心のデボーション112

デボーション1
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† 心のデボーション 01111

「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし『與ふるは受くるよりも幸福なり』との御言を記憶すべきなり」 使徒20:35 大正文語訳聖書

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」 新改訳聖書

 「与える人」

与えることは受けるよりも大切である。しかし「与える人」は同時に「受けることのできる人」でもある。与えることはできても受けることの出来ない人は、どこか人を恐れている。そこで、一方的に与えることで、その「恐れ」をごまかそうとする。相手のことを考えているようで、実は「与え」の押しつけになりやすく、自分中心である点では、受けるばかりで与えることのできない人に似ている。

(†心のデボーション01111)

† 心のデボーション 01112

「汝らは地の鹽なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ」 マタイ5:13 大正文語訳聖書

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」 新共同訳聖書

 「根源的な悪」

子どもに、人間には踏み越えてはならない「根源的な悪」というものがあり、それと戦わなければならないと教える必要がある。それには大人が自分に「塩け」をなくさないことである。「塩が塩けをなくす」とは「塩がバカになる」の意味である。悪の感覚をバカにしてしまった大人ほど、どんな悪も許さないという姿勢をとりたがる。「根源的惡」と向き合いながら、それに動かされてしまわないことが大切なのだ。

(†心のデボーション01112)

† 心のデボーション 01113

「わが神ヱホバよ我をかへりみて答をなしたまへ わが目をあきらかにしたまへ」 詩篇13:3 明治元訳聖書

「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください」 新共同訳聖書

 「本物を見る」

白洲正子さんは、ある刀剣の研究家に、「その長年の経験から得た一番重要な教えは何か」と聞いたところ、「若いときにもっと見ておけばよかった」と答えられたという話をされている。(白洲正子 「ほとけさま」)

若さには本物を見分けるには経験が足りない。しかし、分からなくても本物を見ておくことは若い時でないとできない。

(†心のデボーション01113)

† 心のデボーション 01114

「竊(ぬす)みたる水は甘く密かに食ふ糧は美味(よきあぢ)ありと」 箴言9:17 明治元訳聖書

「盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまいものだ」 新共同訳聖書

 「べごまげた~っ」

東北弁で「おいしかった」は「べごまげた~っ」というそうである。「べご」は「牛」で「牛負けた」の意味である。「うまかった(馬勝った)」というべきところを、馬と牛が戦って馬が勝った「うまかった」ので「牛負けた(べごまげた)」となる。

「こっそり食べる食べ物」は「うまいもの」だ。しかし、「べごまげる」とはゆくまい。

(†心のデボーション01114)

† 心のデボーション 01115

「汝の糧食を水の上に投げよ 多くの日の後に汝ふたたび之を得ん」 伝道11:1 明治元訳聖書

「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」 新改訳聖書

 「牛のよだれ」

「商いは牛の涎(よだれ)」という。牛の口から流れるよだれのように、細く、途切れなく続けるのが商いのコツだ。辛抱強く気長に細い利益を得るがよい。

「パンを水の上に投げる」には様々の解釈がある。筆者には「牛のよだれ」に通じるような気がする。

(†心のデボーション01115)

† 心のデボーション 01116

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「太初に言あり」

神は言葉によって天と地を創造された。

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
この言は太初に神とともに在り、
萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」 ヨハネ1:1~3

「創造 בּרא バラー  bara’ {baw-raw’}」というヘブライ語は神にのみ用いられ、神の創造が「労することなく、言葉、または意思によって造る」(フランシスコ会訳聖書 創世記1:2 解説)を示している。

一切の出来事の「太初」に「言あり」。

(†心のデボーション01116)

† 心のデボーション 01117

「なんぢは我が愛しむ子なり、我なんぢを悦ぶ」 ルカ3:22 大正文語訳聖書

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」 口語訳聖書

 「あなたはわたしの愛する子」

ママはずっとあなたの味方よ
この先何があろうとも
悲しい時、嬉しい時、声を聞かせてね
解り合えないこともあるでしょう
でも、あきらめずに話しましょうね
(「私の障害、私の個性」より)

自閉症の母親が男の子どもを育てながらつくった詩である。自閉症の自分は子どもと「本当の意味では通じ合えないのではないか」という感覚を持ちながら、「でも、あきらめずに話し合いましょう」と語る。

(†心のデボーション01117)

† 心のデボーション 01118

「拙者(つたなきもの)にさとりを與へ少者(わかきもの)に知識と謹愼(つつしみ)とを得させん爲なり」 箴言1:4

「無知な者に分別を、若者に知識と思慮を得させるためのものである」フランシスコ会訳聖書

 「つたなき者」

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」 詩篇119:130 新改訳聖書

「つたなき者」は分別をわきまえない者のことである。彼は知識がないのではなく、あらゆることを知ろうとして自らを見失う者のことである。謙虚な精神なくして知恵の光は目を閉ざさせる。

(†心のデボーション01118)

† 心のデボーション 01119

「地のふかき處みなその手にあり 山のいただきもまた神のものなり」 詩篇95:4 明治元訳聖書

「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである」 新改訳聖書

 「心の風景」

人はときどき心の風景を見る。いつまでもその風景に溶け込んでいたくなるとき、心が何かを教えたがっているのかもしれない。風景と心的なものが重なって、見えているものに表情が加えられる。

人は「地の深み」で、神のみ声を聞く。

心がかたくなな時、山は何も語らず、深みに向かって歩き出すこともできない。いつも、心に語りかける風景をもっていたいと思う。

(風景が人の心に伝えるものもある。だが、風景は伝える意志もなく存在する)

(†心のデボーション01119)

† 心のデボーション 01120

「ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ、エルサレムも皆然り」 マタイ2:3 大正文語訳聖書

「ヘロデ王之を聞きて狼狽(うろた)へしが、エルザレムも亦挙(こぞ)りて然ありき」 ラゲ訳聖書

 「悩みまどう」

「惱みまどふ」はラゲ訳では「狼狽(うろた)へしが」と訳される。

「狼狽 ろうばい」は、中国では「狼」も「狽」も共に想像上の動物で、「狼」は前足が長く、「狽」は後ろ足が長く、互いに支えあって暮らし、二頭は相手がいなければ歩くこともできなかったという。そこから中国では「狼狽」は「苦しみ悩む」の意味に使われる。日本では、「狼」と「狽」が離れると倒れてしまい、うろたえることから「あわてふためく」の意味に用いる。

ヘロデはマギの言葉を受け止めることができず、「狼」と「狽」がそれぞれ勝手に動き回り、思いがあちこち落ち着きなく彷徨ったのである。

「狼狽」は仲間と連れ立ってやって来る。仲間を引き離して、一つ一つにすれば身動きできずにおとなしくなる。

(†心のデボーション01120)

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