心のデボーション114

デボーション1
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† 心のデボーション 01131

「われ夜わが歌をむもひいづ 我わが心にてふかくおもひわが霊魂はねもころに尋ねもとむ」 詩篇77:6 明治元訳聖書

「わたしは夜、わが心と親しく語り、深く思うてわが魂を探り、言う」 口語訳聖書

 「適度な鈍感」

自分の思いを相手に伝えようとするあまり、相手の思いに気づかないことがある。自分の思いを相手に伝えるには相手の思いに気づかなければならない。しかし、そういう相手はえてしてこちらのことに無関心なものだ。

相手を知ることなしに思いを伝えることはできないが、相手を知ることでむしろ思いを伝えることをためらうこともある。微妙に変化する相手の思いに過敏すぎてもうまくはいかない。適度な鈍感がよいときもある。

(†心のデボーション01131)

† 心のデボーション 01132

「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず」 Ⅰコリント13:4 大正文語訳聖書

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」 新改訳聖書

 「怒りのスローモーション」

仲のよい夫婦でも意見が合わないことはある。多くの場合、それはお互いの生まれ育った環境からくるもので、変わるものではないし、変えるべきものでもない。相手をそのまま大切にする気持ちがあれば、それくらいのぶつかり合いはあっても構わない。寛容とは怒りのスローモーションである。それは人の罪を赦される神から来る。自分とは合わない部分にその人らしさがある。

(†心のデボーション01132)

† 心のデボーション 01133

「エルサレムも皆然り」 マタイ2:3 大正文語訳聖書

「エルサレムの人々も皆同じだであった」 フランシスコ会訳聖書

 「エルサレム」

「エルサレム ῾Ιεροσόλυμα ヒエロソりゅマ Hierosoluma {hee-er-os-ol‘-oo-mah} 」はヘブル語יְרוּשָׁלַיִם  Yerushaláyim, イェルシャラユィム「平和の住居、安全の邑」を意味する。

しかし、今やこの都に「平和の王」の来訪が伝えられると動揺がひろがり、「平和」は失われた。

エルサレムはAD70にローマ軍により陥落し、その後数奇な歴史をたどり、1947年イスラエル建国とともにその永久信託統治が決議された。しかし、その支配を巡って、力による対立、宗教的な紛争の火種となって現代に到る。

エルサレムが「平和の住居、安全の邑」とされる道筋は、そのまま「世界の平和と安全」への道程であろう。

(†心のデボーション01133)

† 心のデボーション 01134

「わがうちに憂慮のみつる時 なんぢの安慰わがたましひを喜ばせたまふ」 詩篇94:19 明治元訳聖書

「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます」 口語訳聖書

 「60の手習い」

「60の手習い」という。英語では「Never too old to learn. 学びに年をとりすぎるということはない」というそうである。だが、老いてから始める「手習い」に面白いものは簡単に見つかるものでもない。簡単に見つけるのが悪いのではない。何にしても老いを慰める「手習い」はそれなりに重いものである。

(†心のデボーション01134)

† 心のデボーション 01135

「なんぢの途をヱホバにゆだねよ 彼によりたのまば之をなしとげ」 詩篇37:5 明治元訳聖書

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」 新改訳聖書

 「不確実でも生きて行ける」

ここぞという時、取るに足りない理由で大切なことから身を引いてしまうことがある。決して不真面目なのではなく、むしろ、几帳面すぎるくらいなのだが、少しでも不確実なことがあると、その直前で立ちすくんでしまうのだ。神は人を完全者としてではなく、不確実でも生きて行けるものとしてお創りになった。完全に見通せる人生よりも、思わぬ発見をしながらの人生の方が面白いに決まっている。

(†心のデボーション01135)

† 心のデボーション 01136

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「魂の創造」

「されば神の御意に從ひて苦難を受くる者は、善を行ひて己が靈魂を眞實なる造物主にゆだね奉るべし」 Ⅰペテロ4:19

創造の神に自らの魂をゆだねよ。苦しみの中にあっても神は私の内に新しい「魂」を創り給う。神の創りだされた魂が私を生かす。

(†心のデボーション01136)

† 心のデボーション 01137

「なんぢ右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊にてかたるをきかん」 イザヤ30:21 明治元訳聖書

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く」 新改訳聖書

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」 箴言14:12 新改訳聖書

 「後見」

能や狂言には演者の後ろに1人から3人の「後見」が左奥の後見座に、正面を向いて座る。「後見」は演能中に事故がおこれば演者の代わりを務める重要な役であり、作り物や小物具の出し入れなど演技の助けもする。

演者が舞っているとき、観客には見えないが後見もそれに合わせて舞っている。

神は生き方の下手な私の「後見」を務めて下さっておられるようだ。

それでいて,観客からは 〈無〉 の存在でなければなりません。
(†心のデボーション01137)

† 心のデボーション 01138

「われ神とキリスト・イエスと選ばれたる御使たちとの前にて嚴かに汝に命ず、何事をも偏り行はず、偏頗なく此等のことを守れ」 Ⅰテモテ5:21 大正文語訳聖書

「私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行いなさい」 新改訳聖書

 「偏見」

偏見とは「先に、判断する」という言葉から来る。事実に出会うよりも先に答えを出しているのだ。自分が傷つかないで生きるには便利かもしれないが、本当の出会いからは遠ざかる。偏見の全くない人はいない。ただ、自分の偏見に気づいて、偏りを修正できるだけである。ここで考えたいのは「みことば」を偏見なしに守るという、その在り方についてである。繰り返すが、偏見なしに人はものを見られない。

(†心のデボーション01138)

† 心のデボーション 01139

「アダム言けるは此こそわが骨の骨わが肉の肉なれ此は男より取たる者なれば之を女と名くべしと」 創世記2:23 明治元訳聖書

「人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』」 新改訳聖書

 「骨からの骨」

アダムは深い眠りから覚めてエバと出会い、彼女を「骨からの骨、肉からの肉」と呼ぶ。それは「あなたこそ、私そのもの」という意味だった。言葉を変えれば「あなたという存在がなければ、私というものが完成しない、そういう存在としてのあなた」という告白だった。この告白を聞いたら結婚してもいいと思う。しかし、アダムとエバがこの告白をしみじみと味わったのは人生も後半に入っての事だったのではないだろうか。

(†心のデボーション01139)

† 心のデボーション 01140

「然ながら智慧は何處よりか覓め得ん 明哲の在る所は何處ぞや 人その價を知ず人のすめる地に獲べからず
神その道を曉り給ふ 彼その所を知りたまふ」 ヨブ28:12 明治元訳聖書

「では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。」 新改訳聖書

 「諦め」

諦めが肝心とはよく聞く、「諦(あきら)めは心の養生。The mind is supported when giving it up.」がそれだろう。だが、どれほど時間がたっても諦めきれない思いというのもある。そのときは諦めるのではなく、諦めきれない思いを見際めることだ。見極めるには自分に都合の悪いことにも思いを開くことだ。

(†心のデボーション01140)

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