† 心のデボーション 01271
「その地の菓物を手に取てわれらの許に持くだり我らに復命して言り我等の神ヱホバの我等に與へたまへる地は善地なりと」 申命記1:25 明治元訳聖書
「また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です」と言った。」 新改訳聖書
「良い地」
神が与えようとしておられるのは「乳と蜜の流れる良い地」だった。「良い地」に導かれる人は、神が今という瞬間を「良きもの」として与えてくださっていると信じる。朝目覚めた時、良い方向に向かっている自分をイメージしてみる。自分の生をより良きものにという心のエネルギーは「乳と蜜の流れる地」への希望から来る。今の生を良きものとして受け取るのが信仰である。
(†心のデボーション01271)
† 心のデボーション 01272
「彼ら王の言をききて往きしに、視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る」 マタイ2:9 大正文語訳聖書
「彼らがヘロデ王のことばに送られて出発すると、なんと、前にのぼるのを見たその星が先に立って、幼児のいるところの上に止まった」 バルバロ訳聖書
「智者の心」
伝道8:4~5に「王の言語には權力(ちから)あり 然ば誰か之に汝何をなすやといふことを得ん」とあり「命令を守る者は禍患(わざはひ)を受るに至らず 智者の心は時期(とき)と判斷(さばき)を知るなり」とある。
東の博士たちは「時期(とき)」を知り、「判斷(さばき)」を知る人々であった。悪しき王であっても、その「言語には權力(ちから)あり」と知っていた。
(†心のデボーション01272)
† 心のデボーション 01273
「ヱホバを畏るるは知識の本なり 愚なる者は智慧と訓誨とを軽んず」 箴言1:7 明治元訳聖書
「主を畏れることは知識の初め。しかし、愚かな者は知恵と教育をさげずむ」 フランシスコ会訳聖書
旧約聖書における「知識 דַּעַת ダアツ]は「知恵と技術」の2つの側面をカバーするものである。自らの存在の秘密に関する「理解(知恵と技術)」である。
「知恵と技術」
「知識 דַּעַת ダアツ da‛ath {dah‘-ath}」は箴言1:4の「拙者と少者」に隠されていた自らの存在の秘密に関する「理解(知恵と技術)」である。箴言が関心を寄せるのは人間の生存に関わりのない「冷たい知識」ではなく、人間の存在を生み出し、いのちに方向を与え、生き抜くための「理解(知恵と技術)」である。それは「主を畏れる」という神への信仰の生き生きとしたかかわりのうちに経験されるいのちの営みである。
(†心のデボーション01273)
† 心のデボーション 01274
「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3 明治元訳聖書
「神は仰せになった、『光あれ』、すると、光があった」 フランシスコ会訳聖書
「深くて測り知れないこと」
「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」ダニエル2:22 新改訳聖書
神は御自身に光を宿される。(「光は御もとに宿る」新共同訳聖書)
「光」はものごとを明らかにする。
隠されたことをあらわす「光」が神のうちに宿っている。「光」は神のうちから出て、「深くて測り知れないこと、隠されていること」を現わし給う。
「神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される」 ヨブ12:22 新共同訳聖書
(†心のデボーション01274)
† 心のデボーション 01275
「谷にくだる家畜の如くにヱホバの靈かれらをいこはせ給へり 主よなんぢは斯おのれの民をみちびきて榮光の名をつくり給へり」 イザヤ63:14 明治元訳聖書
「谷間に下りて行く家畜のように/主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き/輝く名声を得られた。」 新共同訳聖書
「楽に生きる」
楽に生きるというのは、物事をいいかげんにしたり、手を抜いたりすることではない。自分のあるがままを認めることである。雑な部分があってもそれを整頓しようとなどしないで、じっと持ちこたえてみる。自分が無防備でも生きられると気づくことが、楽に生きることへの出発点である。羊の群れは危険な谷を降りる時怯えたりしない。牧者が守ってくれると知っているからである。自分を預けることができれば、どんな時にも「憩い」がある。
(†心のデボーション01275)
† 心のデボーション 01276
「われヱホバは心腹を察り腎腸を試みおのおのに其途に順ひその行爲の果によりて報ゆべし」 エレミヤ17:10 明治文語訳聖書
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」 口語訳聖書
「心を探る」
人の内にはおのずと育つ思いがある。善悪未生のありのままの思いである。それが生きる力の源であるならば、ある感動をもって受け入れられるべきことである。しかし、しばしばその芽は自分の手で摘まれてしまう。
内面に育つものと如何に向き合うか、その人の心の成熟がかかっている。
(†心のデボーション01276)
† 心のデボーション 01277
「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3 明治元訳聖書
「神は仰せになった、『光あれ』、すると、光があった」 フランシスコ会訳聖書
「御言葉による創造」
神は御言葉によって天と地を創造された。天地を創造した御言葉が「私」と「私の日常」を形造る。(イザヤ55:11)
無意味なものは一つとしてない
(†心のデボーション01277)
† 心のデボーション 01278
「アダムと其妻は二人倶に裸體にして愧ざりき」 創世記2:25 明治元訳聖書
「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 口語訳聖書
「赤裸々な姿」
アダムとエバは裸だったが、それを恥ずかしいと思わなかった。ありのままに存在し、互いに裸を装う必要がなかったのである。愛は相手の赤裸々な姿を「見る」ことにも、自分のありのままを「見せる」ことにも恥の意識がない。「あなたは私の前で別人である必要はない、ありのままのあなたが好き」と告白できたら、その愛は本物である。ありのままの自分を隠す愛は本当とは言えない。
(†心のデボーション01278)
† 心のデボーション 01279
「ヱホバを畏るることは堅き依賴なり その兒輩は逃避場をうべし」 箴言14:26 明治文語訳聖書
「主を畏れれば頼るべき砦を得/子らのためには避けどころを得る」 新共同訳聖書
「共感的関係」
一生懸命に接すれば自分の望むような子供になってくれると期待しても、子どもはそれが自分を見つめてのことではないと大人の身勝手な本音をすぐに気づいてしまう。大人の望むような生き方には嘘が混じっていることを本能的に感じ取ってしまうのだ。大人が子どもに本音でつきあうこともまた一つの危険をともなうが、その危機を共にすることができれば、共感的な関係がはじまる可能性はある。
(†心のデボーション01279)
† 心のデボーション 01280
「愛しむに時あり惡むに時あり」 伝道3:8 明治文語訳聖書
「愛するのに時があり、憎むのに時がある」 新改訳聖書
「ご生憎様」
「生憎」は「あやにく」が変化したもので、「ああ憎し」の意味である。意に反しての間の悪さは、「ご生憎様」ということになる。
(†心のデボーション01280)
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