心のデボーション127

デボーション1
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† 心のデボーション 01261

「そは萬軍のヱホバの一の日あり すべて高ぶる者おごる者みづからを崇るものの上にのぞみて之をひくくし」 イザヤ2:12 明治元訳聖書

「まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。」新改訳聖書

 「やに下がる」

得意顔でにやにやするのを「やにさがる」と言う。漢字では「脂下がる」である。

「やに」はたばこの「やに」で、昔は煙管でたばこをのみ、煙管の雁首を下げるとやにが雁首にさがってうまくない。しかし、江戸っ子は煙管を前下がりにして吸うの粋として、やにが下がるのをやせ我慢したという。そこから「やに下がる」という言葉がつかわれるようになった。

「やに下がる」のも楽なことではない。

(†心のデボーション01261)

† 心のデボーション 01262

「その貴顯者はうゑ」 イザヤ5:13 明治元訳聖書

「その貴族たちは、飢えた人々」 新改訳聖書

 「青い血」

英語で「名門」は「Blue blood(青い血)」で、昔、貴族はあまり日に焼けない白い肌をして静脈が青く見えるところから来た言葉だそうである。貴族の血が青いわけではない。

時代は変わっても、「尊き血筋」への憧憬は人類から消えるものではない。忘れてならないことはしばしば、その血筋にも「高ぶる」のゆえに、「飢えた人々」が生まれることだ。

(†心のデボーション01262)

† 心のデボーション 01263

「その鄰に諂ふ者はかれの脚の前に羅を張る」 箴言29:5 明治元訳聖書

「自分の友人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る」 新改訳聖書

 「お生憎さま」

思いに反して都合の悪いことが起こることを「生憎」という。

「生憎」は「ああ、憎たらしい」からきた言葉である。原因は相手への「へつらい」かもしれない。

相手の期待に応えられないときには「お」をつけて、「お生憎さま」などと丁寧に言う。本当に申し訳ないとは思っていない響きもある。

(†心のデボーション01263)

† 心のデボーション 01264

「是においてナアマン下りゆきて神の人の言のごとくに七たびヨルダンに身を洗ひしにその肉本にかへり嬰兒の肉の如くになりて清くなりぬ」 Ⅱ列王5:14 明治元訳聖書

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」 新改訳聖書

 「ナアマンの怒り」

ナアマンが怒ったのはエリシャが自分を軽く扱っていると感じたからである。肥大化した自我意識はいつも自分を重く扱ってくれることを求める。自分が軽く扱われていると感じる時には注意する必要がある。神は人が謙遜に身をかがめなければわからない方法やで語られることがあるからである。ナアマンは病気をいやされる前に、「馬と戦車」で武装した心を解除される必要があった。

(†心のデボーション01264)

† 心のデボーション 01265

「汝の民の間に往めぐりて人を謗るべからず汝の鄰人の血をながすべからず我はヱホバなり」 レビ19:16 明治元訳聖書

「民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない。あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である」 口語訳聖書

 「中傷」

人々の間を歩き回って、他人の欠点を話題にしていれば、とりあえずは自分の欠点にふれなくてすむ。しかし、人を中傷することは、すでに、人の欠点をおもしろ可笑しく触れ回るという欠点をさらけ出している。聖書で「中傷」は「商品」と同義語で「足」をも意味することばである。中傷する人は、他人の欠点という「商品」を身内の人々に運び歩くのである。

中傷という商品を運ぶ商人を心待ちにするのも同罪である。

(†心のデボーション01265)

† 心のデボーション 01266

「是は四角にして二重なるべく其長は半キユビトその濶も半キユビトなるべ」 出エ28:16 明治元訳聖書

「それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。」 新改訳聖書

 「小指の役割」

五指のうち、親指、人差し指、中指、薬指と、それぞれに役割があるが、「小指」は「ちいさゆび」と呼ばれ、大した役割がないかに見える。

しかし、旧約聖書で「長さ一あたり」は指をひろげて、親指と小指の先から先までの長さをいう。約23㎝の長さになる。ここでは小指が度量衡の大切な役割を与えられている。

(†心のデボーション01266)

† 心のデボーション 01267

「視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る」 マタイ2:9 大正文語訳聖書

「彼らがヘロデ王のことばに送られて出発すると、なんと、前にのぼるのを見たその星が先に立って、幼児のいるところの上に止まった」 バルバロ訳聖書

 「導きの星」

あの夜、三人の博士は導きの星を失った。
ふたりは杖で地面に何かを描き始め計算をしながら何度も首をかしげていた。
だが、星はいっこうに見当たらない…。
星の導きを熱望していたふたりは夜の沈黙の中で涙した。
ところが、もうひとりの博士はふたりから離れた場所でこう考えた。
「自分たち以外のものも、のどが渇いているはずだ。動物たちにも水をやろう」。
それで、おけの取っ手を持ち上げ、ラクダたちに水を飲ませた。
彼が見たのはそのときだ。
おけの水面に映った金の星が静かに、優雅におどっている様を。

エドモンド・ロスタンド

(†心のデボーション01267)

† 心のデボーション 01268

「(京まうでの歌) われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1 明治元訳聖書

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」 新改訳聖書

 「巻き藁」

弓道では巻き藁に向かって射る稽古を大切にし、それを繰り返す。的に当てようという思いを捨てて、一射にすべてを集中する。忠実に繰り返すだけの「巻き藁」がその経験を深めます。弓に行き詰まったら「巻き藁」に向かうという。

私たちが「山に向かって目を上げる」時、心は「巻き藁」に向かって射る。それによる経験の深まりは、そこから新しい言葉を聞く。

(†心のデボーション01268)

† 心のデボーション 01269

「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3 明治元訳聖書

「神は仰せになった、『光あれ』、すると、光があった」 フランシスコ会訳聖書

 「神の御言葉」

神が「光がある」と言われると、見よ、「光がある」。(創世1:3)

イエスの弟子たちはどの町や村でも家に入るとき、「平安を祈るあいさつ」をするように命じられた。その家が「祈り」にふわさしければ「平安」はその家に来るが、ふさわしくなければ「平安」は弟子たちのところに返ってくると教えられている。(マタイ10:11~13)

弟子たちの口からでた「祈りの言葉」がむなしくは消えないように、神の口から出た言葉はそれを成し遂げずに戻ることはない。

「如此わが口よりいづる言もむなしくは我にかへらず わが喜ぶところを成し わが命じ遣りし事をはたさん」 イザヤ55:11 明治元訳聖書

(†心のデボーション01269)

† 心のデボーション 01270

「ヱホバを畏るるは知識の本なり 愚なる者は智慧と訓誨とを軽んず」 箴言1:7 明治元訳聖書

「主を畏れることは知識の初め。しかし、愚かな者は知恵と教育をさげずむ」 フランシスコ会訳聖書

 「知識の初め」

創世記はその冒頭に「はじめに、神は天と地を創造された」(創世1:1 フランシスコ会訳聖書)と語り、箴言は冒頭に「主を畏れることは知識の初め」と告げる。(箴言1:7 フランシスコ会訳聖書)

創世記は人間の存在の「始め」を語り、箴言は神によって創造された人間存在の知識の始めを語る「知識のはじめ」とは、創造に先立ってある「神のみことば」への「畏れ、畏敬」のうちにあらわされる。

この「知識」はすべての「知」のはじめである。

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」 ヨハネ1:1~3 大正文語訳聖書

(†心のデボーション01270)

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