† 心のデボーション 01061
「言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん」 Ⅱコリント12:9 大正文語訳聖書
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」 新改訳聖書
「汚いもの」
自分から生み出して他人に提供できる最初のものはウンチである。これに「ありがとう」と言える母親はさすがというべきか。ウンチを「汚い」と触れるのを拒めば、子どもは自分には人を喜ばすものがないばかりか、自分を汚いと思うようになるだろう。人生で弱さ、傷つきやすさ、貧しさなど、と出会わなければ、人として成長できない。これらのものに心から「ありがとう」と言えるのはいつの日か。
(†心のデボーション01061)
† 心のデボーション 01062
「我ら東にてその星を見たれば、拜せんために來れり」 マタイ2:2 大正文語訳聖書
「そは我等東にてその星を見たれば、彼に平伏(ひれふ)さんために到りたればなり」 永井直治訳聖書
「導きの星」
あの夜、三人の博士たちは、導きの星を見失いました。
二人は、つえで地面に何かを描き始め、計算をしながら
何度も首をかしげていました。
でも、星はいっこうに見つかりません‥‥‥。
星の導きを熱望していた二人は、
夜の沈黙の中で、涙を流しました。
もう一人の博士は、少し離れた所で、こう考えていました。
「私たちも、のどが渇いた。
動物たちも、のどが渇いているに違いない。
さあ、水をやろう。」
彼は、おけの取っ手を持ち上げ、
ラクダたちに水を飲ませました。
彼が見つけたのは、そのときでした。
おけの水面に映って、
静かに、優雅におどっているあの星を。
(「導きの星」 エドモンド・ロスタンド Edmond Eugène Alexis Rostand、1868~ 1918)
(†心のデボーション01062)
† 心のデボーション 01063
「なんぢらは喜びて出きたり平穩にみちびかれゆくべし」 イザヤ55:12 明治元訳聖書
「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く」 新改訳聖書
「何気ない出来事」
人生には自分が歩いたたった一本の道しかない。何気ない出来事から人生が大きく変化することもある。それがなければ違った人生があったと振り返ることも少なくない。
しかし、そのような「何気ない出来事」も神のお導きによらないことは一つもない。そこにも深い意味が隠されている。
(†心のデボーション01063)
† 心のデボーション 01064
「なんぢ右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊にてかたるをきかん」 イザヤ30:21 明治元訳聖書
「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く」 新改訳聖書
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」 箴言14:12 新改訳聖書
「これが道だ。これに歩め」
人は心に自分の道を思い巡らす。「人の目にはまっすぐに見える道」も「その終わりは死の道」である。(箴言14:12)人間はどうやって自分の道を理解できるだろうか。この箴言に答えるには、まず、道に立つことである。そして、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言われる神のみ声を聞くしかない。
(†心のデボーション01064)
† 心のデボーション 01065
「惰者はおのれの猟獲たる物をも燔ず 勉めはたらくことは人の貴とき寳なり」 箴言12:27 明治元訳聖書
「怠る者は自分の獲物を捕えない、しかし勤め働く人は尊い宝を獲る」 口語訳聖書
「枝の蛭」
南米のジャングルには木の枝にはりついて、人や動物が近づくと素早く首筋に飛びつく蛭がいるそうです。獲物が枝の下を通過するわずかのチャンスを忍耐強く待ち、獲物が近づく気配を逃さない。蛭の中には20年も枝にしがみついている種類があるという。
(†心のデボーション01065)
† 心のデボーション 01066
「にさとりを與へ少者(わかきもの)に知識と謹愼(つつしみ)とを得させん爲なり」 箴言1:4
「無知な者に分別を、若者に知識と思慮を得させるためのものである」フランシスコ会訳聖書
「未熟」
「箴言」は「善にも悪にも心開く者」を「未熟」と呼ぶ。彼は「大人」なのではなく「無知な子ども」である。
真に成熟する者は善にも悪にも分別の「賢い思いはかり」を持ち、事の本質を見分ける。
「わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かなる者よ。思慮をわきまえよ」 箴言8:5 新改訳聖書
(†心のデボーション01066)
† 心のデボーション 01067
「蛭に二人の女あり 與ヘよ與へよと呼はる 飽ことを知ざるもの三あり 否な四あり皆たれりといはず」 箴言30:15 明治元訳聖書
「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ』と言わない」 新改訳聖書
「くれろ、くれろ」
蛭は貪欲で体の重さで落ちるまで血を吸う。豊かさを、受けたものの量で測る人は、「蛭のふたりの娘」のように、際限もなく求める。体が膨れるまで吸い取って満足かといえば、そうではなく、かえって、不満は募るばかりである。人の心は飽くことを知らない。豊かさは、受けたものの量ではなく、人生に与えた量による。人生の最後の瞬間でさえも、人は豊かに与えることができる。
(†心のデボーション01067)
† 心のデボーション 01068
「人のあゆみはヱホバによりて定めらる そのゆく途をヱホバよろこびたまへり 」 詩篇37:23 明治元訳聖書
「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる」 口語訳聖書
「自分と折あう」
周囲から自分が浮いているような居心地の悪さを感じる時がある。それを解消しようとして無理に合わせようとしてかえって事態を悪化させ、そんな自分に嫌悪感を強めたりする。
その時は、周囲よりも、自分との折り合いに気づくとよい。居心地の悪さは自分の内に発生しているのだ。
善い人になろうとして悪い自分が許せない場合もある。
神の定められる「人の道」には善い人ばかりでなく、悪い人としての自分も含まれている。大切ににしなければならない。
(†心のデボーション01068)
† 心のデボーション 01069
「にさとりを與へ少者(わかきもの)に知識と謹愼(つつしみ)とを得させん爲なり」 箴言1:4
「無知な者に分別を、若者に知識と思慮を得させるためのものである」フランシスコ会訳聖書
「生きる技術」
ヘブライ語の「知識 דַּעַת ダアツ da‛ath {dah‘-ath}」にはは「理解、認知、知恵」に加えて「技術」をあらわす言葉である。生きていくには「理解、認知、知恵」だけでなく「生きる技術」が必要とされることをヘブライ語は教えてくれる。
(†心のデボーション01069)
† 心のデボーション 01070
「これらの誡命は、みづから定めたる禮拜と謙遜と身を惜まぬ事とによりて知慧あるごとく見ゆれど、實は肉慾の放縱を防ぐ力なし」 コロサイ2:23 大正文語訳聖書
「これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない」 口語訳聖書
「礼拝」
「礼拝する προσκυνέω プロスクゆネオー」は「πρός ~に + κυνέω 接吻する」で「平伏して敬意を表す、ひざまずく、拝する」こと。
漢字の「拜(はい)」は「組んだ両手を上げて上体を曲げる」ことで、「ぬかずく」の意味。
「拝する」形は異なっても、尊崇の念をあらわすことに違いはない。
しかし、形は間違いなくても、「ひとりよがりの礼拝」「わざとらしい謙遜」というものがある。そのような礼拝は何の役にも立たない。
「わざとらしい謙遜」は、本人には気づかなくても、他人にはすぐ分かる。
(†心のデボーション01070)
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