心のデボーション133

デボーション1
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† 心のデボーション 01321

「汝がわれらを苦しめたまへるもろもろの日と われらが禍害にかかれるもろもろの年とにたくらべて我儕をたのしませたまへ」 詩篇90:15 明治元訳聖書

「あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください」 新改訳聖書

 「苦労と災い」

若い時ならば「苦労と災い」は勲章にもなる。しかし、老いの中では、小さな災いもいのちを枯らし、押し流す力になる。そこで、詩人は悩んだ日々と災いの年々を「埋め合わせてください」と神に祈る。

老いた日であれば、苦労と災いが巡ってくるのを止めることはできない。ただ、その日にも「喜びと歌」をもって埋め合わせることのできるのが老いの知恵である。

(†心のデボーション01321)

† 心のデボーション 01322

「家に入りて、幼兒のその母マリヤと偕に在すを見、平伏して拜し、かつ寶の匣をあけて、黄金・乳香・沒藥など禮物を献げたり」 マタイ2:11 大正文語訳聖書

「そして家の中に入ってみると、幼な子は母マリアとともにおられた。博士たちはひれ伏して幼な子を拝んだそして宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」 フランシスコ会訳聖書

 「ユダヤ人の新しい王」

ヘロデの宮殿から始まった「ユダヤ人の新しい王」探しは、「ベツレヘムの家畜小屋」で見つけられる。マギは探すものが、あまりに低いところにおることに驚いたことだろう。そして、私たちは低き所に尊きお方を見出したマギに驚くのである。高みから低きに下れ。低きものを探れ。

(†心のデボーション01322)

† 心のデボーション 01323

「涙とともに播くものは歡喜とともに穫らん」 詩篇126:5 明治文語訳聖書

「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」 新共同訳聖書

 「遅蒔き」

せっかく蒔いた落花生の種を鴉に食べられたことがある。時季に遅れるがもう一度やり直して、今度はしっかり鴉対策を施す。このように遅れて事をはじまるのを「遅蒔き」である。

時期遅れに蒔く唐辛子を「遅蒔唐辛子」というが、少しも辛くないので「間抜け」の意味に使われる。

万事、粗削りで足りないところがある人が意外な成功を収めるのを「未完の大器」というが、「遅蒔き」にも「大器」が出る。

(†心のデボーション01323)

† 心のデボーション 01324

「我が子よ汝の父の敎をきけ 汝の母の法を棄ることなかれ」 箴言1:8 明治元訳聖書

「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな」 新共同訳聖書

 「父の諭しと母の教え」

「父の諭し」と「母の教え」を記憶する人は幸いである。その人は人生の惑わしにあっても、その罠にとらえられることがなく、常に「主を恐れることを悟り、神を知ることができる」(箴言2:5 口語訳聖書)

「わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる」 箴言2:1∼5 口語訳聖書

「わが子よ、あなたの父の戒めを守り、あなたの母の教を捨てるな。つねに、これをあなたの心に結び、あなたの首のまわりにつけよ。これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを守り、あなたが目ざめるとき、あなたと語る」 箴言6:20∼22 口語訳聖書

(†心のデボーショ 01324)

† 心のデボーション 01325

「謙(へりく)だる者には智慧あり」 箴言11:2 明治文語訳聖書

「へりくだる者には知恵がある」 口語訳聖書

 「未熟」

「生兵法は大怪我のもと」というが、身についていない知識をふりかざして失敗するのはいつものことで、なかなかその性が抜けない。

「生かじり」とか「生半可」とか、「生」がつくのもには評判がよくないことが多い。「生臭坊主」というのもある。

だが、あえて「生」を大切にしたいとも思う。未熟なものや、中途半端になもを大切にすべきときもある。

(†心のデボーション01325)

† 心のデボーション 01326

「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3 明治元訳聖書

「神は仰せになった、『光あれ』、すると、光があった」 フランシスコ会訳聖書

「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」ダニエル2:22  新改訳聖書

「事を隱すは神の榮譽なり」 箴言25:2 明治元訳聖書

 「人間のいのち」

人間は地球に届く光によって宇宙を探り、そこに神の創造された広がりが隠されていることを知った。

聖書は宇宙の広がりのすべてを明らかにするよりも、一人の人間のいのちの創造を見つめる。あたかもそれは一人の人間のいのちが宇宙の広がりにまさって神の関心であることを示すかのようである。

我々は、隠されたことからも、現されたことの意味を知るのである。

(†心のデボーション01326)

† 心のデボーション 01327

「汝の父母を樂しませ 汝を生る者を喜ばせよ」 箴言23:25 明治文語訳聖書

「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ」 新改訳聖書

 「汝を生る者を喜ばせよ」

ヘブライ語で「母 エーム」は「出発点、分岐点」を意味する。母は私の出発点であり、いのちの源である神と私のかかわりを知る者である。

「汝を生る者を喜ばせよ」は「母が喜び躍るようにせよ」(新共同訳聖書)の意味である。

「どうしたら母が喜び躍るか」と心配するには及ばない。母はわが子に「喜び躍る」のであり、それを知って子は母に「喜び躍る」からである。

この関係は神と私の間にもある。私を創られた神は「私」という存在に「喜び躍られ」、それを知って私は神に「喜び躍る」のである。神は私の「出発点・分岐点」である。

(†心のデボーション01327)

† 心のデボーション 01328

「少者の榮はその力 おいたる者の美しきは白髮なり」 箴言20:29 明治文語訳聖書

「若い人の栄えはその力、老人の美しさはそのしらがである」 口語訳聖書

 「まことの花」

世阿弥の「風姿花伝」には芸の美しさを「花」にたとえ、「時分の花」と「まことの花」と呼んだ。

「時分の花」は若い時の芸で若さのもつ勢いのある華やかな美しさである。しかし、「時分の花」は「まことの花」ではない。働き盛りのころに声も身体も完成を見るが、「時分の花」は枯れ、芸に迷いが出てくるのが「初心」である。「初心」も「まことの花」ではない。やがえ芸は老年をむかえ、色も身体もすっかり衰え、「花」は表面に見えなくなるが、その奥に「花」ひそかに咲き続け、存在のもつ本質的な美しさが現れてくる。これが「まことの花」である。

老いたるものの美しさは、若さのもつ力がすべて失われたところに開かれる、目には見えない「最期の花」かもしれない。

(†心のデボーション01328)

† 心のデボーション 01329

「なんぢの妻はいへの奧にをりておほくの實をむすぶ葡萄の樹のごとく汝の子輩はなんぢの筵に円居してかんらんの若樹のごとし」 詩篇128:3 明治文語訳聖書

「あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ」 新改訳聖書

 「自分という実」

いい妻になるよりも、いい自分になってくれた方が嬉しい。過保護なまでに夫や子どもに尽くす妻は、「いい妻」という脅迫的なイメージから「自分がしてあげなくては」と考えているようだ。本当の自分になるために、できないことは家族に告げて協力を求めるがよい。そのために、多少「悪い妻」になってもよいではないか。「家の奥」で「自分という実」を豊かに結べるかどうかに、家族の幸せがかかっている。

(†心のデボーション01329)

† 心のデボーション 01330

「熟錬なる建築師のごとく基を据ゑたり」 Ⅰコリント3:10 大正文語訳聖書

「わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた」 口語訳聖書

 「熟練」

白洲正子さんがよく伸びる使い勝手のよい糊よりも、使いにくい糊をあえて使う染めものの職人の話をしておられる。その糊は使いにくいが引いた線はよく伸びる糊よりも力強いのだという。

私の父は仕立屋だったが、その日に使う糊は朝毎に自分で作っていた。これでないとだめというかたさがあったようだ。

使いにくいものは、使い方によっては使いよいものよりもいい仕事をする。

「熟練 σοφός ソふォス 」は「賢い、知恵のある、分別のある」の意味で、「柔和な行いを、良い生き方によって示す」ことの出来る人のことである。

(†心のデボーション01330)

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