心のデボーション3461
「わが兄弟よ、なんぢら各樣の試錬に遭ふとき、只管これを歡喜とせよ。」 ヤコブ1:2 大正文語訳聖書
「我兄弟等よ、汝等種々の試に陥りたる時は、之を最も喜ぶべき事と思へ。」 口語訳聖書
「試みのすべてを」
「各樣の試錬に遭ふとき、只管これを歡喜とせよ。πᾶσαν χαρὰν ἡγήσασθε, ὅταν πειρασμοῖς περιπέσητε ποικίλοις,」(ヤコブ1:2 大正文語訳聖書)「只管これを歡喜とせよπᾶσαν χαρὰν ἡγήσασθε」は「すべてこれを喜と勘ふべし」(永井直治訳)である。受ける試み(πειρασμός)のすべて(πᾶσαν)を歡喜とせよと命じられる。
(心のデボーション3461)
心のデボーション3462
「汝らを召して其の子われらの主イエス・キリストの交際に入らしめ給ふ神は眞實なる哉。」 Ⅰコリント1:9 大正文語訳聖書
「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」 口語訳聖書
「キリストとの交わり」
パウロはコリントの人々に「あなたがたは主イエス・キリストとの交わりに入れられました」と告げる。「交わりκοινωνία」とは「互いにパートナーになる」の意である。それは、共に与え、共に受ける関係を意味する。キリスト者とはイエスが与えたものを与え、イエスが受けたものを受ける人のことである。なぜイエス・キリストが私をパートナーにされたのか、それは私が何も持たない者だったからである。(Ⅰコリント1:9)
(心のデボーション3462)
心のデボーション3463
「智慧は第一なるものなり 智慧をえよ 凡て汝の得たる物をもて聰明をえよ」 箴言4:7 明治元訳聖書
「知恵の初めはこれである、知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟りを得よ。」 口語訳聖書
「得たるものをもて」
「あなたが何を得るにしても、悟りを得よ。」は、明治元訳聖書「凡て汝の得たる物をもて聰明をえよ」と訳されている。新改訳聖書は「あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。」である。フランシスコ会訳聖書は「お前の得たすべてのものをかけて悟りを得よ。」と訳される。得たものが何であっても、それをもって(それにすべてをかけて)悟りを得よ。
(心のデボーション3463)
心のデボーション3464
「十絃のなりものと筝とをもちゐ 琴の妙なる音をもちゐるはいと善かな」 詩篇92:3 明治元訳聖書
「十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。」 口語訳聖書
「追加する」
「老」という字は「盛りを過ぎる」という意味に加えて、「追加する」という意味があるという。老いは衰えていくだけでなく、そこに何かが新しく追加され、老いを抱えながら「実を実らせる」。老いとは何かを新しく追加され、何かを新しく追加していくことである。追加され、追加していく「何か」について思いをめぐらせながら、人は老いていく。気がつけば、そこは「神の大庭」である。
(心のデボーション3464)
心のデボーション3465
「飽るものは蜂の蜜をも踐つく されど饑たる者には苦き物さへもすべて甘し」 箴言27:7 明治元訳聖書
「飽いている者は蜂蜜をも踏みつける、しかし飢えた者には苦い物でさえ、みな甘い。」 口語訳聖書
「貧しき者」
「飽いている者は蜂蜜をも踏みつける、しかし飢えた者には苦い物でさえ、みな甘い。」(箴言27:7)蜂蜜を足で踏みつけるほどの豊かさよりも、苦い物のなかにも甘さを感じられる者でありたい。
(心のデボーション3465)
心のデボーション3466
「拙き者よなんぢら聰明に明かなれ 愚なる者よ汝ら明かなる心を得よ」 箴言8:5 明治元訳聖書
「思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ。」 口語訳聖書
「拙き者」
「拙き者よなんぢら聰明に明かなれ」(明治元訳聖書)。「拙き者」は、口語訳聖書「思慮のない者」、新共同訳聖書「浅はかな者」、フランシスコ会訳聖書「無知な者」である。「思慮のない、浅はかな、拙き、愚かな者」が「明らかな心をもち、分別をわきまえ、熟慮を見極める」なら、もはや「愚か者」ではない。いかに「思慮のない、浅はかな、拙き、愚かな者」であっても、求める心を失わなければ希望はあるとこの箴言は告げるようだ。
(心のデボーション3466)
心のデボーション3467
「もし他の人なんぢらに對してこの權あらんには、まして我らをや。然れど我等はこの權を用ひざりき。唯キリストの福音に障碍なきやうに一切のことを忍ぶなり」 Ⅰコリント9:12 大正文語訳聖書
「もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。」 口語訳聖書
「低いほうの水準」
アンドレ・モーロアは「夫婦というものは、二人のうち、低い方の水準で生活するものだ」と語った。たしかに、低い方が高きに合わせるよりも、高い方が低きに降りてくる方がうまくいくと思う。しかし、その場合、二人の間の高い低いがどう決められ、どう承認されるのだろうか? 自分の水準をゆずらず、相手をそこにもってこようとすることが「高い」のだと思う。
(心のデボーション3467)
心のデボーション3468
「ヱホバを畏るることは智慧の訓なり 謙遜は尊貴に先だつ」 箴言15:33 明治元訳聖書「
「主を恐れることは知恵の教訓である、謙遜は、栄誉に先だつ。」 口語訳聖書
「主を畏れる」
「謙遜は、栄誉に先だつ」。(口語訳聖書)「主を畏れることは知恵の基。謙遜は誉に先立つ。」(フランシスコ会訳聖書) 主を畏れることから生じる謙遜はあらゆる誉に先立つ。主を畏れることを欠いた謙遜は一種の高慢である。
(心のデボーション3468)
心のデボーション3469
「汝らは地の鹽なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ」 マタイ5:13 大正文語訳聖書
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」 口語訳聖書
「2グラムの塩」
犬養道子さんが砂漠で水だけでなく塩が足りなくなって困ったこと、ポケットから飛行機の機内食についてくる2グラム入りの塩の小袋を開けたところ、はるかなかたにいたラクダの群れが猛烈な勢いで駆け寄ってきたという。(犬養道子『こころの座標軸』)「塩」が不足すれば、砂漠のらくだは、はるか離れたところから、わずか2グラムの塩の「匂い」を嗅ぎ取って駆け寄る。現代、人が「塩」に駆け寄らないのは、手元に十分な「塩」があるからではない。塩の「匂い」を嗅ぎ取ることが出来なくなってしまったからだ。これが「塩」だと思うものには、まず、駆け寄ってみよ。「匂い」の記憶は間もなく蘇ってくるだろう。
(心のデボーション3469)
心のデボーション3470
「かかる者は我らの主キリストに事へず、反つて己が腹に事へ、また甘き言と媚諂とをもて質朴なる人の心を欺くなり。」 ロマ16:18 大正文語訳聖書
「なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。」 口語訳聖書
「偽りの指導者」
教会に分裂やつまずきをもたらす者は「主キリストに仕えないで、自分の腹に仕える」者たちである。「自分の腹につかえる者τῇ ἑαυτῶν κοιλίᾳ」の「腹」を意味するギリシャ語κοιλίαには「人間のもっとも奥にある心、魂」の意味にもつかわれる。この者たちは神に仕えるよりも自分自身に仕える偽りの指導者である。(ロマ16:18)
(心のデボーション3470)
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