† 心のデボーション 01331
「家に入りて、幼兒のその母マリヤと偕に在すを見、平伏して拜し、かつ寶の匣をあけて、黄金・乳香・沒藥など禮物を献げたり」 マタイ2:11 大正文語訳聖書
「そして家の中に入ってみると、幼な子は母マリアとともにおられた。博士たちはひれ伏して幼な子を拝んだそして宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」 フランシスコ会訳聖書
「パット・ザ・バニー」
アメリカでは幼い子の誕生日や洗礼式のお祝いにドロシー・クンバートの絵本「パット・ザ・バニー Pat the Bunny (ばたばたバニー)」(1940年アメリカ生まれのロングセラー絵本)をプレゼントしたりする。ふわふわしたウザギを触ったり、花の匂いを嗅いだり、鏡で遊んだり、視覚、臭覚、触覚を楽しむ絵本である。子どもが人生の最初に手にする本(ファースト・ブック)として定評がある。
(†心のデボーション01331)
† 心のデボーション 01332
「我等もし人の證を受けんには、神の證は更に大なり。神の證はその子につきて證し給ひし是なり」 Ⅰヨハネ5:9 大正文語訳聖書
「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです」 新改訳聖書
「証 あかし」
日本語の「証 あかし」は「灯 あかし」と同じ語源で「明かす」からきている。灯のように暗黒を照らし、ものごとをはっきり見えるようにすることを意味する。
聖書の「証 μαρτύριον マルトゆリオン 」は「証明、証言」の意味で、「殉教者 μάρτυρ」はギリシャ語「μαρτύριον マルトゆリオン 証人」からきた言葉である。「証」はいのちをかけて「明かす」ことで、証しする者は証する
ことがいのちをかけるに値するかどうかを真剣に確かめなければならなかった。
(†心のデボーション01332)
† 心のデボーション 01333
「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3 明治元訳聖書
「神は仰せになった、『光あれ』、すると、光があった」 フランシスコ会訳聖書
「ものに存在を与える」
「ものに存在を与えているのは、神の全能の「ことば」、すなわち「…あれ」という命令である」(フランシスコ会訳聖書 創世記)神はものに存在を与え、ものに名を与えられる。
神はものに存在を与えられ、存在しつづける力を与えられる。
(†心のデボーション01333)
† 心のデボーション 01334
「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ」 ピリピ2:4 大正文語訳聖書
「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」 口語訳聖書
「人の在り方」
何故と人の在り方に問う前に、自分という存在は相手にとって何であるかを考えてみたい。
自分に矛盾を感じない在り方があるように、相手にも矛盾を感じない在り方があるのだ。「在り方」は相手の数ほどあると知れば、自分を大切にするように相手を大切にすることもできるだろう。
(†心のデボーション01334)
† 心のデボーション 01335
「誰か賢き女を見出すことを得ん その價は眞珠よりも貴とし」 箴言31:10 明治文語訳聖書
「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い」 新改訳聖書
「しっかりした妻」
痒い所に手が届くような夫婦関係は心地よい。しかし、そんな夫婦にも、それぞれに過ごす自分の時間というものが必要のようだ。
「しっかりした妻」を見つけるのは「しっかりした夫」であろうが、そうでない時もある。
(†心のデボーション01335)
† 心のデボーション 01336
「又地震の後に火ありしが火の中にはヱホバ在さざりき火の後に靜なる細微き聲ありき 」 Ⅰ列王19:12 明治文語訳聖書
「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」 新改訳聖書
「細き聲」
ラコタ族の首長が教えた子どもの訓練は、「じっと座っていなさい、そしてそれを楽しんでごらん」というものだったという。子どもたちは何も見えないところで嗅覚や聴覚を敏感にして、何かを聞き取りながら静寂な時を過ごす。「じっと座っていることのできない子どもは、ちゃんと成長していない」という。(ジョセフ・ブルチャック 「それでもあなたの道を行け」より)
信仰は目を閉じて「かすかな細い声」を聴くに始まる。
(†心のデボーション01336)
† 心のデボーション 01337
「是故に聽き別る心を僕に與へて汝の民を鞫しめ我をして善惡を辨別ることを得さしめたまへ」 Ⅰ列王3:9 明治文語訳聖書
「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」 新改訳聖書)
「知恵の心」
ソロモンは王座につくとき、神が「あなたに何を与えようか。願え」と言われ、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」と願い、神はソロモンに「知恵の心と判断する心」を与えられる。(Ⅰ列王3:5~12 新改訳聖書)
智者とは知恵は神からくると知る者のことである。
「神が与えてくださるのでなければ、知恵をもつことはできない」 知恵の書8:21 フランシスコ会訳聖書
(†心のデボーション01337)
† 心のデボーション 01338
「我が子よ汝の父の敎をきけ 汝の母の法を棄ることなかれ」 箴言1:8 明治元訳聖書
「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな」 新共同訳聖書
「知恵を捨てるな」
「父の諭し」と「母の教え」を心に留め、忘れない者には「いのちの年と平安」が増し加えられる。(箴言3:1∼2)
「父の諭し」と「母の教え」とは神のみことばによる「教えと訓戒」である。
「わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る」 箴言3:1∼4 口語訳聖書
「父はわたしを教えて言った、「わたしの言葉を、心に留め、わたしの戒めを守って、命を得よ。それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ」 箴言4:4∼6 口語訳聖書
(†心のデボーション01338)
† 心のデボーション 01339
「愛なくば我に益なし」 Ⅰコリント13:3 大正文語訳聖書
「もし愛がなければ、いっさいは無益である」 口語訳聖書
「無意識の癒し」
人を傷つけない者になりたい。しかし、誰一人傷つけずに生きることのできた人はいない。
問題は人を傷つける意思もなく傷つけてしまっている人生である。無意識になされることほど深く人を傷つけることはない。ただ、自分はそのような存在であると知っておくことだ。無意識のことは無意識の行為に委ねるがよい。無意識が癒してくれる。
(†心のデボーション01339)
† 心のデボーション 01340
「これを制ふるものは風をおさふるがごとく 右の手に膏をつかむがごとし」 箴言27:16 明治元訳聖書
「この女を制するのは風を制するのとおなじく、右の手に油をつかむのとおなじだ」 口語訳聖書
「争い好きの女」
「その女」とは「争い好きの女」のことで、彼女は「したたり続ける雨もり」のようだと言う。パレスチナの家はたいてい平屋根で、雨が降ると騒々しい音を立てた。長雨の間、止むことのない騒音に頭を抱えて「争い好きの女のようだ」となった。その「女」を制しようとする者は「右手に油をつかむ」は、油で手が滑って何もつかめない、つまり意味がないというのである。
(雨漏り 古屋のむる)
(†心のデボーション01340)
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