心のデボーション123

デボーション1
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† 心のデボーション 01221

「人これによりて箴言と譬喩と智慧ある者の言とその隠語とを悟らん」 箴言1:6 明治元訳聖書

「これは箴言と比喩と、知恵のある者の言葉と、その謎とを理解するためのものである」 フランシスコ会訳聖書

 「知恵のある人」

「知恵のある者」とは知識を蓄えた人のことではない。「よき仕事」をする人のことである。「知恵」に仕事をさせることのできる人である。

(†心のデボーション01221)

† 心のデボーション 01222

「ヱホバ、ヨセフとともに在す彼享通者(さかゆるもの)となりてその主人なるエジプト人の家にをる」 創世記39:2 明治元訳聖書

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」 新改訳聖書

 「遠回り」

エジプトに売られたヨセフはエジプトでパロの侍従長ポテファルに買い取られ「幸運の人」と呼ばれた。

ヨセフは決して「幸運」に恵まれてはいなかったが、「主が彼と共におられた」ので「幸運の人」と呼ばれたのである。

願いは即座に聞かれず、思わぬ遠回りすることがある。しかし、遠回りそのものが「幸運」を運ぶ。

† 心のデボーション 01223

「事毎に謙遜と柔和と寛容とを用ひ、愛をもて互に忍び」 エペソ4:2 大正文語訳聖書

「できる限り謙虚で」 口語訳聖書

 「謙虚」

英語で「謙虚」を意味する humility はラテン語の「腐葉土」を意味する humilis から来ている。

「謙虚」は落ち葉が腐ってできた土だが花や野菜を豊かに育てる。よきものは「謙虚」からを生まれる。

† 心のデボーション 01224

「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世1:2 明治元訳聖書

「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書

 「根源を問う」

「根源」は、あまりに深く、形なく、「混沌」である。

ヨブは、ヨブの苦悩に接して言葉を失う友人たちに、砂漠で道に迷った隊商のように、「あなたがたは混沌に踏み込んでいる」という。(ヨブ6:18,21)

しかし、創世記1:2 が示すのは、神の霊がそれを覆う「秩序を生み出す混沌」である。

人間は「根源なき」ものではなく、「根源からの」ものである。

物事はすべてその「原因」をもつ。そこに至るために迷い出て混沌に踏み込む。

(†心のデボーション01224)

† 心のデボーション 01225

「汝は ユダの長たちの中にて最小き者にあらず」 マタイ2:6 大正文語訳聖書

「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの中の氏族のうちで、けっして最も小さな者ではない」 フランシスコ会訳聖書

 「心の貧しい者」

「心の貧しい者」は自分が「小さき者」であるか「大いなる者」であるかを意識したりはしない。ことさらに卑下するのもの、一種の自分を高く見せることである。大きくもなく、小さくもなく、自分であればそれでよい。

自分の高さを知り、その目線から周囲を見るがよい。

種田山頭火の日記に「闘牛児さんの話」として次のような逸話がある。

「氏の宅の井戸水はおつとりした味を持っている、以前は近隣から貰ひにくるほどの水だつたそうなが、厳父がヨリよい水を求めて掘り下げて却つてよくない水としたそうな、そしてそれを砂利で浅くして、やうやくこれだけの水が出るやうになったとのことである」(種田山頭火『山頭火』日記 一)

「生半端に掘ったところよりも、むしろ浅いところによい水が湧くこともある」

(†心のデボーション01225)

† 心のデボーション 01226

「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」 マタイ5:3 大正文語訳聖書

「福(さいはひ)なる者は靈に於て貧しき者[なり]。そは天國は彼等のものなればなり」 永井直治訳聖書

 「貧しさ」

貧しさが大切とは言えない。しかし、貧しさを知らない人が心豊かにはなれないのではないか。

豊かさとか貧しさを、持てる物質(金銭)を基準に考えるべきではない。

「貧しさ」とは求めるしかないと知る心である。この「貧しさ」が人を神と結びつける。

† 心のデボーション 01227

「斯く我が走るは目標なきが如きにあらず、我が拳鬪するは空を撃つが如きにあらず。」 Ⅰコリント9:26 大正文語訳聖書

「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」 新改訳聖書

 「空を打つような拳闘」

「明家(あきや)で声をからす」は「空き家の玄関で案内を求めても無駄」という意味だそうである。

魚のいないプールで釣りをするようなもので、努力さえすれば道は開けるものではない。

相手が誰だかわからないような拳闘も同じである。

† 心のデボーション 01228

「時にイスラエルこの歌を歌へり云く井の水よ湧あがれ汝等これがために歌へよ」 民数記21:17 明治元訳聖書

「そのことがあったとき、イスラエルはこの歌をうたった。井戸よ、湧き上がれ/井戸に向かって歌え。」 新共同訳聖書

 「喝水不忘掘井人」

中国のことわざに「喝水不忘掘井人 水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならぬ」という。

井戸のために岩を割り、堅い地を掘り下げた者の苦悩を忘れない人が、「井の水よ湧あがれ」と歌うことができる。

† 心のデボーション 01229

「我モーセと偕に在しごとく汝と偕にあらん我なんぢを離れず汝を棄じ」 ヨシュア1:5 明治元訳聖書

「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」 新改訳聖書

 「あなたを見放さず」

英語 abject は「ab- 離れた」 + 「ject 投げる」で、「救い難い、みじめな。落ちぶれ果てた」のいみになる。離れたところに投げ捨てられるような見放されたみじめさである。

神は決して私を「見捨てず」、「見放されない」。

† 心のデボーション 01230

「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世1:2 明治元訳聖書

「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書

 「混沌からの出発」

創世記は原初の混沌をただ眺めるのではない。神が「混沌」に形をあたえられ、その意味を明らかにしていく様を語る。世界は混沌から出発し整えられていく。「人間の存在の意味」もそのようにして明らかにされよう。

(†心のデボーション01230)

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