† 心のデボーション 01291
「彼等(かれら)この星(ほし)を見て甚(いた)く喜(よろこ)び」 マタイ2:10 大正文語訳聖書
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」 新共同訳聖書
「歡喜の星」
東の博士たちは「星を見て、歡喜に溢れ」た。彼らは東方で見た「星」を、ベツレヘムで再び見て歡喜した。信じることの喜びは「星」として「見出すことのできるもの」であった。
人は何を見て「歡喜」するだろうか? 「歡喜の星」として見出し、「これ」と指差すことができるだろうか?
(†心のデボーション01291)
† 心のデボーション 01292
「なんぢのわが心にあたへたまひし歓喜はかれらの穀物と酒との豊かなる時にまさりき」 詩篇4:7 明治元訳聖書
「多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」 主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」 新改訳聖書
「人生の張り合い」
人生に張り合いを感じたかったら、張り合いというものを忘れた方がいい。張り合いは天邪鬼で、求めると逃げ、求めないと寄ってくる。つまり、たいした奴ではない。だから、大仕事をしている時よりも、当たり前の仕事をしている何気ない瞬間にひょいと顔を見せる。でも、実にいい顔をしているので、また、会う日を楽しみに、当たり前の仕事を続けることが出来る。当たり前に仕事をすること
(†心のデボーション01292)
† 心のデボーション 01293
「謙遜者はくらひて飽ことをえ ヱホバをたづねもとむるものはヱホバをほめたたへん 願くはなんぢらの心とこしへに生んことを 」 詩篇22:26 明治文語訳聖書
「貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように」 口語訳聖書
「生きる力」
人生に目的をもつことは生きる力になる。しかし、人生の意味は目的の達成によってだけもたらされるものでもない。生きているという実感はそれぞれの瞬間にある。その瞬間をどれだけ深く味わえるかに生きる意欲がかかわっているようだ。
(†心のデボーション01293)
† 心のデボーション 01294
「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3 明治元訳聖書
「神は仰せになった、『光あれ』、すると、光があった」 フランシスコ会訳聖書
「黄金の光」
ヨブに対してエリフは語る。
「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう」 ヨブ37:21~22
人間は神を見ることはできない。しかし、風が吹き、雲を払うと、神を包む「黄金の光」が輝く。それは「雲のかなた」にあり、聖霊の風がそれを隠す雲を吹き払う。
(†心のデボーション01294)
† 心のデボーション 01295
「その十字架の血によりて平和をなし、或は地にあるもの、或は天にあるもの、萬の物をして己と和がしむるを善しとし給ひたればなり」 コロサイ1:20 大正文語訳聖書
「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです」 新改訳聖書
「敵意」
人からばかにされていると感じるのは、心に人への敵意があるかもしれない。自分に敵意があると、相手のばかにするような態度が見えてしまうのである。心に和解があれば、人のばかにした態度にいちいち反応することもなくなる。それは無視すればよい。神との和解は自分自身との和解にまで深めていく必要がある。人はゆるされてはじめて自分をゆるすことができる。
(†心のデボーション01295)
† 心のデボーション 01296
「なんぢ腰ひきからげて丈夫のごとくせよ 我なんぢに問ん 汝われに答へよ」 ヨブ38:3 明治文訳聖書
「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」 新共同訳聖書
「相槌」
相手の話題に頷くことを「相槌を打つ」といいます。「相槌」は刀鍛冶の師と弟子が呼吸を合わせて交互に槌を打ち合うことを言います。タイミングが合わないと刀を鍛えることはできません。打てば応とこたえる関係がないとできません。
悩むヨブに神は「我なんぢに問ん 汝われに答へよ」と語られる。
ヨブは神にどのように「槌」をかえすのでしょうか?
(†心のデボーション01296)
† 心のデボーション 01297
「彼は口を啓きて智慧をのぶ 仁愛の敎誨その舌にあり」 箴言31:26 明治元訳聖書
「彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。」 新改訳聖書
「ロボット」
「子どもの心をつかむ保育者」(小田豊) には、幼稚園で絶えず「ロボット、ロボット」とつぶやきながら遊んでいる子のことを紹介している。母親が「幼稚園ではキチンとして、先生のお話しを聞くときはロボットさんになっていなければ、駄目よ」といわれて、その子は幼稚園はこわいところだ。だから「ロボットは、鉄で身を固め、口も聞けないけど、強い」と考えて、幼稚園では黙り込んでいたのだという。
幼稚園を恐い所と考えて「鉄で身を固めている」のはこの母親かもしれない。
(†心のデボーション01297)
† 心のデボーション 01298
「ヨブよ是を聽け 立ちて神の奇妙き工作を考がへよ 」 ヨブ37:14 明治元訳聖書
「ヨブよ、耳を傾け/神の驚くべき御業について、よく考えよ。」 新共同訳聖書
「よく考えよ」
答を出すことよりも、考えることに意味がある場合も多い。答えは一つしかなく、それはもうわかっているという思い込みが人から決断を奪う。行動に移すことのできないものを答えと認めたくないのだ。「なぜ」と考えてみる。考え、耳を傾け、聞き分け、その目でじっと見つめることがすでに「神の奇しいみわさ」である。
(†心のデボーション01298)
† 心のデボーション 01299
「ヱホバを畏るるは知識の本なり 愚なる者は智慧と訓誨とを軽んず」 箴言1:7 明治元訳聖書
「主を畏れることは知識の初め。しかし、愚かな者は知恵と教育をさげずむ」 フランシスコ会訳聖書
「神を拒む者」
「愚かな者 אֱוִיל エヴィル ‘ĕvı̂yl {ev-eel‘}」は知識の不足した者のことではない。心のうちに神の存在を否定する者のことである。
「愚かなるものは心のうちに神なしといへり」 詩篇53:1 明治元訳聖書
(†心のデボーション01299)
† 心のデボーション 01300
「あしき者はものかりて償はず 義きものは惠ありて施しあたふ」 詩篇37:21 明治文語訳聖書
「主に逆らう者は、借りたものも返さない。主に従う人は憐れんで施す」 新共同訳聖書
「割り勘」
「割り勘」を考案したのは江戸時代の戯作者・山東京伝と言われる。京伝が仲間と飲み食いするときに頭数で代金を清算したことから「京伝勘定」とも言われた。
貸し借りのない関係はすがすがしい。しかし、すべてを割り勘でゆこうというのも寂しい。
まずは借りたものは誠意をもって返し、貧しい人には与えることのできる者でありたい。
(†心のデボーション01300)
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