心のデボーション125

デボーション1
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† 心のデボーション 01241

「汝らも善を行ひて何事にも戰き懼れずばサラの子たるなり。」 Ⅰペテロ3:6 大正文語訳聖書

「何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである」 口語訳聖書

 「くちなわ」

蛇は「くちなわ」とも言われる。「朽ちた縄」に見えることから来ている。蛇を怖がる人は「腐った縄」を見ても「蛇だ」と怯えてしまう。

「腐った縄」に「蛇だ」と思ってしまうのは、思わぬところで「蛇」と遭遇したときの記憶が残っているからだ。「怯え」の感情は簡単には消えない。

(†心のデボーション01241)

† 心のデボーション 01242

「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書

「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書

 「御手もて我を引き上げ」

「地のふかき處みなその手にあり 山のいただきもまた神のものなり うみは神のものその造りたまふところ旱ける地もまたその手にて造りたまへり」 詩篇95:4~5 明治元訳聖書

我々は「地の深み」が揺れ、「海の深淵」から恐ろしい水が押し寄せることを知った。だが、深い地の底は主の御手のうちにあり、山々の頂きも主のものである。その時にも神は「上から」御手をもて私を引き上げて下さる。

「ヱホバの叱咤とその鼻の氣吹の風によりて海の底あらはれいで地の基あらはになりぬ ヱホバ上より手をたれて我をとり洪水の中より我を引あげ またわが勁き敵および我をにくむ者より我をすくひたまへり彼等は我よりも強かりければなり」 Ⅱサムエル22:17~18 明治元訳聖書

(†心のデボーション01242)

† 心のデボーション 01243

「財嚢を預り、その中に納むる物を掠めゐたればなり。」 ヨハネ12:6 大正文語訳聖書

「自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった」 口語訳聖書

 「胡麻菓子」

「誤魔化し」という言葉は「胡麻菓子」から来たものだそうです。

「胡麻菓子」は江戸時代に中国から伝来した「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という小麦粉に胡麻を混ぜた菓子で、見た目にはふっくらして美味しそうだが、食べると中が空洞だったところから、見た目だけで中身のないことを「胡麻化し」に転じたものという。植物学者牧野富太郎博士は虎屋の「胡麻菓子 どーらん」を大変好んだというが、その話と「胡麻化し」とは無論関係ない。

イスカリオテのユダはいかにも立派な口をきくが、中身は「胴乱」である。

(†心のデボーション01243)

† 心のデボーション 01244

「しばらく臥ししばらく睡り 手を叉きてまた片時やすむ」 箴言6:10    明治元訳聖書

「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」 口語訳聖書

 「手をこまぬいて」

何もしないで傍観することを「手をこまねく」という。

「こまねく」は中国の両手の指を胸の前で組みあわせる挨拶の仕方を意味する言葉。それから腕を組んで「何もしないことを「手をこまねく」と言う。

怠け者は「しばらく眠り、しばらくまどろみ、何もせずに腕を前に組んで、またしばらく休む。

(†心のデボーション01244)

† 心のデボーション 01245

「ヱホバを俟望ぞめ雄々しかれ汝のこころを堅うせよ 必ずやヱホバをまちのぞめ」 詩篇27:14 明治元訳聖書

「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」 口語訳聖書

 「こんなこと」

「こんなことがおこるはずはない」という「こんなこと」が日常の中ではいとも簡単に起こる。そのたびに何とも言えない無力感に襲われる。絶望に打ちのめされない一つの方法は、それがいつでもおこり得ると知っておくことだろうか。それは絶望への備えとなるばかりでなく、希望への備えにもなる。神の恵みはおこるはずのない絶望の中でこそ現われ、無力感を取り除いてくれるからである。

(†心のデボーション01245)

† 心のデボーション 01246

「(百合花のしらべにあはせて伶長にうたはしめたるコラの子のをしへのうた 愛のうた) わが心はうるはしき事にてあふる われは王のために詠たるものをいひいでん わが舌はすみやけく寫字人の筆なり」 詩篇45:1 明治元訳聖書

「私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを語ろう。私の舌は巧みな書記の筆。」 新改訳聖書

 「すばらしいことば」

女性が男性に包容力を期待するのは、自分の事を何でもわかってくれて、うまく扱ってほしいという甘えかもしれない。しかし、女性をうまく扱う男性というのは、今一つ信用できない。互いが理解を深めるには、二人の間にことばが生まれることが大切になる。その人の前に立つと自分という存在が深められ、言葉がどんどんわいてくるというのが本当の包容力であろう。「心がすばらしいことばで沸き立つ」という関係である。

(†心のデボーション01246)

† 心のデボーション 01247

「ここにヘロデ密に博士たちを招きて、星の現れし時を詳細(つまびらか)にし」 マタイ2:7 大正文語訳聖書

「其時ヘロデ密に博士等を召して、星の現れし時を聞匡(ききただ)し」 ラゲ訳聖書

 「メシア情報」

ヘロデは祭司長、律法学者を退け、密かに別室のマギを召し、「星がいつ現れたのか」を聞き出した。

祭司長、律法学者からの「メシア情報」がエルサレムの住民に「大きな待望」に変わることを恐れたのかもしれない。祭司長、律法学者をこれ以上に刺激するのは危険であった。

支配者は常に民が目覚めないように気遣う。

(†心のデボーション01247)

† 心のデボーション 01248

「愛には虚僞あらざれ、惡はにくみ、善はしたしみ」 ロマ12:9 大正文語訳聖書

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」 新改訳聖書

 「吊り橋の上」

深い渓谷にかけられた吊り橋の上で愛を告白するのと、がっしりしたコンクリートの橋の上とでは、吊り橋の方が成功する確率が高いことがわかっている。吊り橋の揺れが、女性の心のときめきを誘うのだと考えられている。立つ位置によって印象が違うということは覚えておいて損ではない。愛が唯一の存在に向けられるものであるならば、愛の告白は最もユニークなものになる。あなたはどこで告白を受けたのだろうか。

(†心のデボーション01248)

† 心のデボーション 01249

「人これによりて箴言と譬喩と智慧ある者の言とその隠語とを悟らん」 箴言1:6 明治元訳聖書

「これは箴言と比喩と、知恵のある者の言葉と、その謎とを理解するためのものである」 フランシスコ会訳聖書

 「耳を傾ける

「箴言と比喩と、知恵のある者の言葉と、その謎を解き明かす」は、その言葉に「耳を傾ける」ことに始まる。

沈思することなしに理解することはできない。

「聞く耳のある者は聞きなさい」 マタ11:15 フランシスコ会訳聖書

(†心のデボーション01249)

† 心のデボーション 01250

「汝を噬む者にはかに興らざらんや 汝を惱ます者醒出ざらんや 汝は之に掠めらるべし」 ハバクク2:7 明治元訳聖書

「あなたの負債者は、にわかに興らないであろうか。あなたを激しくゆすぶる者は目ざめないであろうか。その時あなたは彼らにかすめられる。」 口語訳聖書

 「にわかに」

突然に降りだす雨を「にわか雨」という。「にわか」は江戸時代から明治にかけて、素人が座敷や街頭でおこなった即興の芝居や滑稽寸劇の「俄狂言」の略である。突然始まって衆目をあつめることを「にわかに始まる」という。

借金取りは「にわか」に取り立てにくるわけではない。返済をおこたっていたので、思わぬときに取り立てられるのである。

(†心のデボーション01250)

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