心のデボーション110

デボーション1
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† 心のデボーション 01091

「怒る人は爭端を起し憤る人は罪おほし」 箴言29:22 明治元訳聖書

「怒る者は争いを引き起こし、激しやすい者は罪を重ねる。」 フランシスコ会訳聖書

 「話せばわかる」

相手と意見が一致するまで話し合うべきだろうか。「話せばわかる」という信念は、時々自分の意見に同意させることにすり替えられる。どうしても意見が一致しなければ承知しないという心の底には、何とかして振り返らせようとしても、自分を認めてくれなかったことがあって、それへの怒りが隠されているかもしれない。意見の違いをはっきりさせたうえで、どう折り合うかが、「話せばわかる」の内容だと思う。

だが、その前に「怒る者は争いを引き起こし、激しやすい者は罪を重ね」てしまう。人はこの悲しい性を負って生きなければならない。

(†心のデボーション01091)

† 心のデボーション 01092

「ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ、エルサレムも皆然り」 マタイ2:3 大正文語訳聖書

「これを聞いたヘロデ王はうろたえたが、エルサレムの人々も皆同じであった」 フランシスコ会訳聖書

 「未知の不安」

ヘロデは自分に起こった「不安の感情」がエルサレムの住民に拡散していくことを知らない。

人は自身の内におこる「不安の感情」がどこから来て、どこに行くのかを知らない。「不安の感情」は遠くを旅する間に巨大な力にふくれ上がり、再び自身の元に戻ってくる。それは「未知の不安」として人を苦しめる。しかし、元をたどれば自身から出たものである。

(†心のデボーション01092)

† 心のデボーション 01093

「彼らは呟くもの、不滿をならす者にして、おのが慾に隨ひて歩み、口に誇をかたり、利のために人に諂ふなり」 ユダ1:16 大正文語訳聖書

「彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。」 新改訳聖書

 「運命を責める」

「不平を鳴らずす」は「運命を責める」から来た言葉である。不平から解放されるには他人を羨むのを止めるだけではだめで、自分の運命と和解し、それを深耕する必要がある。出会うものを「責め」たり、「戦ったり」しないことである。自分が願いもしない運命も幸いとしたい。自分を本当に変え、生を意味あるものにしてくれるのは、そういう運命の中にある。

(†心のデボーション01093)

† 心のデボーション 01094

「イエス言ひ給ふ『もし盲目なりしならば、罪なかりしならん、されど見ゆと言ふ汝らの罪は遺れり』」 ヨハネ9:41 大正文語訳聖書

「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」 口語訳聖書

 「見えない部分のある自分」

どんなに敬虔な人でも「自分は見える」と思うのは危険である。信仰は心の目を開き、見えないものを見えるものとする。しかし、信仰者が目を開いて見るのは「見えない部分のある自分」である。自分には見えないところがあると思う人は、他人を裁かない。すべてがわかっていないと思うからこそ、断定することの間違いから守られる。見えると言い張るのは自分を神とすることであり、罪である。

(†心のデボーション01094)

† 心のデボーション 01095

「すべての操守べき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」 箴言4:23 明治元訳聖書

「用心深くお前の心を守れ。そこから、命の泉が湧き出る。」 フランシスコ会訳聖書

 「心の記憶」

フランスの哲学者モーリス・アルブバクスの「集合的記憶」によれば、「集団は人間とは違うように記憶する」という。人のなかには個人と集団の2つの記憶がある。「集合的記憶」が動き出すと人は自分の思いとは別の否定しがたい衝動に突き動かされる。

「心を守れ」は、個人と集団の双方の記憶を用心深く見守ることである。そこに命の泉は湧き上がる。

人はすべての「記憶」と向き合わなければならない。

(†心のデボーション01095)

† 心のデボーション 01096

「我は主また師なるに、尚なんぢらの足を洗ひたれば、汝らも互に足を洗ふべきなり」 ヨハネ13:14 大正文語訳聖書

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」 新改訳聖書

 「閉ざされた心」

他人に対して心を閉ざす人もいる。それは間違いだと指摘しても、問題は解決しない。そこまで心を閉ざすのには、心を冷やすようなつらい経験がいくつも重ねられてきたのかもしれない。心を閉ざすことでかろうして自分を保っている。閉ざされた心に届くには、そのように生きるしかなかった部分に寄り添うしかない。イエスが黙ってペテロの足を洗われたのは、そのためだったのかもしれない。

(†心のデボーション01096)

† 心のデボーション 01097

「サライ、アブラムに言けるはわが蒙れる害は汝に歸すべし我わが侍女を汝の懷に與へたるに彼己の孕るを見て我を藐視ぐ願はヱホバ我と汝の間の事を鞫きたまへ」 創世記16:5 明治元訳聖書

「サライはアブラムに言った。『わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。』」 新共同訳聖書

 「夫アブラハム」

アブラハムの妻サラと女奴隷ハガルの関係は不幸としか言いようがない。サラは自分の痛みに敏感な分、他人の痛みには鈍感であった。他方、ハガルは子どもを産めない女主人の心にどれほどの哀しみがあるかを思いやることができない。

ここで気になるのは夫アブラハムの存在である。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、家庭で繰り広げられる泥沼のような争いにかかわりたくなかったのかもしれない。その醜いものにふれようとしない「敬虔さ」が彼女たちを追い詰めたのではないだろうか。

(†心のデボーション01097)

† 心のデボーション 01098

「なんぢら心を騷がすな、神を信じ、また我を信ぜよ」 ヨハネ14:1 大正文語訳聖書

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」 新改訳聖書

 「信じる力」

「心を騒がせる」は「ταράσσω タラスソー 不安を抱く」である。些細なことから始まった「不安」は、やがて「心を騒がせる」ものへとなる。「信じる力」は「不安」を鎮める。そのような「信じる力」は神からのものである。

(†心のデボーション01098)

† 心のデボーション 01099

「『かかる故に人は父母を離れ、その妻に合ひて、二人のもの一體となるべし』と言ひ給ひしを未だ讀まぬか」 マタイ19:5 大正文語訳聖書

「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか」 新改訳聖書

 「援助交際」

少女買春を「援助交際」と呼ぶ。少女たちは、売るのは身体で心ではないと言う。しかし、性は二つを「結ぶ」ものである。男と女、体と心を一つにつなぐ。聖書において「性」は「知る」ことを意味する。相手を深く知る、その意味で性は喜びである。相手について何一つ「知らない」ことが前提の性というものは心に何を残すのだろうか。

(†心のデボーション01098)

† 心のデボーション 01100

「我汝のかたはらを通りし時汝が血の中にをりて踐るるを見汝が血の中にある時汝に生よと言り即ち我なんぢが血の中にある時に汝に生よといへり」 エゼキエル16:6 明治元訳聖書

「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。」 新改訳聖書

 「生きよ」

長い間、一方的な暴力にさらされた人は、その暴力から解放されても、また、似たような状況に追い込まれることがある。自分を守るべき価値のない、つまらない存在だという感覚が、自分を粗末に扱わせる。自分を傷つけることを止めるのは、「あなたはあなたのままで生きる価値がある」というメッセージである。神は人が「自分の血の中でもがく」のを見て、繰り返し「生きよ」と言われる。生きる価値があるからである。

(†心のデボーション01100)

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