心のデボーション119

デボーション1
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† 心のデボーション 01181

「ヒゼキヤこれがために喜びその寶物の庫金銀香物貴き膏(あぶら)および武器庫ならびにその府庫(くら)にあるところの一切の物を之に見せたりその家にある物もその國の中にある物も何一箇としてヒゼキヤが彼等に見せざる者はなかりき」 Ⅱ列王20:13 明治元訳聖書

「ヒゼキヤは、彼らのことばを聞いて、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった」 新改訳聖書

 「何を語り、いかに黙すか」

祭司長、律法学者たちは、ただちに「メシア」に関する情報をヘロデに伝える。彼らは聞かれると全てを語ってしまう。それは「メシア」を待望するイスラエルの民とその指導者としての自分への裏切りである。

かつて、ユダの王ヒゼキヤは敵国バビロンの使者に神殿の宝庫と武器庫を開いて見せてしまい、それによって厳しい裁きを受けたではないか。(Ⅱ列王20章)

神は「我は口重く舌重き者なり」と訴えるモーセに、「然ば往けよ我なんぢの口にありて汝の言ふべきことを敎へん」と励まされた。(出エジプト4:10~13) 何を語り、いかに黙すかは神の導きにある。

(†心のデボーション01181)

† 心のデボーション 01182

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「意思による創造」

「創られた בּראバラー」は「まったく新しいものを造る」で、「言葉または意思によって造るという意味」 (フランシスコ会訳聖書注解)である。

神の御意思によって「私」は創造され、「出来事」は創られた。「私」と「出来事」の中に「神の御意思」がある。それを見出すことが信仰の目的である。

(†心のデボーション01182)

† 心のデボーション 01183

「己が物を取りて往け、この後の者に汝とひとしく與ふるは、我が意なり」 マタイ20:14 大正文語訳聖書

「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」 新共同訳聖書

 「正しい論理の反対側」

曽野綾子さんは次のように解釈する。

「最後の人に1デナリ払う。労働に順当に払うというのも正しい論理なら、一人の人間が妻子を抱えて同じだけ要るから、一日分を払ってやりたいというのも正しい。正しい論理の反対も正しいという見方を聖書は示している。日本では、正しいことの反対は間違いだと決めつける」(曽野綾子『ほどほどの効用』)

(†心のデボーション01183)

† 心のデボーション 01184

「それは學者らの如くならず、權威ある者のごとく教へ給へる故なり」 マタイ7:29 大正文語訳聖書

「それは、自分たちの律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」 フランシスコ会訳聖書

 「権威ある者」

「権威 authority」の語根はラテン語のaugereの「増える、生じさせる」から来ている。

「権威ある者」とは、物事を「生じさせる」ことのできる存在のことである。

主イエスの教えは、聞く者の内に働き、御言葉を実現させるものであった。

(†心のデボーション01184)

† 心のデボーション 01185

「ヱホバ神言たまひけるは人獨なるは善らず我彼に適ふ助者を彼のために造らんと」 創世記2:18 明治元訳聖書

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 新共同訳聖書

 「わが妻・夫(つま)」

昔、愛し合う男と女は互いを「妻・夫(つま)」と呼びかわしたそうです。「妻」とは「端」にも通じ、一つのものの端と端、つまり切っても切れない関係を意味した。現代の妻は、会社に行く夫を「わが愛夫(うつくしつま)」として送り出しているだろうか。切り離したら両方ともに存在の意味を失うのが夫婦の関係である。間違っても相手を添え物の「つま」扱いするものではない。

(†心のデボーション01185)

† 心のデボーション 01186

「淫行のもの、男色を行ふもの、人を誘拐すもの、僞るもの、いつはり誓ふ者の爲、そのほか健全なる教に逆ふ凡ての事のために設けられたるを知るべし。」 Ⅰテモ1:10 大正文語訳聖書

「不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。」 口語訳聖書

 「誘拐者」

ギリシャ語の「誘拐する者」とは「奴隷に売る者」の意味で、奴隷商人を指す。

英語の「誘拐 abduct」は「ab- 離れた」+「duct 導く」で「離れたところに導く」の意味である。

現代の誘拐者は、いつの間にか、心を「誘拐」し、「離れたところ」に導く。

(†心のデボーション01186)

† 心のデボーション 01187

「我をして諸の災禍を贖はしめたまひし天使ねがはくは是童子等を祝たまへねがはくは是等の者わが名とわが父アブラハム、イサクの名をもて稱られんことをねがはくは是等地の中に繁殖がるにいたれ」 創世記48:16 明治元訳聖書

「すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」 新改訳聖書

 「取り替え子」

中世では「取り替え子」ということが信じられていた。子どもが、とても自分の子とは思えなくなる瞬間がある。その時「これはうちの子ではない。悪魔が別の子と取り換えたに違いない」と考えたのだろう。子どもを別の子に取り替えられないためには、自分の子とは思えないその部分を大切に見守ることである。取り替えられまいとする心が、取り替えを招く。

(†心のデボーション01187)

† 心のデボーション 01188

「人の智慧はその人の面に光輝あらしむ 又その粗暴面も變改べし」 伝道8:1 明治元訳聖書

「人の知恵はその人の顔を輝かせ、またその粗暴な顔を変える」 口語訳聖書

 「仏顔」

「愛嬌」という言葉は「仏様のような慈愛にみちた顔つき」を現わすという。いわゆる「仏顔」だが、人を顔つきで判断するのは間違いのもとである。

伝道者の「知恵がつくる顔つき」とはどのようなものだろうか? 「粗暴な顔」ではないが、かならずしも「愛嬌のよい」ものとは言えないかもしれない。

(†心のデボーション01188)

† 心のデボーション 01189

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「存在の意味」

人は「天と地」を観察するだけでは存在の認識は不十分である。創造された神において「天と地」の「存在の意味」を明らかにする必要がある。すべての「生きた認識」はそこから出発する。

(†心のデボーション01189)

† 心のデボーション 01190

「何事にまれ、徒黨また虚榮のためにすな、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりとせよ」 ピリピ2:3 大正文語訳聖書

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」 新改訳聖書

 「責任感の強い人」

責任感の強い人は、すべてを自分でやろうとする。しかり、そこにも「他人に聞く余地」は残しておきたい。他人のアドバイスや援助がなくても自分で出来るという思い込みでやると何かが欠け、他人にはそれがよく見える。重い責任を負う人ほど、聞きぬき、聞き分ける力を必要とする。「人を自分よりすぐれたもの」と本気で考える謙虚さがないと、なかなか他人に聞くことはできない。

(†心のデボーション01190)

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