† 心のデボーション 01311
「この故にわれいふ回顧てわれを見るなかれ 我いたく哭かなしまん わが民のむすめの害はれたるによりて我をなぐさめんと勉むるなかれ」 イザヤ22:4 明治元訳聖書
「それゆえ、わたしは言う。『わたしから目をそらしてくれ。わたしは激しく泣く。あえてわたしを慰めるな。娘なるわが民が滅びたのだ。』」 新共同訳聖書
「親は花染め、子は藍染め」
与論島に「ウヤヤ ハナズミ 親は花染め」「クヮヤ アイドゥミ 子は藍染め」という言葉が伝えられているそうである。死んだ親は花がいつか散るようにやがて忘れられるが、亡くした子は藍染のように心にしみつき忘れることができないという意味である。藍色に染まった心の哀しみはいつまでも消えない。ただ、亡くなった子どもの成長に合わせて歩むことだ。子どもは心の中で泣いたり笑ったりしながら成長し、やがて親離れしていく。
(†心のデボーション01311)
† 心のデボーション 01312
「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり」 伝道3:1 明治元訳聖書
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」 新改訳聖書
「阿吽の呼吸」
「阿吽 あうん」は梵語の口を開いて出す音声「阿(a)」と口を閉じて出す音声「吽(hum)」の音写である。密教では「阿」は万物の初め、「吽」は終わりを意味する。「阿吽の呼吸」は二人が物事を行うときに絶妙なタイミングに呼吸を合わせることである。
伝道者は「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」といったが、見張っていないと行動すべき「時」を逃してしまうことがとても多い。
(†心のデボーション01312)
† 心のデボーション 01313
「寶(たから)の盒(はこ)」 マタイ2:11 明治元訳聖書
「そして宝箱を開けて」 フランシスコ会訳聖書
「寶の匣(はこ)」
「寶の匣(はこ)」は明治元訳聖書では「寶(たから)の盒(はこ)」となっている。
「匣 コウ」はフタ付きの小型の容器(大型のものは「箱」)であり、「盒 コウ・ゴウ」はフタを本体とぴたりと合わせて用をなす容器である。(「盒 ゴウ」は日本軍の用いた「飯盒 ハンゴウ」を思えばよい。香を容れたものが香盒 コウゴウである)
マギはイエスへの供え物を「フタ付きの密閉容器」に入れて大事に運んだ。
(†心のデボーション01313)
† 心のデボーション 01314
「我が子よ汝の父の敎をきけ 汝の母の法を棄ることなかれ」 箴言1:8 明治元訳聖書
「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな」 新共同訳聖書
「生み出す力、育む力」
「父の訓戒 מוּסָר ムーサール」は「訓練、訓戒、教育、懲らしめ、戒め、教訓」であり、私を矯正し、きずなを確認し、厳しく切断する。
「母の教え תּוֹרָה トゥーラ」は「律法、おきて」であり、私を生み、私の出発点である。
いのちは「生み出す力」と「育む力」に守られて成熟する。
(†心のデボーション01314)
† 心のデボーション 01315
「兄弟の愛をもて互に愛しみ、禮儀をもて相讓り」 ロマ12:10 大正文語訳聖書
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」 新共同訳聖書
「尊敬できる人」
「心から尊敬できる人だと思っていたのに裏切られた」という声を聞くこともある。そのため、失望が恨みへと変わることも少なくない。しかし、ある人を「心の底から尊敬してしまう」ことに問題はないだろうか。「尊敬できる人」というイメージを人に映して、自分の思い通りにならないその人に、「裏切られた」と怒っているのではないか。尊敬とは、人をありのままに見、そして感心することである。
(†心のデボーション01315)
† 心のデボーション 01316
「互に仁慈と憐憫とあれ、キリストに在りて神の汝らを赦し給ひしごとく、汝らも互に赦せ」 エペソ4:32 大正文語訳聖書
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」 新共同訳聖書
「心の優しさ」
身体の調子が悪い、それだけの理由でも気分は落ち込む。朝はいつも気持ちよく目覚め、誰にもにこやかな笑顔を向けるべきだと考え、何とか気分を良くしたいと頑張ってよけいに体調を崩したりする。いつも「完璧な自分」でなくてもいいのではないか。自分に少しくらい調子の悪さがあっても「それでいいのだ」と自分を許すことである。そんな自分も好きになる「心の優しさ」に周囲の人も好意を感じる。
(†心のデボーション01316)
† 心のデボーション 01317
「いつはりの權衝はヱホバに惡まれ 義しき法馬は彼に欣ばる」 箴言11:1 明治文語訳聖書
「偽りのはかりは主に憎まれ、正しいふんどうは彼に喜ばれる」 口語訳聖書
「青田買い」
「青田買い」の「青田」は穂がまだ出ない稲田のこと。青々としているが秋まで待たないと結果がわからない。
「青田買い」された人は後々、結果の出ないことの責任を負わせられて苦しむことになる。
自分を「青田買い」するのは常の事で、その場合は結果を見ても天候のせいにしていればことがすみ、どこまでもご気楽である。内に「偽りのはかり」があるに違いない。
(†心のデボーション01317)
† 心のデボーション 01318
「なんぢら眼をあげて高をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ 主は數をしらべてその萬象をひきいだしおのおのの名をよびたまふ 主のいきほひ大なり その力のつよきがゆゑに一も缺ることなし」 イザヤ40:26 明治元訳聖書
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」 新改訳聖書
「ビックバン宇宙」
ビックバン説によれば、宇宙は針の先よりはるかに小さな一点から大爆発によって膨張し、140憶光年の時と広がりに至り、現在も膨張しているという。
神は140憶光年の時と広がりの中に生きる私という存在として人間をお創りになられたということだろうか?
この宇宙の時と広がりは人間にどのような倫理を教えるのだろうか?
(†心のデボーション01318)
† 心のデボーション 01319
「おのおのその所にさすらひゆきて一人だになんぢを救ふものなかるべし」 イザヤ47:15 明治文語訳聖書
「彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救う者はひとりもいない」 新改訳聖書
「七番目の方角」
ラコタ族の伝承の語り手ケヴィン・ロックによると「ワカンタンカは、6つの方角を決めた。東、南、北、西、上、下である。しかし、一つだけ決められていない方角が残された。七番目の方角は、すべてのなでもっとも力にあふれ、もっとも偉大な知恵と強さを秘めている方角、人間がものを探す時に、いちばん最後に気がつく場所、ひとりひとりの心の中」という。(ジョセフ・ブルチャック 「それでもあなたの道を行け」より)
七番目の方角に向かうには六つの方角が誤りなく定められる必要があるに違いない。
「自分勝手な方角に迷い出る」者は道を失う。
(†心のデボーション01319)
† 心のデボーション 01320
「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし「與ふるは受くるよりも幸福なり」との御言を記憶すべきなり』」 使徒20:35 大正文語訳聖書
「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」 口語訳聖書
「受けるよりも与える方が幸い」
愛されることになれてしまって、自分から愛することを知らない人は不幸である。おそらく、人の幸せに自分が関与する喜びを知らない。「受けるよりも与える方が幸い」とは、ものばかりでなく、愛にも言えるのではないだろうか。そして、「与える人はさらに与えられる」という原則も愛の世界である。愛されないと嘆くよりも、自分から人を愛することである。愛するから愛される。
(†心のデボーション01320)
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