃げない」という信仰はあぶない。

だからといって、危険を避けようとして、いかなるものに対して慎重であればよいのでもない。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということもある。

(†心のデボーション01404)

† 心のデボーション 01405

「人たちて爾を追ひ爾の生命を求むれどもわが主の生命は爾の神ヱホバとともに生命の包裏の中に包みあり爾の敵の生命は投石器のうちより投すつる如くヱホバこれをなげすてたまはん」 Ⅰサムエル25:29 明治元訳聖書

「ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており」 新改訳聖書

 「いのちの袋」                               

ナバルの妻アビガイルは「神はダビデをいのちの袋にしまわれている」と語る。このところを文語訳は「命の包裏の中に包みあり」と訳す。包裏とは衣類などを包む風呂敷のようなものである。神が「いのちの袋」に包みあるいのちを、生きるに価しないとどうして言えるだろうか。それを好きになれないなどと、どうして言えようか。

(†心のデボーション01405)

† 心のデボーション 01406

「主は暗にある隱れたる事を明かにし、心の謀計をあらはし給はん。その時おのおの神より其の譽を得べし。」 Ⅰコリント4:5 大正文語訳聖書

「主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」 口語訳聖書

 「あからさま」

古語の「あからさま」は本来の意味は「にわかに、かりそめに、一時的に」で、そこから「あらわに、あきらかに」の意味にもちいられるようになった。

この世は、何事も「あらわに、あきらかに」ならないうちに「かりそめに」消えていくようだ。その場しのぎの仮の生き方はあっけなく過ぎていく。

(†心のデボーション01406)

† 心のデボーション 01407

「これ汝の首の美しき冠となり 汝の項の妝飾とならん」 箴言1:9 明治元訳聖書

「それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」 新改訳聖書

 「魂の美しき人」

「父母の教えと訓戒」は、「たましいのいのち」(箴言3:22)、「栄光の冠」(箴言4:9)である。それらはまことに美しく、麗しい。「魂」の美しき人でありたい。

「わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、それをあなたの目から離してはならない。それはあなたの魂の命となりあなたの首の飾りとなる」 箴言3:21∼22 口語訳聖書

(†心のデボーション01407)

† 心のデボーション 01408

「我了れり 婦人のその心羅と網のごとくその手縲絏のごとくなる者は是死よりも苦き者なり 神の悦びたまふ者は之を避ることを得ん罪人は之に執らるべし」 伝道7:26 明治文語訳聖書

「わたしは、その心が、わなと網のような女、その手が、かせのような女は、死よりも苦い者であることを見いだした。神を喜ばす者は彼女からのがれる。しかし罪びとは彼女に捕えられる」 口語訳聖書

 「モグラの穴」

モグラはミミズを探して穴を掘るのではなく、巣の回りに適当に穴を掘って、穴に落ちたミミズの音を聞きつけてミミズをとるのだそうである。いわば、蜘蛛が糸を張って犠牲者を待つようなやり方である。

伝道者は「その心が、わなと網のような女、その手が、かせのような女」は「死よりも苦い」と言う。女ばかりでなく、男にもそのような者がいる。モグラのように巣の中で穴にかかる獲物をじっと待ち構えているのだ。

(†心のデボーション01408)

† 心のデボーション 01409

「かく苦心するは、彼らが心慰められ、愛をもて相列り、全き穎悟の凡ての富を得て、神の奧義なるキリストを知らん爲なり」 コロサイ2:2 大正文語訳聖書

「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである」 口語訳聖

  「愛の結び」

人に迷惑をかけないという心がけは立派である。相手が傷つくかもしれないと、自分の主張も取り下げるような心の優しい人である。

しかし、それを唯一の信条にして頑張ると、さみしい生き方にならないだろうか。

人は誰かに迷惑をかけながらでなければ生きらない。お互いが自分をさらけ出して、それでも一緒に生きることができるのなら、多少の迷惑は構わない。それが愛の結びである。

(†心のデボーション01409)

† 心のデボーション 01410

「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け」 新共同訳聖書

 「光のある間に」

主を仰ぐ者は「光を得」、その顔は「光り輝く」。(詩篇34:5)

ですから、「あなたがたに光のある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」。(ヨハネ12:36)

(†心のデボーション01410)

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