心のデボーション111

デボーション1
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† 心のデボーション 01101

「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲ん方つくれども希望を失はず」 Ⅱコリント4:8 大正文語訳聖書

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」 新改訳聖書)

 「断念の術」

「断念の術さえ身につければ人生は結構楽しい」とフロイトは言う。それが出来ないから苦しいという声も聞く。逆に、いつも早すぎる断念をして人生を楽しむ間のない人もいる。してみると、「断念の術」も、そこそこ学ばなければならないものかみしれない。断念とは希望を失うことではなく、希望を次につなぐことである。「せん方尽きれども希望を失わず」という信仰と矛盾するものではない。

(†心のデボーション01101)

† 心のデボーション 01102

「ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ、エルサレムも皆然り」 マタイ2:3 大正文語訳聖書

「これを聞いたヘロデ王はうろたえたが、エルサレムの人々も皆同じであった」 フランシスコ会訳聖書

 「サーベルを鳴らす」

「サーベルを鳴らす rattle one’s saber」は、騎兵隊のサーベルをガチャガチャ鳴らすことで、武力をちらつかせること。ヘロデは不安気な表情をうかべるだけでよかった。それだけで、エルサレムの住民には「サーベルの音」が確実に伝わったのである。

(†心のデボーション01102)

† 心のデボーション 01103

「禍ひなるかな彼等はいつはりを繩となして惡をひき 索(つな)にて車をひくごとく罪をひけり」 イザヤ5:18 明治元訳聖書

「わざわいなるかな、彼らは偽りのなわをもって悪を引きよせ、車の綱をもってするように罪を引きよせる」 口語訳聖書

 「真っ赤な嘘」

「惡や罪」を引き寄せる「いつわり」というのは、「真っ赤な嘘」という丈夫な縄のことだろうか。

なぜそれが「赤い」かは、「赤」が「はっきりした」色であることから「完全な」を意味するからである。大勢の人がこの縄にとりつくとどんなに大きな車でも引いてくる。

(†心のデボーション01103)

† 心のデボーション 01104

「唯われらを樂しませんとて萬の物を豐に賜ふ神に依頼み」 Ⅰテモテ6:17 大正文語訳聖書

「むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように」 口語訳聖書

 「愉しくて美しいもの」

ルノアールは1897年、56歳のとき自転車から落ちて腕を骨折し、以前からのリューマチも悪化し、70歳の頃には車椅子にすわったまま、手に絵筆を固定して絵を描いたという。

ルノアールは「絵というものは、僕にとって、愛すべきもの、愉しくて美しいものじゃなきゃならない。人生には厭なことが多すぎるから、これ以上厭なものは作りたくないんだ」 と語った。

楽しいと思えることを持っている人はどのような障害も苦にならない。

(†心のデボーション01104)

† 心のデボーション 01105

「愛をもて互に事へよ」 ガラテヤ5:13 大正文語訳聖書

「愛をもって互に仕えなさい」 口語訳聖書

 「愛と礼儀」

諺に「愛は憎悪の始め The love is the beginning of the hatred.」という。愛もなれてしまうと憎しみにつながる。節度ある愛を忘れてはならない。

礼儀を失わなければ愛を損なうことはない。

(†心のデボーション01105)

† 心のデボーション 01106

「されど我は汝らに告ぐ、惡しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」 マタイ5:39 大正文語訳聖書

「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」 新共同訳聖書

 「理屈を超えた行為」

右の頬を打つ者に左の頬を向けることは、考えてできることではない。理屈を超えた行為である。そうでなければ、右ばかりか左まで打たれてしまうだろう。

いのちとのかかわりは、知的な洞察だけではどうにも開けない扉がある。われを忘れた、思わずの行為が人格の深みにふれ、心の扉を開く。それには、すべてのいのちあるものに、自分が充分に開かれていなければならない。「左の頬」とは、人への温かい眼差しではないだろうか。

(†心のデボーション01106)

† 心のデボーション 01107

「われはわが霊魂をもださしめまた安からしめたり 乳をたちし嬰兒のその母にたよるごとく 我がたましひは乳をたちし嬰兒のごとくわれに恃れり」 詩篇131:2 明治元訳聖書

「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります」 新改訳聖書)

 「深く人とかかわる」

深く人とかかわって、はじめて、自分が何の役にも立たないとわかる。そのことがわかったら、その人は本当に役に立っているのではないだろうか。この経験もなく、自分が役に立つ人間だと思うのは危険である。その親切が人を傷つけることに気づかない。人とのかかわりを深める唯一の方法は自分を探ることである。「魂をやわらげる」人は「乳離れした子」のように自分を低くする。

(†心のデボーション01107)

† 心のデボーション 01108

「この故に若しキリストによる愛による慰安、あらば」 ピリピ2:1 大正文語訳聖書

「そこで、あなたがたに、キリストによる愛の励まし、があるなら」 口語訳聖書

 「愛の励まし」

いざ本番となると普段の実力を発揮できないものだが、試合になると練習以上の力を発揮するスポーツ選手もいる。人は「見られる」ことで気持ちが変わる、

成功をイメージさせてくれるような「よき観客」を心に抱くことだ。

(†心のデボーション01108)

† 心のデボーション 01109

「サムエルいひけるはヱホバはその言にしたがふ事を善したまふごとく燔祭と犠牲を善したまふや夫れ順ふ事は犠牲にまさり聽く事は牡羔の脂にまさるなり」 Ⅰサムエル15:22 明治元訳聖書

「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる』」 新改訳聖書」

 「神に聞く」

信仰の中で最も尊い行為はささげものではなく、神に聞くことである。自分自身との対話がしっかりできていないと、聞くことができず、口数だけが多くなる。「神に聞く」は「神に従う」ことを意味する。聞くには、いつも、聞き流すことの出来ないところに自分を置くことができなければならない。神に聞く人は、人にも聞く姿勢ができているはずである。人は聞くことによって自分を変えていく。

(†心のデボーション01109)

† 心のデボーション 01110

「喜ぶ者と共によろこび、泣く者と共になけ」 ロマ12:15 大正文語訳聖書

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」 新改訳聖書)

 「もう泣いてもいい」

人は悲しいことがあったからといって、必ず泣くとは限らない。涙一つこぼさないのは、泣くことさえ出来ないほどに悲しいのかもしれない。泣いてしまったら、すべてが崩れてしまうと感じているかもしれない。悲しいことが現実におこったと信じられず、いつものとおりにふるまうことでやっと自分を保っているのかもしれない。そんな自分を冷たい人間だと責めないで、そっと待っていてくれる人がいれば、もう泣いてもいいと思えるようになる。

(†心のデボーション01110)

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