† 心のデボーション 01231
「我裸にて母の胎を出たり 又裸にて彼處(かしこ)に歸らん ヱホバ與へヱホバ取たまふなり ヱホバの御名は讚(ほむ)べきかな」 ヨブ1:21 明治元訳聖書
「汝は ユダの長たちの中にて最小(いとちいさ)き者にあらず」 マタイ2:6 大正文語訳聖書
「最小(いとちいさ)き者」
コンテストで最下位の人に与えられるブービー賞は、大体スプーンと決まっている。(とるに足りないという意味で) Booby prizeのBoobyは「まぬけ」を意味するスペイン語 bobo に接尾語 y をつけたもの。しかし、そのうちに賞が豪華になってくると、はじめから最下位を狙うものがあらわれ、狙いにくい最下位から2番目の者に与えられるようになった。
ヨブはすべてを失って「我裸にて母の胎を出たり 又裸にて彼處(かしこ)に歸らん」と語り、神の御名を賛美した。
人は裸で生まれ、その手に何も持たずに神に帰る。賞に値するのは、そのことである。勝者も敗者もない。「私」であることだけである。
(†心のデボーション01231)
† 心のデボーション 01232
「おのおの主の賜ふところに隨ひ」 Ⅰコリント3:5 大正文語訳聖書
「主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。」 新改訳聖書
「イツァーク・パールマン」
1945年イスラエル生まれのヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンは4歳3ヶ月のときにポリオ(小児麻痺)にかかり下半身不自由になるが、3歳ではじめたヴァイオリンをあきらめず、世界最高のヴァイオリン奏者として活躍している。
パールマンがニューヨークのリンカーン・センターでコンサートを開いたとき、指揮者がパールマンに向けてタクトを振り下ろしたとき、ヴァイオリンの弦が一本音をたてて切れた。しかし、パールマンは何もなかったように、そのまま残りの三本の弦で演奏をした。
聴衆は見事な演奏に喝采の拍手を送った。パールマンはハンカチで汗をぬぐい、「私たち芸術家に与えられた使命は、手の中にあるものでどこまでできるかなのです」と語ったという。(アレックス・ロビラ「人生の贈り物」より)
神が私にくださった「手の中にあるもの」でどこまでできるか試してみたい。
(†心のデボーション01232)
† 心のデボーション 01233
「また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり」 マタイ6:7 大正文語訳聖書
「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」 新共同訳聖書
「くだをまく」
酒に酔ってくどくどとつまらないことを言うのを「くだをまく」という。
これは糸をむつに巻きつける時ぶんぶんと耳障りな音を立て続けることから転したことばである。
酒を飲まなくても「くだをまく」人がいる。
くどくどと祈る人は神に「くだをまいている」のである。
(†心のデボーション01233)
† 心のデボーション 01234
「ヂベオンの子は左のごとし即ちアヤとアナ此アナその父ヂベオンの驢馬を牧をりし時曠野にて温泉を發見り」 創世記36:24 明治元訳聖書
「ツィブオンの子は次のとおり。アヤ、アナ。このアナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき荒野で温泉を発見したアナである。」 新改訳聖書
「草津温泉」
群馬県の名湯草津温泉の「草津」は「臭い水 (くそうず)」から来ている。
聖書にはイサクの子エソウはセイルに棲み、セイルにはアナという人が荒野で温泉を発見したと記されている。
(創世記36:24) エソウはこの温泉(臭い水)を楽しんだろうか?
(†心のデボーション01234)
† 心のデボーション 01235
「きけよ風聲あり北の國より大なる騒きたる」 エレミヤ10:22 明治元訳聖書
「聞け、うわさを。見よ。大いなる騒ぎが北の地からやって来る」 新改訳聖書
「下馬評」
江戸時代に馬に乗って登城した武士は定められた場所で下馬し、徒歩で城に入った。供の者たちはそこで主人の下城を待つのだが、その間、供の者たちは互いに噂話などして世間の情報を集めた。それを「下馬評」と言った。極めて無責任な興味本位な話を指す。
「下馬評」ほど面白いものはないが、玉石混交なので扱いに注意が必要である。
(†心のデボーション01235)
† 心のデボーション 01236
「眞實の證人は人のいのちを救ふ 謊言を吐く者は偽人なり」 箴言14:25 明治元訳聖書
「真実の証人は魂を救い/欺きの発言をする者は裏切る」 新共同訳聖書
「手のひらを反す」
急に態度を変えることを「手の平を返す」という。手は「甲」が表で、「手のひら」は「裏」である。それで「手の裏を返す」という言い方もする。
ひっくり返されるのは「表」ではなく「裏」である。「裏」がひっくり返されたので「表」がひっくり返るのも当然なのだ。
(†心のデボーション01236)
† 心のデボーション 01237
「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」 マタイ7:7 大正文語訳聖書
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」 新共同訳聖書
「求めを放す」
与えられるには、まず、求めをそこに置く必要がある。求めを消すのではなく、求めを放す。求めを放せば本当の求めが現われてくる。信仰は、神が与えようとするものが見えるまで、黙して待つ。したがって、この御言葉は「求めるな。そうすれば与えられます」と読むこともできる。求めを放すには小さな勇気がいる。
(†心のデボーション01237)
† 心のデボーション 01238
「酒は人をして嘲らせ 濃酒は人をして騒がしむ 之に迷はさるる者は無智なり」 箴言20:1 明治元訳聖書
「酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない」 新共同訳聖書
「泥酔」
「泥酔」の「泥」は中国の空想上の生き物のことで、骨がなくぐにゃぐにゃした体で普段は海底でおとなしく暮しているが、怪異面にのぼると活発に動き浜に打ち上げれられるとのたうち回り、しまいには泥のように固まってしまう。酒に悪酔いする人は「浜に打ち上げられた泥」のごとくである。
(†心のデボーション01238)
† 心のデボーション 01239
「膏と香とは人の心をよろこばすなり 心よりして勸言を與ふる友の美しきもまた斯のごとし」 箴言27:9 明治元訳聖書
「油と香とは人の心を喜ばせる、しかし魂は悩みによって裂かれる。」 口語訳聖書
「空回り」
悩んでも仕方のないことはわかっていてもあれこれ考えてしまう。思考は完全に空回りし、出口のない迷路に迷い込んだのだ。そんな時には、すぐ目の前にあることを行動に移せばよいとはわかっている。しかし、それができないから迷うのだ。せめてその時は、悩むのは自分だけではなく、他人もまた悩むことに気づいてほしい。人にはその人にも悩みがあることがわかると、いくらか心が軽くなる。
(†心のデボーション01239)
† 心のデボーション 01240
「ここにヘロデ密に博士たちを招きて、星の現れし時を詳細(つまびらか)にし」 マタイ2:7 大正文語訳聖書
「其時ヘロデ密に博士等を召して、星の現れし時を聞匡(ききただ)し」 ラゲ訳聖書
「聞きただす」
ヘロデ王は祭司長たちからキリスト誕生の場所を、東の博士たちからその時期を聞き出す。
しかし、ヘロデにはさらに集めなければならないメシアについての情報があった。それは人から集めることは誰にもできない。
(†心のデボーション01240)
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