心のデボーション138

デボーション1
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† 心のデボーション 01371

「見よ。子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。」 詩篇127:3 大正文語訳聖書

「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」 新改訳聖書

 「内包されている知恵」

子どもは無知ではない。子どもが母の胎内にあるとき、すでに「主を畏れることのできる知恵」が形造られている。

「主を畏れることは、知恵の初め。知恵は信仰のある者とともに母の胎内で造られた」シラ書1:14 フランシスコ会訳聖書

母親は我が子にゆっくりと「内包されている知恵」が現れて来るのを期待をもって待てはよい。

(†心のデボーション01371)

† 心のデボーション 01372

「その去り往きしのち、視よ、主の使、夢にてヨセフに現れていふ『起きて、幼兒とその母とを携へ、エジプトに逃れ、わが告ぐるまで彼處に留れ。ヘロデ幼兒を索(もと)めて亡さんとするなり』」 マタイ2:13 大正文語訳聖書

「なんじの敵より、おのが身を遠く離せ。またなんじの友に心せよ」 ベン=シラの知恵6:13 日本聖公会訳

 「敵」

奇妙なことに、人は「敵」に近づきたがる。危険と知りながら関心を寄せる。「敵を愛する」はそういうことではない。そしてまた、「友」ならどんなに近づいてもよいものでもない。友は最も手ごわい敵に変わりやすい。敵から身を遠く離すだけでなく、友に心せよ。

(†心のデボーション01372)

† 心のデボーション 01373

「我なんぢらが杖とするパンを打くだかん時婦人十人一箇の爐にて汝らのパンを燒き之を稱りて汝らに付さん汝等は食ふも飽ざるべし」 レビ26:26 明治元訳聖書

「あなたがたは食べても、満ち足りない」 新改訳聖書

 「コーヒー」              

作家の吉村忍さんが、コーヒーをすすめても飲まなかったタイの老村長のお話をしている。老村長は、もし自分がコーヒーを飲んでその味が忘れられなくなって、また飲みたくなったら人に迷惑をかけるという。それは、人に迷惑をかけるかもしれないほどの食べ物があるということで、それほどに貧しいということなのだが、どこかうらやましい世界でもある。いつか口にしてみたい。

(†心のデボーション01373)

† 心のデボーション 01374

「ヱホバの基はきよき山にあり」 詩篇87:1 明治文語訳聖書

「主は聖なる山に基を置かれる」 新改訳聖書

 「祝福としての老い」

人は年齢を重ねるだけで「老いる」のではない。老いの祝福は貧富の差とも無関係である。

「主は聖なる山に基を置かれる」(詩篇87:1 新改訳聖書)

しっかり老いる人とは、神のいまず「聖なる山」を知った人のことであろう。彼は朝に夕に「聖なる山」にむかい祈る。

「主を畏れる者は、終わりを全うし、臨終の時には、祝福を受けるであろう」 シラ書1:13 フランシスコ会訳聖書

(†心のデボーション01374)

† 心のデボーション 01375

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書

「戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」 新改訳聖書

 「ひなおらび」

小鳥のヒナが母鳥からエサをもらおうと、大きく口をあけてにぎやかにさえずるのを「ひなおらび」という。「おらぶ」は大声で叫ぶこと。

祈りは時々「ひなおらび」だ。ただ、ききわけもなくさわぎたてる。

「同じことを、くり返して、ことば数が多ければ聞かれる」というのではなく、ただ神を慕っているのである。

(†心のデボーション01375)

† 心のデボーション 01376

「是等もまた智慧ある者の箴言なり 偏り鞫するは善らず」 箴言24:23 明治文語訳聖書

「これらもまた、知恵ある者による。さばくときに、人をかたより見るのはよくない」 新改訳聖書)

 「依怙贔屓」

「依怙贔屓」の「贔屓」は中国の伝説では霊力をもった河亀のことだという。「文選」の霊力をもった河亀が二つの山の間を掘り進め河を通したという故事から全力を尽くして事にあたることを「贔屓」という言葉が生まれたのだという。

「贔屓」には問題はないが、気に入った人だけに全力を尽くす「依怙贔屓」はうなずけない。

(†心のデボーション01376)

† 心のデボーション 01377

「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け」 新共同訳聖書

 「よきもの」

神が「光よ。あれ」と言われると光があった。神は光をご覧になり、それを「よし」とされた。

神は創造された世界に「よし」という意味を与えられる。

「光」は他の何ものかと比較して「よし」とされたのではない。創造された「光」が神の口から出た「御言葉」と寸分違わず存在し、その働きが創造の目的に適うことを「よし」とされた。

神は人を創造された。人間の存在の「よし」は、他の人間と比較して認められるのではない。創造の目的にかない、神のみことば通りの「私」として在ることが「よし」である。

人は「よきもの」として誕生し、意味とともに生きる存在である。

(†心のデボーション01377)

† 心のデボーション 01378

「耳は説話を辨へざらんや その状あたかも口の食物を味ふがごとし」 ヨブ記12:11 明治文語訳聖書

「口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか」 新改訳聖書

 「むらさき」

「醤油」を「むらさき」と呼ぶことがある。「むらさき」は枕草子「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」から来たという説がある。

「春の朝焼けに紫だちたる雲」と醤油の色を重ねたのだろうか。醤油の「むらさき」には他にも諸説あるが、枕草子に思いを置きつつ刺身などいただくのも悪くはない。

(†心のデボーション01377)

† 心のデボーション 01379

「愚なる者の口にたもつ箴言は酔へるものの刺ある杖を手にて擧ぐるがごとし」 箴言26:9 明治元訳聖書

「愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ」 新改訳聖書

 「愚か者の箴言」

「箴言 מִ֭שְׁלֵי マーシャール」を口にするのは智者だけではない。愚かな者も箴言を口にする。

「愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ」 箴言26:9 新改訳聖書

愚かな者が口にする箴言は「酔っ払いが振り回す棘」で、酔った勢いで、やたらと振り回すので思わぬ人を傷つける。彼は自分の箴言で人が傷つくのが面白くてしかたがないのだ。

(†心のデボーション01379)

† 心のデボーション 01380

「汝が生ながらふる日の間なんぢに當る事を得る人なかるべし我モーセと偕に在しごとく汝と偕にあらん我なんぢを離れず汝を棄じ 」 ヨシュア記1:5 明治文語訳聖書

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

 「エース」

チームの主力メンバーを「エース ace」という。「エース ace」は史上初のプロ野球の投手で、69試合投げて65試合に勝利投手になったエイサ・ブレイナード Asa Brainnard の「Asa」から、切り札になる人をエースと呼んだことから来ているそうである。

どの世界にもエースがいる。そしてどの世界にもエースを支えるメンバーがいる。

モーセはエースだったが、モーセを支えたヨシュアもエースだった。

(†心のデボーション01380)

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