心のデボーション139

デボーション1
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† 心のデボーション 01381

「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書

「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書

 「深淵と知恵」

「淵(わだ)תְּהוֹם テホーム」は「海、海の深み、深い水、水の湧き上がる深いところ、ヘブライ語「深い תְּהוֹם テホーム」は「混沌 カオス」を意味する。

「誰が、天の高さ、地の広さ、淵の深さを測り知ることができようか」 シラ書1:3 フランシスコ会訳聖書

シラ書1:3の「淵」はギリシャ語では「深淵と知恵」である。

「深い淵」は「知恵の深淵」であり、原初の世界を形づくる「智慧」である。

(†心のデボーション01381)

† 心のデボーション 01382

「起きて、幼兒とその母とを携へ、エジプトに逃れ」 マタイ2:13 大正文語訳聖書

「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ」 新共同訳聖書

 「旅人」

トーキー映画「独裁者」で、チャップリンは独裁者アデノイド・ヒンケルと瓜二つの床屋のチャーリーの二役を演じて、ヒトラーを痛烈に批判した。床屋のチャーリーはユダヤ人だった。

当時、多くのユダヤ人は子どもに床屋の技術を身につけさせたという。ハサミとクシさえあれば、世界のどこに逃げてもそこで商売して生きていけると考えてのことだった。ユダヤ人にとって教育とは、子どもに生きていく技術を身につけさせることである。

旅人のように生きなければ、一夜のうちにエジプトに逃れることはできない。

(チャールズ・チャップリンは映画の役割からユダヤ人説がうまれたが、床屋の仕事をしたことがあるもののユダヤ人ではない)

(†心のデボーション01382)

† 心のデボーション 01383

「わが告ぐるまで彼處に留れ」 マタイ2:13 大正文語訳聖書

「わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」 新共同訳聖書

 「留まれ」

「留」は「開きそうになる窓や戸を押さえて止めること」(『漢字源』学研)という。「止」は足の形で、じっと一所に止まること。

「留まれ」という声を聞いたら、はやる心を押さえて一所に足を置く。何もしないのではなく、留まるべき所に身を置く。なすべきことはそこにある。

(†心のデボーション01383)

† 心のデボーション 01384

「われヱホバを大によろこび わが靈魂はわが神をたのしまん そは我にすくひの衣をきせ義の外服をまとはせて 新郎が冠をいただき新婦が玉こがねの飾をつくるが如くなしたまへばなり」 イザヤ61:10 明治文語訳聖書

「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」 新改訳聖書

 「お仕着せ」

決まり切ったことを「お仕着せ」というが、「仕着せ」は江戸時代に主人から奉公人に季節に応じて着物を与えたことから来ている。奉公人に似合う着物を準備するのがよい主人だが、中には奉公人に無頓着な着物を支給する主人もいなくはない。

母親が果たせなかった服をわが子に着せようとするのも一種の「お仕着せ」である。迷惑をかけられる子どもはいつか母親の心を見抜く。

主は私に季節ごとに「救いの衣、正義の外套」をまとわせてくだる。

(†心のデボーション01384)

† 心のデボーション 01385

「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け」 新共同訳聖書

 「光と闇」

創造の第一日に「光」が創造される。

「光」は創造の力としてすべての業の初めに置かれる。

「闇」もまた神の創造である。「闇と光」は共に神の栄光をあらわす。

神の創造の始まるところに「光」ありて「闇」を照らす。

(†心のデボーション01385)

† 心のデボーション 01386

「ヱホバよわれ汝によりたのむ 願くはいづれの日までも愧をおはしめたまふなかれ なんぢの義をもてわれを助けたまへ」 詩篇31:1 明治文語訳聖書

「主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの義をもってわたしをお助けください」 口語訳聖書

 「神を見出すための道」

困ったら一人で悩むよりも、悩みを聞いてくれる人がいる方がよいのは当然である。問題は悩みを聞いてくれる人がなかなか見つからないことだ。

詩人は悩みの日に知人や隣人に近づいたが、彼らは彼を避けて逃げて行った。そして、ついに、真実の神に身を避け、魂を御手にゆだねる。

人の中に悩みを聞いてくれる人が見つからないのは、神を見出すための道なのかもしれない。

(†心のデボーション01386)

† 心のデボーション 01387

「愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり」 伝道3:8 明治元訳聖書

「戦うのに時があり、和睦するのに時がある」 新改訳聖書

 「左の頬」

イエス・キリストは、「左の頬を打つような者には右の頬も向けなさい」(マタイ5:39)と教えられた。しかし、家庭内暴力でこの教えを単純に実行するのは危険である。暴力という「悪」と戦うことをしない親を戦いの場に引きずり出そうとして子どもが暴力をふるう場合も少なくないからである。子どもの前に立ちはだかるために、右の頬を向けるということがされないと、この「戦い」は完結しないのかもしれない。

(†心のデボーション01387)

† 心のデボーション 01388

「智慧ある婦はその家をたて 愚なる婦はおのれの手をもて之を毀つ」 箴言14:1 明治文語訳聖書

「知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす」 新改訳聖書

 「おじゃん」

江戸の町は火事が多かった。火事を知らせるのは、火の見やぐらでうつ半鐘の音だった。情報によると、火元が遠い場合は「ジャーン、ジャーン、ジャ」と二つ半、近ければ「ジャン、ジャン、ジャン」の連打、消火されると「ジャン、ジャン」と2回だけ鳴らされたという。

当時の火消しは燃えている家を壊す方法で、大きな火災では周辺の家屋をすべて壊したという。火が消えて見ると何もかもが壊されて何も残っていないので、すべてを失うことを「おじゃんになる」という表現が生まれた。

今日の箴言は「無知な女は自分の手でそれをこわす」というが、無知な男も、しばしば、自分の家を「おじゃん」にする。

(†心のデボーション01388)

† 心のデボーション 01389

「しばらく臥し 暫らく睡り 手を叉きて又しばらく休む」 箴言24:33 明治元訳聖書

「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」 口語訳聖書

 「なまけ者」

心のエネルギーが無意識の世界に退行すると、人は意欲を失い、すっかり「なまけ者」になる。いつになったらやる気をおこしてくれるのかイライラさせられる。しかし、心配はいらない。彼は今、心に新しいエネルギーを充電しているのである。しばらくのまどろみが終われば動き出そう。いつになっても動き出さないのはただの「なまけ者」である。症状は似ているが、別のものである。

(†心のデボーション01389)

† 心のデボーション 01390

「この故に汝らは神の選民にして聖なる者また愛せらるる者なれば、慈悲の心・仁慈・謙遜・柔和・寛容を著よ」 コロサイ3:12 大正文語訳聖書

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい」 口語訳聖書

 「バハティの知恵」

鼻のない子象バハティは今も元気だ。象は地面の草を食べるのに長い鼻を使う。鼻のないバハティは自分のヒザを折ることを学んだ。自分がひざまずけばよかったのだ。

痛みのいくつかは、ヒザを折ることができないところからはじまる。ヒザを折ることが美しい知恵であることをバハティは教えてくれる。「幸運の子」という名前をもつバハティは「知恵の子」でもある。

(この後、しばらくしてバハティの行方は分からなくなってしまった。バハティは成人して良き伴侶と出会っただろうか。)

(†心のデボーション01390)

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