心のデボーション117

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 01161

「神いひ給ふ 『われ惠の時に汝に聽き、 救の日に汝を助けたり』 と。視よ、今は惠のとき、視よ、今は救の日なり」 Ⅱコリント6:2 大正文語訳聖書

「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です』」 新改訳聖書

 「日にち薬」

聖書のギリシャ語には「カイロス」と「クロノス」という二つの「時」を表わす言葉がある。カイロスは「意味をもつ時」であり、クロノスは「時間」である。カイロスが現われる時、そこに応えと助けがある。私たちが「日にち薬」と呼ぶのはカイロスのことかもしれない。クロノスの流れの中にカイロスを出現させるのは神である。だから、私たちはクロノスもカイロスも同じように大切に生きるのである。

(†心のデボーション01161)

† 心のデボーション 01162

「王、民の祭司長・學者らを皆あつめて、キリストの何處(いづこ)に生(うま)るべきを問ひ質(ただ)す」マタイ2:4 大正文語訳聖書

「ヘロデ王は司祭長たちと民間の律法学士たちを呼び寄せて、キリストはどこに生まれるはずなのかと尋ねた」 バルバロ訳聖書

 「尋ねて確かめる」

「問いただす πυνθάνομαι プゆンたノマイ」は「尋ねて確かめる」ことである。「問ふ」の漢字は「門」に「口」 で、二つの扉を閉ざして中を隠す「門」の前に立ち、わからないことを「口」で探り出すの意味である。

「門を叩け、さらば開かれん」(マタイ7:7 大正文語訳聖書)は、「問ふ者」に与えられる言葉である。

(†心のデボーション01162)

† 心のデボーション 01163

「われ智慧の道を汝に敎へ義しき徑筋に汝を導けり」 箴言4:11 明治元訳聖書

「わたしは、お前を知恵の道に導き、お前を正しい道に歩ませた」 フランシスコ会訳聖書

 「何か一つを」

何か一つを成し遂げた人は、それを基にしてさらに視野を広げていくようだ。好きでやっているうちにそれが「何か一つ」になることもあるし、好きだ絵もないのに続けていくうちに面白くなってくることもある。

自分にはそういうものが一つもないと嘆く必要はない。自分の「何か一つ」に気づいていないだけだからである。神は「何もない人」などお創りにならない。

(†心のデボーション01163)

† 心のデボーション 01164

「智慧ある者は之を聞て學にすすみ 哲者は智略をうべし」 箴言1:5 明治元訳聖書

「知恵のある人もそれを聞いて知識を深め、賢い人も指導の道を知るだろう」 バルバロ訳聖書

 「自らに聞く」

「知恵のある者」は「人の上に立つことなく、人を指導する道」を知る人である。彼に学ぶ者は、何よりもまず、「自らに聞く」ことの意味と価値を学ぶからである。

(†心のデボーション01164)

† 心のデボーション 01165

「此故にわれまたこれをヱホバにささげん其一生のあひだ之をヱホバにささぐ斯てかしこにてヱホバををがめり」 Ⅰサムエル1:28 明治元訳聖書

「それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した」 新改訳聖書

 「神に貸し出す」

ハンナは神に願って与えられた幼子サムエルを、約束道り神に渡す。すべての子どもは両親の愛情をもって育てられるが、いつか、これからは神がその子を育てるという時が来る。「渡す」には「貸し出す」という意味がある。ハンナは神から借りた子を、今度は神に貸し出すのである。このハンナの言葉には成長した我が子への誇りが感じられる。神に貸し出すと言えるほど見事に育った我が子への誇りである。

(†心のデボーション01165)

† 心のデボーション 01166

「我はその傍にありて創造者となり 日々に欣び恒にその前に樂み」 箴言8:30 明治元訳聖書

「わたしを見失う者は自分自身をそこない」 新改訳聖書

 「下手の下手な絵」

画家の熊谷守一は若手の画家から「どうしたらいい絵が描けるか」と尋ねられて「自分を生かす自然な絵をかけばいい。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい」と答えたといいます。「自分を出して自分を生かすしかない」と言う。

下手な人が上手をやろうとするから失敗する。しかし、上手が上手な絵に満足しないように、下手は下手な絵に満足できない。つまり、素人なのだろう。

(†心のデボーション01166)

† 心のデボーション 01167

「王、民の祭司長・學者らを皆あつめて」 マタイ2:4 大正文語訳聖書

「ヘロデ王は司祭長たちと民間の律法学士たちを呼び寄せて」 バルバロ訳聖書

 「主の会衆」

「あつめて」は、ラテン語訳 congregans で、congrego 「集める、集結する」の意味である。

英語 congregation は「集合、集会、修養会」の意味である。

「汝等イスラエルの全會衆に告て言べし」(出エジプト12:3)。 モーセによってエジプトを脱出したユダヤ民族は「Congregation 会衆」と呼ばれた。へブル語 「עֵדַה 会衆」は「指定されて集まった者]」の意味である。

「主の会衆」(申命31:30)であった。

ヘロデは祭司長、律法学者を「congrego 招集」した。ヘロデの「congregation」においても、彼らは本来「Congregation 主の会衆」としての自己を見失うべきではなかった。

(†心のデボーショ 01167)

† 心のデボーション 01168

「なんぢら人に爲られんと思ふごとく、人にも然せよ」 ルカ6:31 大正文語訳聖書

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」 新共同訳聖書

 「苦手な人」

どのようなタイプが苦手かは人によるが、誰にも苦手はいる。どちらかといえば、自信にあふれ、人のことなど気にもしないという人ではないだろうか。しかし、あなたが苦手に感じるということは、相手もあなたを苦手に感じているいものだ。それなら遠慮はいらない。苦手意識を抑えレば、相手もまた気軽にあなたを受け入れるはずである。相手にして欲しい態度をとれば、相手も同じ態度に変わる。

(†心のデボーション01168)

† 心のデボーション 01169

「なんぢの途をヱホバにゆだねよ 彼によりたのまば之をなしとげ」 詩篇37:5 明治元訳聖書

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」 新改訳聖書

 「神にゆだねる」

答えの出ないことは、無理に結論をだそうとしないで「放っておく」とよい。白黒をつけずに放置する。しばらくすると自然に解決している。「放ってはいられない」という思い込みがどこから来るのか考えてみると、意外なことに思い当ることもある。

(†心のデボーション01169)

† 心のデボーション 01170

「智慧ある者は之を聞て學にすすみ 哲者は智略をうべし」 箴言1:5 明治元訳聖書

「知恵のある人もそれを聞いて知識を深め、賢い人も指導の道を知るだろう」 バルバロ訳聖書

 「指導の道」

「指導の道」は教えることにあるのではなく、自ら「聞いて学び」に進むにある。

(†心のデボーション01170)

コメント