心のデボーション122

デボーション1
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† 心のデボーション 01211

「主ヱホバ言たまふ 視よ日至らんとす その時我饑饉たを此國におくらん 是はパンに乏しきに非ず 水に渇くに非ず ヱホバの言を聽ことの饑饉なり」 アモス8:11 明治元訳聖書

「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」 新共同訳聖書)

 「聞くことの飢饉」

「聞くことの飢饉」とは耳を塞いで聞くことをしないのではなく、北から東へと探し求めているのに「見いだせない」という苦しみである。沢山の言葉と出会い、話を聞くが、心はそこから何も見いだせない。共に泣き、笑い、感じることがなくなった世界で、人は何を求めて地を行き巡るのだろうか。それでも私は聞くことを止めはしない。神は沈黙されたのではないからである。

(†心のデボーション01211)

† 心のデボーション 01212

「汝は ユダの長たちの中にて最小き者にあらず」 マタイ2:6 大正文語訳聖書

「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの中の氏族のうちで、けっして最も小さな者ではない」 フランシスコ会訳聖書

 「小さい魚」

「誰が初めのささやかな日をさげすむのか」 ゼカリヤ4:10 新共同訳聖書

人はみな小さい。イエスの手にあるのは「小さい魚」である(マタイ15:34)。「過去のあなたは小さなものであったが、未来のあなたは非常に大きくなるであろう」(ヨブ8:7) 新共同訳聖書

(†心のデボーション01212)

† 心のデボーション 01213

「人これによりて箴言と譬喩と智慧ある者の言とその隠語とを悟らん」 箴言1:6 明治元訳聖書

「これは箴言と比喩と、知恵のある者の言葉と、その謎とを理解するためのものである」 フランシスコ会訳聖書

 「謎」

「謎 חִידָה ‎ キーダウ」は「難問、問い」で、「知恵ある者の深い知恵」に基づく「謎」である。この「謎」はしばしば人を「当惑させる」るが、その「問い」は人を存在の秘密に導き、神を明らかにする。

人生はそれに導かれている。

(†心のデボーション01213)

† 心のデボーション 01214

「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書

「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書

 「カオス」

地はいまだ形なく混沌として、暗黒が淵の面にあった。「淵(わだ)תְּהוֹם テホーム」は「海、海の深み、深い水、水の湧き上がる深いところである。

ヘブライ語「深い淵 תְּהוֹם テホーム」は「混沌 カオス」を意味する。メソポタミアでカオスを象徴するのは海の怪物ティアマトTiamat であり、このティアマトから tehom という語が生まれた。

しかし、創世記の「混沌」は「虚無、混乱、虚しさ」の意味での「カオス」ではない。

地は形がなくむなしくあり、神の霊が原初の混沌を覆っていた。創世記1:2 は、やがて天と地に出現するいのちを内に抱き、創造の悦びを秘めた「混沌」を描くのである。

「龍よ すべての淵よ地よりヱホバをほめたたへよ」 詩篇148:7 明治元訳聖書

(†心のデボーション01214)

† 心のデボーション 01215

「われ夜わが歌をむもひいづ 我わが心にてふかくおもひわが霊魂はねもころに尋ねもとむ」 詩篇77:6 明治元訳聖書

「夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。」 新共同訳聖書)

 「問いを生きる」

問いを生きるのは、ある煩わしさを伴う。問う価値のあるものは、容易に答の出ないものだからである。しかし、どうしようもないと逃げていると、やがて、そのつけが回ってくる。問う力とは、その見えない霧の中で、執拗に問い続けることである。神に問いを発することが、たましいを生かす。問うことなしに私を生きることはできない。

(†心のデボーション01215)

† 心のデボーション 01216

「ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と録されたる如し。」 ロマ10:15 大正文語訳聖書

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」 新共同訳聖書)

 「エンジェル・ベビー」

ブラジルのカソリック教会が経営する「未婚の母の家」ではサリドマイド・ベビーは「エンジェル・ベビー」と呼ばれるそうです。(曽野綾子「ほどほどの効用」)

神の言葉を語る「幸運の子」という意味でしょうか。

(†心のデボーション01216)

† 心のデボーション 01217

「我汝の祈祷を聽り汝の涙を看たり」 Ⅱ列王20:5 明治元訳聖書

「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」 新共同訳聖書)

 「赤子の泣き声」

「赤子は泣き泣き育つ」という。赤ん坊が泣くのは健康のしるしで、泣きながら育つ。

悲しいからだけではない。欲しいものを訴えても泣く。「泣き声」は赤ん坊の言葉である。

母親は赤ん坊の泣き声を聞くだけでその意味を聞き分ける。

(†心のデボーション01217)

† 心のデボーション 01218

「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり」 マタイ6:34 大正文語訳聖書

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 新共同訳聖書

 「新しい水」

満ちた桶にはそれ以上の水は汲めない。新しい水を汲みたければ、桶の水を使ってしまうことだ。

無暗に新鮮な水を欲しがってはいけない。その日の必要はその日に応じて与えられるからである。

(†心のデボーション01218)

† 心のデボーション 01219

「是故に聽き別る心を僕に與へて汝の民を鞫しめ我をして善惡を辨別ることを得さしめたまへ誰か汝の此夥多き民を鞫くことを得んと」 Ⅰ列王3:9 明治元訳聖書

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」 新改訳聖書

 「認めたくない自分」

いつの間にかいい自分になっている、そうしむけてくれるのは大切な人である。認めたくない自分と向き合ってくれるのはもっと大切な人である。しかし、何かへまをしても、そうせざるを得なかった本当の自分に語りかけてくれるのが最も大切な人である。「聞き分ける心」は、人の心に入り込んで裁くことをしない。ただ、静かに聴いてくれる。すると、いつの間にか、いい自分になっている。

(†心のデボーション01219)

† 心のデボーション 01220

「汝は ユダの長たちの中にて最小き者にあらず」 マタイ2:6 大正文語訳聖書

「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの中の氏族のうちで、けっして最も小さな者ではない」 フランシスコ会訳聖書

 「小さき者」

「小さい ἐλάχιστος エらきストス」には「劣った」の意味がある。「小さい」を「劣った」とする世界では、「大きい」は「優れた」を意味する。

「小さいもの」が小さいだけで「劣っている」とするのには何の根拠もない。逆に、「大きい」は大きいだけで「優れている」わけではない。

神が「小さいもの」を尊しとされるのは、決して、小さいが故ではない。神が現われるためである。小さき者もその身を通して神が現われるのでなければ、彼は決して祝福された「小さき者」ではない。

(†心のデボーション01220)

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