心のデボーション135

デボーション1
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† 心のデボーション 01341

「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3 明治元訳聖書

「神は仰せになった、『光あれ』、すると、光があった」 フランシスコ会訳聖書

  「もっと光を!」

文豪ゲーテ(1749~1832)の最後の言葉は「もっと光を Mehr Licht ! 」だったとされている。

しかし、それが本当に最後の言葉であったかどうかには疑問も多い。

 「もっと光を!」(Mehr Licht !)という言葉を記述したのは、ゲーテの主治医フォーゲル博士であったが、彼は「Mehr Lichtという言葉は、私が彼の亡くなった部屋を一寸離れている間に、あらゆる点で常に暗闇を嫌っていたこの人の最後の言葉であったといわれている」とその著作『Die letzte Krankheit Goetheʼs(ゲーテ最後の病気)』1)の中で、実際に彼が直接耳にしたものではなく、第三者を介した伝聞であったことを認めている。

一方、ゲーテ研究家のシュデコップは、その著書『Goethes Tod(ゲーテの死)』2)の中で「ゲーテは、1832年3月22日午前11時30分、83歳の生涯を閉じた。その日の午前9時頃、ゲーテは寝室の肘掛け椅子に座り、長男の嫁オッティーリェの手を握り、楽しげに光の現象などを話題にしていた。ほどなくして、話し言葉が弱々しく明瞭でなくなってきた。そして、召使のクラウゼに『もっと光が入るように、寝室のよろい戸を開けてくれ』(Macht doch den Fensterladenim Schlafgemach auf, damit mehrLicht hereinkomme) と命じ、よろい戸を開けさせた。その後、右手を宙に挙げ文字を書き始めたが、意識朦朧となり死の道へ旅立った」というのである。
(福島県赤十字血液センター名誉所長  渡辺岩雄氏のエッセイを参考にさせていただきました)

どのような背景があったとしても、人は「もっと光を」と叫ばずにはいられない。

(†心のデボーション01341)

† 心のデボーション 01342

「蜜をおほく食ふは善らず 人おのれの榮譽をもとむるは榮譽にあらず」 箴言25:27 明治元訳聖書

「蜜を多く食べるのはよくない、ほめる言葉は控え目にするがよい」 口語訳聖書

 「垢抜けた人」

嫌味やあくどさがなく、洗練された物腰の人を「垢抜けた人」というが、「垢抜ける」は「灰汁抜き」からきている。筍は調理するまえに灰汁で煮て「あく」をとると、苦みやえぐみがとれて美味しくいただける。

灰汁の抜けた野菜のような人が「垢抜けた人」である。

人間も灰汁を抜くとさっぱりした味になるが、抜きすぎると物足りないと感じられることもある。人間も同じではないか。

(†心のデボーション01342)

† 心のデボーション 01343

「愛を追ひ求めよ、また靈の賜物、ことに預言する能力を慕へ」 Ⅰコリント14:1 大正文語訳聖書

「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい」 口語訳聖書

 「愛を追ひ求めよ」

愛は繰り返し確認したくなるものだ。それに応じていく過程が愛を深める側面もある。しかし、あまり頻繁に愛の証しを求めるのは、愛への不安からというよりも、孤独の寂しさではないだろうか。生活に自分を充たすものが見つからないので愛にしがみつく。捜しているものは外の世界にではなく、自身の内にある。本当の自分を捜していくと、自分だけではなく他人とも出会うはずである。それが愛を現実のものにしていく方法である。

(†心のデボーション01343)

† 心のデボーション 01344

「暗中より隱れたる事等を顯し 死の蔭を光明に出し」 ヨブ12:22 明治文語訳聖書

「神は暗黒の深い底をあらわにし/死の闇を光に引き出される」 新共同訳聖書

 「竜安寺の石庭」

竜安寺の石庭には十五の石が置かれているが、十四の石しか数えることができない。どこから見ても必ず一つが隠れるように配置されているからである。「隠された一つの石」というのがあるのではなく、見る位置を変えると十五のうちどれか一つが隠れるのだ。全体は現わされない。しかし、隠れているのは未知のものではなく、その時、その所からは隠され、時と所が変われば見えるが、今度はそれまで見えていた一つが隠れてしまう。あたかも人生のようである。

(†心のデボーション01344)

† 心のデボーション 01345

「我今日天と地を呼て證となす我は生命と死および祝福と呪詛を汝らの前に置り汝生命をえらぶべし然せば汝と汝の子孫生存らふることを得ん」 申命30:19 明治文語訳聖書

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き」 新改訳聖書

 「すでに遺体」

2020年COVID-19による国家社会の劇的な変化が世界にひろまった。医療体制が崩壊した国では「65歳以上の人びとは『すでに遺体』」として、いのちの選抜が始まった。65歳以上の人びとは自らを『すでに遺体』と見なされる社会に生きていることを自覚しなければならなくなった。

それは、65歳以上の人を「すでに遺体」と見なす者もやがて「すでに遺体」と見なされる時がくるということである。

しかし、人は「すでに遺体」と見なされても、なお生きるだろう。

「いのちの選抜」によって幸せになれる者は一人もいない。

(†心のデボーション01345)

† 心のデボーション 01346

「かくて夢にてヘロデの許に返るなとの御告(みつげ)を蒙り、ほかの路より己が國に去りゆきぬ」 マタイ2:12 大正文語訳聖書

「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」 フランシスコ会訳聖書

 「約束」

東の博士たちがヘロデとの約束を果たそうとすれば、いのちの保証はなかった。

「約束」の「約」の「勺」という文字は液体を汲んださまを表した文字で、その「勺」に糸がついた「約」は糸を引き締めて目立たせた「目印」を表し,目印をつけて取り決めするとの意味。「束」は,木を集めて紐で縛ったさまを表す文字で、「約束」は目印をつけて取り決め,身動きが取れないようにすることを意味する。(『語源由来辞典』参考)

「果たすことのかなわぬ約束」というものがある。そうだからといって「約束などしなければよい」ということにはならない。人間は約束しては破り、破りながらも約束する。実現できなかった約束は抱えて生きていけばよい。

(†心のデボーション01346)

† 心のデボーション 01347

「ヱホバは義と公平とをこのみたまふ その仁慈はあまねく地にみつ」 詩篇33:5 明治元訳聖書

「主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている」 新改訳聖書

 「どこか変」

自分が変人だと自覚している人は少ない。どこか変と思われはしないかと悩む人のほうがずっとが多い。では「普通の人」に見られれば満足かといえばそうではなく、普通以上を期待しているところがあって、それでまた、疲れる。自分の変なところを懼れる必要はない。それも、神のなさることだ。誰でも「どこか変」なのであって、それを受容して「普通の人」である。だからといって、変なところを隠さないというのも問題で、それこそ変だ。

(†心のデボーション01347)

† 心のデボーション 01348

「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1 明治元訳聖書

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」 新改訳聖書

 「山にむかひて目をあぐ」

詩人が見上げる「山」は主の聖所の建てられた「神殿の丘」であろう。それは頂を雲に覆われた山ではない。しかし、そこは神の座し給うところである。助けは生ける神から来る。

モーセは神の山ホレブで燃える柴のなかに神の声を聴いた。(出エジプト3:1~6)

(†心のデボーション01348)

† 心のデボーション 01349

「げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり」 Ⅰコリント13:13 大正文語訳聖書

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」 新共同訳聖書

 「信仰と希望と愛」

COVID-19は長年維持されてきた生活環境を一夜にして崩壊させている。社会に組み入れられていた居場所が突如として消失する経験は人間に喪失感を与えずにはおかない。希望の喪失が人々から生きる力を奪うのである。

希望が失われたのではない。「信仰と希望と愛」を新しくする時がきたのである。

(†心のデボーション01349)

† 心のデボーション 01350

「ねがはくはヱホバ汝のもろもろの求をとげしめたまはんことを」 詩篇20:5 明治文語訳聖書

「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように」 新改訳聖書

 「目が欲しい」

1961年にテレビで放映された「見えるてどんなん」という番組は、目の不自由な子供たちを先生が毎日戸外に連れ出して雨を体感させたり、動物に触らせたりするもので、やがて子どもたちは粘土を手にして作品を作り始める。「目が欲しい」という作品は目の不自由な子どもが口を大きく開き、天を仰いで両手を差し伸べたもので、魂の叫びに胸をうたれる。

(†心のデボーション01350)

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