† 心のデボーション 01151
「主ヱホバは敎をうけしものの舌をわれにあたへ言をもて疲れたるものを扶支ふることを知得しめたまふ また朝ごとに醒しわが耳をさまして敎をうけし者のごとく聞ことを得しめたまふ」 イザヤ50:4 明治元訳聖書
「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」 新改訳聖書
「弟子の舌」
疲れ果てた人は何をもって慰められるのだろうか。慰めのことばを待っているのはわかる。でも、そのことばが見つからなくて悲しい。疲れ果てた人に届くために私は、朝ごとに魂を呼び醒まされる神に聞く。耳を傾け自分の魂に聞くという厳しさから、慰めのことばを伝える「弟子の舌」が与えられる。
魂の声に聴くということが疲れた心に届くことだと思う。
(†心のデボーション01151)
† 心のデボーション 01152
「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書
「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書
「創造」
「ヱホバいにしへ其御わざをなしそめたまへる前に その道の始として我をつくりたまひき
永遠より元始より地の有ざりし前より我は立られ
いまだ海洋あらず いまだ大なるみづの泉あらざりしとき我すでに生れ
山いまださだめられず 陵いまだ有ざりし前に我すでに生れたり
即ち神いまだ地をも野をも地の塵の根元をも造り給はざりし時なり
かれ天をつくり海の面に穹蒼を張たまひしとき我かしこに在りき
彼うへに雲氣をかたく定め 淵の泉をつよくならしめ
海にその限界をたて 水をしてその岸を踰えざらしめ また地の基を定めたまへるとき
我はその傍にありて創造者となり 日々に欣び恒にその前に樂み
その地にて樂み又世の人を喜べり」 箴言8:22~31
神の働きにに先立って、「智慧」そこにあり、創造の「歓び」そこにある。
(†心のデボーション01152)
† 心のデボーション 01153
「キリストの何處(いづこ)に生(うま)るべきを問ひ質(ただ)す」 マタイ2:4 大正文語訳聖書
「キリストはどこに生まれるはずなのかと尋ねた」 バルバロ訳聖書
「問いただす」
「So he assembled all the High Priests and Scribes of the people, and anxiously asked them where the Christ was to be born.」Matt. 2:4 Weymouth New Testament
「問いただす」をWeymouth New Testamentは「anxiously(心配して、案じて、切望して) asked(問いただす)」と訳す。ヘロデにとってキリストは「気がかりな」存在であり、「切望」の対象であった。それを求める思いは信じる者を上回るのである。
(†心のデボーション01153)
† 心のデボーション 01154
「『われら汝等のために笛吹きたれど、汝ら踊らず、歎きたれど、汝ら胸うたざりき』と言ふに似たり」 マタイ11:17 大正文語訳聖書
「『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』と言っているのに似ている」 フランシスコ会訳聖書
「笛を吹いたのに」
広場にいる子どもが、さあ結婚式ごっこをしようと笛を吹いたのに、他の子どもは踊らなかった。では葬式ごっこをしようと弔いの歌をうたったのに泣いてくれなかった。他人が自分の笛に合わせて踊ってくれないと嘆くのは子どもばかりではない。喜びがあれば人は笛がなくても踊る。悲しければ弔いの歌がなくても涙は流れる。この笛は勝手に吹いてよいものではない。
(†心のデボーション01154)
† 心のデボーション 01155
「熟錬なる建築師のごとく」 Ⅰコリント3:10 大正文語訳聖書
「熟練した建築師のように」 口語訳聖書
「長太郎の鋏」
私の机の上には洋服の仕立屋であった父の形見の鋏が一丁ある。長太郎の銘のはいった裁鋏であるが、長年、研師によって研がれ、短い鋏になっている。長太郎の鋏は日本刀の鉄で鍛えられていると聞いた。よい鋏はどんなに短くなっても切れ味は変わらない。むしろ、切れ味が手に馴染んでくる。人間と同じだ。
(†心のデボーション01155)
† 心のデボーション 01156
「なんぢの荷をヱホバにゆだねよさらば汝をささへたまはん ただしき人のうごかさるることを常にゆるしたまふまじ」 詩篇55:22 明治元訳聖書
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」 新改訳聖書
「相手との違い」
わかっていても、相手との違いは気になる。問題は互いの相違ではなく、相手を変えようとしたり、自分が変わることで相違を解消しようとすることである。相違はいじらずに、そのまま放置したらよい。必ずしも相手と一致できない自分を大切にすることが、他人との関係に入る唯一の方法ではないだろうか。相違はそれを造られた神にゆだねるべきものである。
(†心のデボーション01156)
† 心のデボーション 01157
「王、民の祭司長・學者らを皆あつめて、キリストの何處(いづこ)に生(うま)るべきを問ひ質(ただ)す」マタイ2:4 大正文語訳聖書
「ヘロデ王は司祭長たちと民間の律法学士たちを呼び寄せて、キリストはどこに生まれるはずなのかと尋ねた」 バルバロ訳聖書
「その何事なるかを問ふ」
放蕩息子の兄は畑から帰って、いつもとは違う家の賑わいに「僕の一人を呼びてその何事なるかを問ふ
(πυνθάνομαι プゆンたノマイ 問いただし)」た。(ルカ15:26)
ある目の不自由な男はイエスが通られたとき、いつもとは違う道の賑わいに「その何事なるかを問ふ(πυνθάνομαι プゆンたノマイ 問いただし)」た。(ルカ18:36)
いつもとは違うものが現れたとき、「その何事なるかを問ふ(πυνθάνομαι プゆンたノマイ)」がよい。イエスと出会うことができる。
(†心のデボーション01157)
† 心のデボーション 01158
「また我なんぢのすべての作爲をおもひいで汝のなしたまへることを深くおもはん」 詩篇77:12 明治元訳聖書
「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう」 新改訳聖書
「喪失の哀しみ」
最愛の人を失った人は無意識に哀しみとは無関係のことに気をとられる。そうすることで喪失の哀しみに押しつぶされてしまわないようにするのかもしれない。落ち着いてくると改めて喪失感と向き合うことができるようになる。深い悲しみを経験した人の魂は優しさに満ちている。
(†心のデボーション01158)
† 心のデボーション 01159
「なんぢを創造し なんぢを胎内につくり又なんぢを助くるヱホバ如此いひたまふ わがしもベヤコブよわが撰みたるヱシュルンよおそるるなかれ」 イザヤ44:2 明治元訳聖書
「あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ」 新共同訳聖書
「固有の私」
聖書は、人が神によって創られ、母の胎内にいる時から、すでに生きるべき固有の「私」があると語る。しかし、日本の社会では、人は同質であることが大切にされる。どこか異質なものを感じさせる人を危険視し、排除しようとする力が働く。母性社会の圧力の中で「自分とは何か」を問う難しさである。この問題は自分を見つめるだけではだめで、私を形造られた神に向かうしかないのではないだろうか。
(†心のデボーション01159)
† 心のデボーション 01160
「ヱホバよなんぢの道をわれに敎へたまへ我なんぢの眞理をあゆまん ねがはくは我をして心ひとつに聖名をおそれしめたまへ」 詩篇86:11 明治元訳聖書
「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください」 新共同訳聖書
「忙しい」
「忙しい」という字は、心に亡と書く。「亡」は「散る」で、気が散って心が落ち着かないことを意味する。人は忙しくて心が散るのだろうか、それとも、思いがちりぢりに分かれているので忙しさにまぎれようとするのだろうか。忙しい時には「私の心を一つにしてください」と祈れ。自分が「主の道」「真理の道」を歩んでいるかどうかを知っておきたい。「一つの心」とは「ひたむきな心」のことである。
(†心のデボーション01160)
コメント