心のデボーション136

デボーション1
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† 心のデボーション 01351

「かくて夢にてヘロデの許に返るなとの御告(みつげ)を蒙り、ほかの路より己が國に去りゆきぬ」 マタイ2:12 大正文語訳聖書

「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」 フランシスコ会訳聖書

 「御告げ」

「御告(みつげ)χρηματίζω  クレーマティゾー」は日本正教会訳では「黙示」と書いて「つげ」と読み、ラゲ訳は「示(しめし)」、永井訳「誥(つげ)」である。これに対して新改訳は「戒め」とし、詳訳聖書は「警告」の意味を加えている。

「誥」は言(ことば)+告(告る)で、上位の者から下の者への告知を意味する。天使がくだす布告文や高級官吏への辞令なども「誥 コウ」と呼ばれる。

最も大切な「戒め、警告」は神の「誥 コウ」として、「夢」という内的な営みの内に与えられる。

(†心のデボーション01351)

† 心のデボーション 01352

「なんぢ生命の道をわれに示したまはん なんぢの前には充足るよろこびあり なんぢの右にはもろもろの快樂とこしへにあり」 詩篇16:11 明治文語訳聖書

「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえに、もろもろの楽しみがある」 口語訳聖書

 「本当のこと」

事実を知っていても、それを本人が知りたがらないなら、伝えないのもやさしさではないか。本人が「知りたい」と言っても、それをうのみにするのも危険である。その言葉の裏に、本当のことを知った後への不安が隠されていることもあるからである。しかし、本人が知りたくなくても、知らせることがその人にとっての完成に欠かすことができないことなら、知らせるのがやさしさであろう。やさしさとは人を「いのちの道」にいざなうことなのだ。

(†心のデボーション01352)

† 心のデボーション 01353

「かくて夢にてヘロデの許に返るなとの御告(みつげ)を蒙り、ほかの路より己が國に去りゆきぬ」 マタイ2:12 大正文語訳聖書

「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」 フランシスコ会訳聖書

 「マギの遺骨」

イエスを見出したマギは別の道を通って「東の国」へ帰っていった。聖書はイエスを礼拝するためにエルサレムに現れたマギがどのような人物かについて詳しく語らず、その後のマギについても一切の言及はない。

伝説によれば、彼らはその後洗礼を受け、キリストの布教につとめたという。ドイツのケルン大聖堂 CologneCathedral  にはマギの遺骨を納めたという黄金の棺が安置されている。これは当時大聖堂の建設にはキリストやマリア、聖人等の遺物が必要だったため、ローマから運ばれたものとされている。

大聖堂の中で黄金につつまれた東のマギよりも、荒野に消えていったマギの後姿に会いたいものだ。

(†心のデボーション01353)

† 心のデボーション 01354

「我が子よ汝の父の敎をきけ 汝の母の法を棄ることなかれ」 箴言1:8 明治元訳聖書

「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな」 新共同訳聖書

 「父母の教えを捨てる」

「捨てる נטשׁ ナタシュ」は「追い出す、放っておく、退ける、見捨てる」で、「おろそかにすること」を意味する。「父母の教え」に逆らわなくてもそれを無視することは「逆らう」に等しい。

(†心のデボーション01354)

† 心のデボーション 01355

「わが皮は黑くなりて剥落ち わが骨は熱によりて焚け」 ヨブ30:30 明治文語訳聖書

「わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、わたしの骨は熱さによって燃え」 口語訳聖書

 「ゾンビ火災」

北極地方では原野火災の残り火が春の暑さと乾燥で再燃することを「ゾンビ火災」という。2019年にはシベリア(Siberia)とアラスカ(Alaska)で発生している。

一旦は消火されたように見えて、泥炭に火種が残っていて地下で燃え続け、春に地表で再燃するのである。

長い人生には隠れて燃え続ける「ゾンビ火災」があって、人生の後半に燃え上がることもある。

(†心のデボーション01355)

† 心のデボーション 01356

「この憐憫の器は我等にして、ユダヤ人の中よりのみならず、異邦人の中よりも召し給ひしものなり」ローマ9:24 大正文語訳聖書

「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」 新改訳聖書

 「よい壺」

ことわざに「よい壷をもっていたら、その日のうちに使え、明日になったら壊れてしまうかもしれない」とある。よいものだからといって、どんなに大切にしても、壊れてしまえばそれまでだ。

時や才能という壷は使うほどにみがきがかかる。しかし、使いすぎても壊れることがあり、取り扱いには注意が必要である。どんな器であれ、そこに「あわれみ」がもられていれば、壊れはしないと思う。

(†心のデボーション01356)

† 心のデボーション 01357

「時は滿てり、神の國は近づけり、汝ら悔改めて福音を信ぜよ」 マルコ1:15 大正文語訳聖書

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさ」 フランシスコ会訳聖書

 「信頼の獲得」

人を全面的に信じないのは問題であるが、全面的に信じるのも問題がある。

「福音を信じなさ」は「福音に基づいて信じなさい」である。ギリシャ語の「信じる πιστεύω ピステウオー」は「~に基づいて信じる」の意味である。基づくものもなく信じることではない。

乳幼児期に子どもが母親との密接な関係を築き、それが他者を信頼する人格の基礎になることは知られている。乳幼児は「母親の愛」に基づいて信頼を獲得するのである。

(†心のデボーション01357)

† 心のデボーション 01358

「人々の眠れる間に、仇きたりて麥のなかに毒麥を播きて去りぬ」 マタイ13:25 大正文語訳聖書

「ところが、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った」 フランシスコ会訳聖書

 「がせねた」

手品には「ねた」がある。「ねた」は「種」を逆さに読んだところから来ている。つまり手品には仕掛けとなる「種」がしこんであるのである。これをばらすのが「ねたを明かす」で、「種あかし」である。

「がせねた」というのもあるが、「がせ」は「お騒がせ」の「がせ」からきているのだという。人を振り回すだけの迷惑な「種」である。「毒麦」の類か。

(†心のデボーション01358)

† 心のデボーション 01359

「智慧ある者の家には貴き寳と膏とあり 愚なる人は之を呑つくす」 箴言21:20 明治文語訳聖書

「知恵ある人の住まいには望ましい宝と香油がある。愚か者はそれを呑み尽くす」 新共同訳聖書

 「住みやすい家」

建築にたとえれば、乳幼児時期は基礎工事にあたるという。

最近では基礎工事がいつまでもつづき、基礎が定まらないままに、工事が中断中という人も目立つ。掘立小屋のような仮建設なのだが、居心地は悪くないらしく、いつになっても本建設がはじまらない。こうなると基礎工事からやり直したくなるが、そうもいかない。多少問題があっても基礎に見合う家を建てるのも一つの建設である。建ってみれば「住みやすい家」になるかもしれない。

(†心のデボーション01359)

† 心のデボーション 01360

「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け」 新共同訳聖書

 「闇を照らす光」

天地創造における神のはじめの言葉は「光よ。あれ」である。神は「光」によって「光と闇」を分けられる。

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
この言は太初に神とともに在り、
萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。
之に生命あり、この生命は人の光なりき。
光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき」 ヨハネ1:1~5 大正文語訳聖書

「光」は「神のことば」であり「いのち」である。この「いのち」は闇を照らす「光」である。

(†心のデボーション01360)

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