心のデボーション 01071
「すべて勝を爭ふ者は何事をも節し愼む、彼らは朽つる冠冕を得んが爲なれど、我らは朽ちぬ冠冕を得んがために之をなすなり」 Ⅰコリント9:25 大正文語訳聖書
「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」 口語訳聖書
「節制」
望めば何でも手に入るというのは幸せではないかもしれない。欲望はどんどん肥大化していくのに、充実感は逆に縮小し、そのうち欲すること自体に疲れてしまう。欲望は断つことによって、その価値を学ぶ。本当に欲しいものはギリギリまで我慢し、手に入れたらたやすく放棄しないのも一つの在り方である。そこから得るのは充足感だけではないことも確かだ。
† 心のデボーション 01072
「我ら東にてその星を見たれば」 マタイ2:2 大正文語訳聖書
「わたしたちは東方でその方の星を見たので」 新共同訳聖書
「土星」
天体望遠鏡で「土星」を見た。土星は音もなく暗い空間に輪を傾けて浮かんでいた。
人の心には太古の昔から夜空に「星」を見上げた記憶が残っているのかもしれない。遠くから語りかけるものの存在のあることを忘れることはできない。
(†心のデボーション01072)
† 心のデボーション 01073
「得に時あり失ふに時あり 保つに時あり棄るに時あり」 伝道3:6 明治元訳聖書
「捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある」 新改訳聖書
「愛別離苦」
仏教では愛する者との離別を「愛別離苦」(Agony of separation.)として四苦八苦の一つに数える。
愛する人の死別は深い悲しみをもたらす。そして、生きて別れることの悲しみもまた苦しい。
父ヤコブは息子ベニヤミンを失うかもしれない不安に「私も、失うときには失うのだ」とつぶやいた。(創世記43:14) 「時」を正しく認識することが「愛別離苦」を和らげるようだ。
† 心のデボーション 01074
「禍ひなるかな彼等はいつはりを繩となして惡をひき 索にて車をひくごとく罪をひけり」 イザヤ5:18 明治元訳聖書
「ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち」 新改訳聖書
「うその綱」
アメリカで試験のカンニングが見つかると即座に退学である。うそつきは最悪の人格として嫌われる。うそという「綱」は、細くても丈夫で、多くの「とが」を引き寄せる。しかし、うそのない人生はない。うその混じってしまう怖さ、悲しさを見つめながら、それによって自分が何をたぐり寄せているか考えたい。たとえ、それがとがであっても、引き続けなければならない「うその綱」というものもある。
† 心のデボーション 01075
「汝の少(わか)き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先」 伝道12:1 明治元訳聖書
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」 新改訳聖書
「老いてからの遊び」
老いてからの遊びはやや真剣にとりくまないと続かない。心の「遊び」というのも同じである。人生を楽しむほどの「遊び」は簡単には身につかない。昭和の世代が負う宿命だろうか。
如何に年を重ねても、「何の喜びもない」とは言わないことだ。「何の喜びもない」と思うことこそがが「老い」そのものだからである。
† 心のデボーション 01076
「ヱホバ、ヨセフとともに在す彼享通者となりて」 創世記39:2 明治元訳聖書
「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、」 新改訳聖書
「幸運な人」
才能を発揮する人には「幸運」としか思えないことがいくつか重なっているものだ。それは、才能はあるのだが、「巡り合わせ」の悪さに才能を生かせない人生を送る人は少なくないことを示している。
「巡り合わせ」も才能の一種なのかもしれない。
だが、この考えは才能を生かせなかったことへの一種の「言い訳」に使われることもある。
本当に才能のある人は「不運」の時にも、それをどこか「幸運」と考えるようだ。
ヨセフの幸運は「神が彼とともにおられた」ことだった。
† 心のデボーション 01077
「十字架によりて怨を滅し、また之によりて二つのものを一つの體となして神と和がしめん爲なり」 エペソ2:16 大正文語訳聖書
「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」 新改訳聖書
「恨み」
人を恨むのは嫌なものである。それでも恨んでしまうのは、それなりの理由があろう。しかし、いつまでも恨み続けるのは問題である。恨みの感情には、いまだに果たせない復讐の思いが含まれており、それが人の人格をゆがめる。恨みがイエスを十字架につけた。しかし、イエスは十字架の上で「父よ。彼らをお赦し下さい」と祈っておられる。この祈りと共に、恨みは葬り去られる。
† 心のデボーション 01078
「なんじら先づ知れ、聖書の預言は、すべて己がままに釋くべきものにあらぬを」 Ⅱペテロ1:20 大正文語訳聖書
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである」 口語訳聖書
「もっと頭を使え」
柔道の稽古をしていた子に、指導者が「もっと頭を使え」と言ったら「頭突き」をしたという話を読んで、思わず笑ってしまった。あり得ないことではない。
主からご覧になれば、私はおかしな解釈をして澄ましていることがあるに違いない。「頭の使い方」を間違っているのだ、
† 心のデボーション 01079
「怨恨(うらみ)は爭端(あらそい)をおこし 愛はすべての愆(とが)を掩(おほ)ふ」 箴言10:12 明治元訳聖書
「憎しみは争いに火をつけ、愛はあらゆる間違いを覆う。」 バルバロ訳聖書
「垢を洗って痕を求む」
諺に「垢を洗って痕を求む It searches for the mark washing dirt.」という。垢をこすって隠れた傷跡を探し出すの意味で、人の隠された欠点をあばくことを戒めたものである。愛の反対である。
† 心のデボーション 01080
「東の博士たち」 マタイ2:1 大正文語訳聖書
「博士等東より」 永井直治訳聖書
「老賢者」
「老賢者 Old Wise Man」はユングのとりあげた元型の一つで、無意識にある父親の像、完成された人間のイメージである。「マギ」も叡智と指導力の「老賢者」の一面をあらわす人々であった。
男性は常に「老賢者」に呑みこまれる危険性をもっている。男性は「父」に呑みこまれることなく、個性化を果たさなければならない。
個性化の危機は信仰の危機でもある。
マギはヘロデ王に「わたしたちは、東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と告げることによって、「個性化の危機」を退ける。マギは「その方の星を見て、拝するために行く」ことによって、「礼拝される者」になるよりも「礼拝する者」にならんとする。それによって彼らは自らを「星」にする危機から守られている。それがマギ達の獲得した「智慧」であった。
信仰はしばしば神的存在になれと人を誘惑する。アダムは「神のように」なろうとした。それが「罪」であり、個性化の危機を招いた。
(†心のデボーション01080)
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