† 心のデボーション 01251
「ここにヘロデ密に博士たちを招きて、星の現れし時を詳細(つまびらか)にし」 マタイ2:7 大正文語訳聖書
「其時ヘロデ密に博士等を召して、星の現れし時を聞匡(ききただ)し」 ラゲ訳聖書
「詳細(つまびらか)」
「詳細(つまびらか)」の「詳」は「言」に「羊」で、「羊」は姿の整った羊を示し、「欠けたところのない、行き届いて論じる」の意味である。
ヘロデはマギに「星の現れた時」について、余分なことを省いて自分の知りたい事実だけを求めた。それは決してい「詳細(つまびらか)」とは言えない。「ヘロデが「星の現れし時」を真に「詳細(つまびらか)に」知ることができたら、歴史は大きく変わったに違いない。
(†心のデボーション01251)
† 心のデボーション 01252
「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書
「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書
「御翼の陰」
創造のはじめに「形なき深き淵」を覆った神の御翼は、翼の下に雛を集める母鳥のように、今、私の上に広げられる。人はみな神の御翼に集められ、抱かれている。
「ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、遣されたる人々を石にて撃つ者よ、牝鷄のその雛を翼の下に集むるごとく、我なんぢの子どもを集めんとせしこと幾度ぞや、されど汝らは好まざりき」 マタイ23:37 大正文語訳聖書
「願くはわれを瞳のごとくにまもり汝のつばさの蔭にかくし 我をなやむるあしき者また我をかこみてわが命をそこなはんとする仇よりのがれしめ給へ」 詩篇17:8~9 明治元訳聖書
(†心のデボーション01252)
† 心のデボーション 01253
「汝ら心の中に鹽を保ち、かつ互に和ぐべし」 マルコ9:50 大正文語聖書
「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」 口語訳聖書
「手塩にかける」
「手塩にかける」お「手塩」は食卓に置かれる小皿に盛られた少量の塩のとで、昔は自分で塩加減を整えたところから、自ら面倒を見ることを「手塩にかける」という。
「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい」は自ら塩を振って味を調えることかもしれない。それによって「互に和らぐ」のである。
(†心のデボーション01253)
† 心のデボーション 01254
「人これによりて箴言と譬喩と智慧ある者の言とその隠語とを悟らん」 箴言1:6 明治元訳聖書
「これは箴言と比喩と、知恵のある者の言葉と、その謎とを理解するためのものである」 フランシスコ会訳聖書
「羊飼いの突き棒」
伝道者は、「知恵のある者のことばは突き棒のようだ」という。(伝道12:11) 「突き棒」は羊飼いが羊を正しく導くために使う「長い棒」である。道を外れる羊を呼び戻し、正しい道に導く。
「知恵のある者のことば」は羊飼いの「突き棒」のようである。
「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり なんぢの笞なんぢの杖われを慰む」 詩篇23:4 明治元訳聖書
(†心のデボーション01254)
† 心のデボーション 01255
「惡事をはかる者の心には欺詐あり」 箴言12:20 明治元訳聖書
「悪をたくらむ者の心には欺きがあり」 新改訳聖書
「眉に唾して」
いかがわしい話を「眉唾物」という。「眉唾」は眉に唾をつけるの意味で、狐狸に騙されないようにという俗信から来ている。ではなぜ眉に唾をつけると狐狸にだまされないかというと、諸々の説があるが、いずれも「眉唾物」である。
悪をたくらむ者の欺きは日々進化しているので、眉に唾をつけるくらいでは間に合わない。
(†心のデボーション01255)
† 心のデボーション 01256
「寡婦孤兒旅客および貧者を虐ぐるなかれ人を害せんと心に圖る勿れと」 ゼカリヤ7:10 明治元訳聖書
「やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない」 口語訳聖書
「心にはかる」
現代は悪が見えにくくなっているかもしれない。子どもは残酷なシーンを映像で「見て」いる。それを幾度も繰り返すうちに心はそれを「経験」してしまうことになる。いつか非日常的と日常との境界がぼやけ、区別がつかなくなるのかもしれない。心で経験される悪とどのように戦い、勝利するかということが子どもの成長の大切な鍵になる。心の中での悪のたくらみを軽く見ることは危険である。
(†心のデボーション01256)
† 心のデボーション 01257
「彼らをベツレヘムに遣さんとして言ふ『往きて幼兒のことを細にたづね、之にあはば我に告げよ。我も往きて拜せん』」 マタイ2:8 大正文語訳聖書
「其を見出さば我に告げよ」 ラゲ訳聖書
「自ら出発して」
ヘロデ王は東方のマギ達を派遣して、「幼子のことを訪ね、見出したら私に知らせて欲しい。私もいって礼拝したいのだ」と告げる。
神を見出すことを人に依頼するべきではない。人が見出したら自分も信じようという人は本当に信じるつもりはないのである。
神を求める人は自ら出発する以外にない。
(†心のデボーション01257)
† 心のデボーション 01258
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 新共同訳聖書
「人を裁くな」
「裁く」には「分ける、運ぶ」という意味がある。物事を区別し、一方を選び、他方を退ける。人は裁かずに生きることはできない。この言葉を考えるには、心に裁きを持ち込まないことからはじめる必要がある。まず、自分を裁かないことである。人生が成功か失敗か、意味があったかなかったかという区別を持ち込まないことである。私が私になれたら、自然に他人を裁くことをしなくなる。
(†心のデボーション01258)
† 心のデボーション 01259
「彼らをベツレヘムに遣さんとして言ふ『往きて幼兒のことを細にたづね、之にあはば我に告げよ。我も往きて拜せん』」 マタイ2:8 大正文語訳聖書
「其を見出さば我に告げよ」 ラゲ訳聖書
「自分の時」
ヘロデは自分の時代が失われることを恐れて、イエスを抹殺しようと企てる。だが、イエスは時を完成するために来られたのである。ヘロデは自分の手で自分を消し去ってしまうことになる。
「時」は変化の中にある。「自分の時」を永劫にとどめたい人は、「時」に逆らわずを得ない。「変化のない時」は生きるに価しない。しかし、変化ほど人を脅かすものはない。
(†心のデボーション01259)
† 心のデボーション 01260
「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書
「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書
「神はわれらの避所」
「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり
さればたとひ地はかはり山はうみの中央にうつるとも我儕はおそれじ
よしその水はなりとどろきてさわぐとも その溢れきたるによりて山はゆるぐとも何かあらんセラ
河ありそのながれは神のみやこをよろこばしめ至上者のすみたまふ聖所をよろこばしむ
神そのなかにいませば都はうごかじ 神は朝つとにこれを助けたまはん」 詩篇46:2~5
地は変わり、山は海のまなかに移るとも、神の存在は動かず、その御住まいはゆるがない。
神はわれらの「避所また力、なやめるときの最ちかき助け」である。
(†心のデボーション01260)
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