心のデボーション140

デボーション1
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† 心のデボーション 01391

「又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり」 マタイ6:28 大正文語訳聖書

「着る物のことをなぜ思い煩うのか。野のゆりがどのように育つかをよく見なさい。ほねおることも、紡ぐこともしない」 フランシスコ会訳聖書

 「野菊」

道端で野菊を見つけた。秋には淡紫の花が咲くだろう。野菊は温室では育てられない。野の花は野が育てる。

苦しみのとき、苦しみが人を育てる。苦しみに身を委ねると、いつか、野菊のような花が咲く。

道行く人は、きっと、その花に足を止めるだろう。人は、人の手で育てられるものではない。

(†心のデボーション01391)

† 心のデボーション 01392

「堅き食物は智力を練習して善惡を辨ふる成人の用ふるものなり。」 ヘブル5:14 大正文語訳聖書

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です」 新改訳聖書

 「折紙つき」

昔、横半分に折った紙に記された文書のことを「折紙」といい、江戸時代には刀剣や美術品のの鑑定書につかわれたところから、品質を保証することを「折紙つき」というようになった。

「折紙つき」だからといって鵜呑みにするのはどうだろうか。「折紙」を信じて間違いを犯すことはよくある。「折紙」よりも、見分ける目を養うことが本筋だろう。

(†心のデボーション01392)

† 心のデボーション 01393

「ロトの妻は後を回顧たれば鹽の柱となりぬ」 創世19:26 明治文語訳聖書

「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」 新共同訳聖書

 「恐怖物質」

日高敏隆さんの「ネコはどうしてわがままか」によれば、ヒキガエルのオタマジャクシは、敵に襲われると傷口から「恐怖物質」を放出し、それを感じ取ったオタマジャクシの群れは一斉に群れを解いて逃げ出すという。

人間の場合は、恐怖物質を感じて逃げ出すも、一目見たいという思いがあって、立ち止まってしまうところがある。ロトの妻はそれで塩の柱になってしまった。

(†心のデボーション01393)

† 心のデボーション 01394

「また女は恥を知り、愼みて宜しきに合ふ衣にて己を飾り、編みたる頭髮と金と眞珠と價貴き衣とを飾とせず」 Ⅰテモテ2:9 大正文語訳聖書 

「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り」 新改訳聖書

 「おしゃれ」

養老院を訪れた若い人がおばあさんに自分の口紅を塗ってあげると、おばあさんの表情が生き生きと変わっていくのが印象的だった。パウロは女性に「派手な髪の形をしないように」とすすめる。当時ローマで髪の毛を編んで頭に積み重ねるのが流行し、それを真似るユダヤ人女性がでてきたのを指しての言葉である。

女性が齢をとっても美しくおしゃれするのなら、パウロも喜ぶに違いない。

(†心のデボーション01394)

† 心のデボーション 01395

「信仰に由りてアベルはカインよりも勝れる犧牲を神に献げ、之によりて正しと證せられたり。神その供物につきて證し給へばなり。彼は死ぬれども、信仰によりて今なほ語る」 ヘブル11:4 大正文語訳聖書

「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」 新改訳聖書

 「最後の飛翔」

ベランダにオニヤンマを見つけた。だいぶ前に死んで、今はもうカラカラに干からびて軽い。そこに風が吹いて、オニヤンマは飛び立った。オニヤンマは、見事なバランスをとり、最後の飛行をした。誇り高いオニヤンマにふさわしく、気高く美しい滑空だった。

死して後、語り出すものがある。しかし、オニヤンマほどかっこよく最後の飛翔ができるか、自信がなくなった。

(†心のデボーション01395)

† 心のデボーション 01396

「ヘロデ幼兒を索(もと)めて亡さんとするなり」 マタイ2:13 大正文語訳聖書

「ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」 新共同訳聖書

 「自分の影」

ヘロデが王位を守るために徹底したことは「処刑と暗殺」であった。しかし、それだけでヘロデを「残忍な支配者」と決めつけるのは間違いである。ヘロデに「抹殺の意志」があったことは事実だが、それなくしては王位を維持することは難しいほどの陰謀がめぐらされていたのである。

周辺の諸国に飢饉がおこったときヘロデは寛大な支援を行っていることなどからも、ヘロデが単なる「残忍で狡猾な老人」ではなかったということもできるかもしれない。

ヘロデが心底怯えたのは「自分の影」に対してではなかったか。

一人の人間には正反対の側面が同量に含まれている。

(†心のデボーション01396)

† 心のデボーション 01397

「わが軛は易く、わが荷は輕ければなり』」 マタイ11:30 大正文語訳聖書

「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 新共同訳聖書

 「肩入れ」

昔、駕籠かきが重そうな客をかついで難儀しているのを見ると仲間が駆け寄って担ぎ棒に自分の肩を入れて手伝うのを「肩入れ」といった。これは見返りなど期待しない行為だったという。

イエスはしばしば私に「肩入れ」してくださるが、私がイエスに「肩入れ」することはめったにない。

「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(マタイ11:29 新改訳聖書)は、私にもイエスに「肩入れ」できるということか。

(†心のデボーション01397)

† 心のデボーション 01398

「わが告ぐるまで彼處に留れ」 マタイ2:13 大正文語訳聖書

「わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」 新共同訳聖書

 「盗賊ディスマス」

伝説によれば、ヨセフがマリヤと幼子イエスを伴ってエジプトに逃れる途中、ディスマスという名の強盗に襲われるが、ディスマスは幼子イエスを見て心を動かされ、ヨセフたちに危害を加えず、「もし、私に憐れみをかけてくださる時が来たらば、この時のことを忘れないでください」と言った。イエスと共に十字架につけられた二人の強盗の一人はこのディスマスで十字架の上でゆるしを得たという。(ルカ23:39~43)

(「ディスマス」は聖人名簿に載せるためにつけられた名前で、実際の名は不明であり、正教会では「右盗」と呼ばれる)

(†心のデボーション01398)

† 心のデボーション 01399

「死し蝿は和香者の膏を臭くしこれを腐らす 少許の愚癡は智慧と尊榮よりも重し」 伝道10:1 明治元訳聖書

「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる」 新改訳聖書

 「少しの愚痴」

「死んだハエ」は直訳で「死のハエ」でる。「毒バエ」のことかもしれない。このハエが香油に飛び込むと、せっかく調合した香油を臭くし、発酵させ、いやな香りにしてしまう。

「少しの愚かさ」は文語訳で「少しの愚痴」である。「愚痴」は香油に「死のハエ」を落とすようなもので、その人の香りを台なしにする。歯槽膿漏と同じで、本人にはわからないが、周囲の人には息をつまらせる悪臭である。

(†心のデボーション01399)

† 心のデボーション 01400

「觀よはらから相睦てともにをるはいかに善いかに樂きかな」 詩篇133:1 明治元訳聖書 

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう」新改訳聖書

 「共に暮らす楽しさ」

詩人は兄弟が「共に住む」ことは、「なんという幸せ、なんという楽しさ」と歌う。

幸せとか楽しさは夢のようなもので、そのとき記憶しておかないと、じきに消えてしまう。すべてが当たり前と考える人には、過ぎれば消えて何も残らない。

何が幸せか、それを決めるのは自分自身である。共に暮らす、ただそれが楽しいということを私たちはよく忘れる。         

(†心のデボーション01400)

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