心のデボーション0061
「家と資財とは先祖より承嗣ぐもの 賢き妻はヱホバより賜ふものなり」 箴言19:14 明治元訳聖書
「家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。」 口語訳聖書
「家と財産は父からの遺産、思慮深い妻は主からの賜物。」 フランシスコ会訳聖書
ַּ֣יִת וָ֭הֹון נַחֲלַ֣ת אָבֹ֑ות וּ֝מֵיְהוָ֗ה אִשָּׁ֥ה מַשְׂכָּֽלֶת׃
οἶκον καὶ ὕπαρξιν μερίζουσιν πατέρες παισίν παρὰ δὲ θεοῦ ἁρμόζεται γυνὴ ἀνδρί LXX箴言19:14
「聰明な妻」
「賢い妻אִשָּׁ֥ה מַשְׂכָּֽלֶת」はへブライ語で「悟る、賢い、思慮深い妻」の意味。「聰明な妻」である。フランス語の「知的な女性Femme intelligente」は知識があるというだけではない、「聰(耳がよく聞こえて目がよく見える)」人のことである。男(夫)に神への畏れがなければこの妻の「賢さ」は見出されまい。
箴言18:22
מָצָ֣א אִ֭שָּׁה מָ֣צָא טֹ֑וב וַיָּ֥פֶק רָ֝צֹ֗ון מֵיְהוָֽה׃
ὃς εὗρεν γυναῖκα ἀγαθήν εὗρεν χάριτας ἔλαβεν δὲ παρὰ θεοῦ ἱλαρότητα LXX箴言18:22
口語訳聖書
妻を得る者は、良き物を得る、かつ主から恵みを与えられる。
(心のデボーション第二0003参照) 良き妻(箴言31:10-31)
ヤコブ1:17
πᾶσα δόσις ἀγαθὴ καὶ πᾶν δώρημα τέλειον ἄνωθέν ἐστιν, καταβαῖνον ἀπὸ τοῦ πατρὸς τῶν φώτων, παρ᾽ ᾧ οὐκ ἔνι παραλλαγὴ ἢ τροπῆς ἀποσκίασμα.
口語訳聖書
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
心のデボーション0062
「視よ日いたらんとす その時には耕者(たがやすもの)は刈者(かるもの)に相繼(あいつ)ぎ葡萄を踐(ふ)む者は播種者(たねまくもの)に相繼(あいつ)がん」 アモス書9:13 明治元訳聖書
「主は言われる、「見よ、このような時が来る。その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。もろもろの山にはうまい酒がしたたり、もろもろの丘は溶けて流れる。」 口語訳聖書
הִנֵּ֨ה יָמִ֤ים בָּאִים֙ נְאֻם־יְהוָ֔ה וְנִגַּ֤שׁ חוֹרֵשׁ֙ בַּקֹּצֵ֔ר וְדֹרֵ֥ךְ עֲנָבִ֖ים בְּמֹשֵׁ֣ךְ הַזָּ֑רַע וְהִטִּ֤יפוּ הֶֽהָרִים֙ עָסִ֔יס וְכָל־הַגְּבָע֖וֹת תִּתְמוֹגַֽגְנָה׃
ἰδοὺ ἡμέραι ἔρχονται λέγει κύριος καὶ καταλήμψεται ὁ ἀλοητὸς τὸν τρύγητον καὶ περκάσει ἡ σταφυλὴ ἐν τῷ σπόρῳ καὶ ἀποσταλάξει τὰ ὄρη γλυκασμόν καὶ πάντες οἱ βουνοὶ σύμφυτοι ἔσονται LXXアモス9:13
「視よ日いたらんとす」
あまりの収穫に刈る者の作業が何日も続き、もう耕す者が鍬をかついでそこまで来ている。ブドウがあまりに多くて絞り終わっていないのに、畑に次の種をまく者が来て待っているのだ。
終末は「刈り取り、とりつくすのが難しいほどの豊かな収穫の日」である。そしてその日は新たな種まきのために「地が耕される日」である。
終末のあまりに豊かな「収穫の日」は、すでに来ている。今日がその日だ。「今」が「その日」と知らなければ、その日の瞬間まで何も知らず、何も刈り取ることがないだろう。そして、そして新たな種まきのために地にすべてを新しくするために鍬が入り、掘り起こされるだろう。
Ⅰテサロニケ5:2
αὐτοὶ γὰρ ἀκριβῶς οἴδατε ὅτι ἡμέρα κυρίου ὡς κλέπτης ἐν νυκτὶ οὕτως ἔρχεται.
口語訳聖書
あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
マタイ24:40
τότε δύο ἔσονται ἐν τῶ ἀγρῶ, εἷς παραλαμβάνεται καὶ εἷς ἀφίεται·
口語訳聖書
そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
心のデボーション0063
箴言15:22
明治元訳聖書
「相議(あいはか)ることあらざれば謀計(はかりごと)やぶる」
口語訳聖書
相はかることがなければ、計画は破れる、はかる者が多ければ、それは必ず成る
フランシスコ会訳聖書
「密議がなければ、計画は失敗する。助言者が多ければ、それは成功する」
הָפֵ֣ר מַ֭חֲשָׁבֹות בְּאֵ֣ין סֹ֑וד וּבְרֹ֖ב יֹועֲצִ֣ים תָּקֽוּם׃
ὑπερτίθενται λογισμοὺς οἱ μὴ τιμῶντες συνέδρια ἐν δὲ καρδίαις βουλευομένων μένει βουλή LXX箴言15:22
「相議(あいはかる)」
ヘブライ語「相議(あいはかる)dAsソッド」には「親しみ」の意味が含まれている。「親しみ」を欠いた相談ごとはうまくゆかない。だが、「親しみ」に頼りすぎた「謀計(はかりごと)」は破れやすい。イザヤは「相はかって事を定めよ」(イザヤ16:3 口語訳聖書)とすすめる。LXXで「相議(あいはかる)」はλογισμόςで「思案、熟考、判断」の意である。いずれも「親しみ」を欠けば上手くはゆかない。
箴言20:18
מַ֭חֲשָׁבֹות בְּעֵצָ֣ה תִכֹּ֑ון וּ֝בְתַחְבֻּלֹ֗ות עֲשֵׂ֣ה מִלְחָמָֽה׃
口語訳聖書
計りごとは共に議することによって成る、戦おうとするならば、まずよく議しなければならない。
心のデボーション0064
「汝らは悪をたがへし不義を穫りおさめ虚偽(いつわり)の果をくらへり」 ホセア10:13 明治元訳聖書
「あなたがたは悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べた。これはあなたがたが自分の戦車を頼み、勇士の多いことを頼んだためである。」 口語訳聖書
רַשְׁתֶּם־רֶ֛שַׁע עַוְלָ֥תָה קְצַרְתֶּ֖ם אֲכַלְתֶּ֣ם פְּרִי־כָ֑חַשׁ כִּֽי־בָטַ֥חְתָּ בְדַרְכְּךָ֖ בְּרֹ֥ב גִּבּוֹרֶֽיךָ׃
ἵνα τί παρεσιωπήσατε ἀσέβειαν καὶ τὰς ἀδικίας αὐτῆς ἐτρυγήσατε ἐφάγετε καρπὸν ψευδῆ ὅτι ἤλπισας ἐν τοῖς ἅρμασίν σου ἐν πλήθει δυνάμεώς σου LXXホセア10:13
「過去を耕す」
この箴言は、「あなたがたは悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べた」のは「あなたがたが自分の戦車を頼み、勇士の多いことを頼んだためである」と教える。彼らは、戦車や軍隊を頼みに「悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べる」。やがて民の中に騒動がおこり、頼みの戦車や軍隊の要塞はことごとく打ち砕かれる。(ホセア10:14) むしろ「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。」と懇ろに語られる。そうすれば「主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。」(ホセア10:12)
しかし、戦車や軍隊を頼らず、意識的ではなく、知らずして耕したら、そこが「悪」だったということもある。その時、期せずして「悪」を耕してしまったとしても、「不義の種」は蒔かないことだ。知らずに「不義の種」を蒔いてしまっても、「虚偽(いつわり)の果実」は食べないことだ。「過去を耕す」は「悪を掘り起こす」であってはならない。「新田を耕す」(ホセア10:12)ことであり、「恵みをもたらす種」(共同訳)を蒔くことであり、「愛の実り」(共同訳)を刈り取ることである。
心のデボーション0065
「愚かなる者は惡をなすを戯れごとのごとくす 智慧のさとかる人にとりても是(かく)のごとし」 箴言10:23 明治元訳聖書
「愚かな者は、戯れ事のように悪を行う、さとき人には賢い行いが楽しみである。」 口語訳聖書
ִּשְׂחֹ֣וק לִ֭כְסִיל עֲשֹׂ֣ות זִמָּ֑ה וְ֝חָכְמָ֗ה לְאִ֣ישׁ תְּבוּנָֽה׃
ἐν γέλωτι ἄφρων πράσσει κακά ἡ δὲ σοφία ἀνδρὶ τίκτει φρόνησιν LXX箴言10:23
「知恵の楽しみ」
「愚かな者は、戯れ事のように悪を行うἐν γέλωτι ἄφρων πράσσει κακά」。「愚か者ἄφρων」は「感覚のない、無思慮な、理性を失った者」の意である。彼らは「戯れ事のようにἐν γέλωτι(哄笑しながら、笑いながら)」、実に生き生きと悪をおこなう。(箴言10:23)
愚かなる者は悪を生き生きとおこなう。いかにも楽しそうだ。「智き人の賢い行い」は、愚かな者の悪への戯れに優って生き生きとおこなわれるだろうか? 悪への戯れは自然におこるが、知恵の楽しみは放っておいては生まれない。だが、苦しそうな顔をしていると「知恵」は近づこうとしないだろう。
箴言15:21
ִ אִ֭וֶּלֶת שִׂמְחָ֣ה לַחֲסַר־לֵ֑ב וְאִ֥ישׁ תְּ֝בוּנָ֗ה יְיַשֶּׁר־לָֽכֶת׃
ἀνοήτου τρίβοι ἐνδεεῖς φρενῶν ἀνὴρ δὲ φρόνιμος κατευθύνων πορεύεται口語訳聖書
口語訳聖書
無知な者は愚かなことを喜び、さとき者はまっすぐに歩む。
心のデボーション0066
「わが敎(をしえ)は雨の降(くだ)るがごとし吾語(わがことば)は露のおくがごとく靀(こさめ)の若艸(わかくさ)の上にふるごとく細雨(きりさめ)の靑艸(あをくさ)の上にくだるが如し」 申命記32:2
明治元訳聖書
「わたしの教は雨のように降りそそぎ、/わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、/青草の上にくだる夕立のように。」 口語訳聖書
ַעֲרֹ֤ף כַּמָּטָר֙ לִקְחִ֔י תִּזַּ֥ל כַּטַּ֖ל אִמְרָתִ֑י כִּשְׂעִירִ֣ם עֲלֵי־דֶ֔שֶׁא וְכִרְבִיבִ֖ים עֲלֵי־עֵֽשֶׂב׃
προσδοκάσθω ὡς ὑετὸς τὸ ἀπόφθεγμά μου καὶ καταβήτω ὡς δρόσος τὰ ῥήματά μου ὡσεὶ ὄμβρος ἐπ᾽ ἄγρωστιν καὶ ὡσεὶ νιφετὸς ἐπὶ χόρτον LXX申命32:2
「漏刻(ろうこく)」
神のことばは「露のおくがごとく靀(こさめ)の若艸(わかくさ)の上にふるごとく細雨(きりさめ)の靑艸(あをくさ)の上にくだる」(申命記32:2)中国語で「時」は「漏刻(ろうこく)」という。「漏刻」は「水時計」のことで「漏」は計時用の漏壺を指し、「刻」は時間の単位である。時は水滴のように一滴一滴、天より漏れ落ちる。そして神のことばも一滴の露(δρόσος)となって天より静かに降り来る。「露δρόσος」には「涙」の意味もある。神のことばは「神の涙」のごとくに地に落ちるのである。ことばは「時の水滴」そのもの。私たちはそれを両手で押し戴く。
へブル6:7
γῆ γὰρ ἡ πιοῦσα τὸν ἐπ᾽ αὐτῆς ἐρχόμενον πολλάκις ὑετόν, καὶ τίκτουσα βοτάνην εὔθετον ἐκείνοις δι᾽ οὓς καὶ γεωργεῖται, μεταλαμβάνει εὐλογίας ἀπὸ τοῦ θεοῦ·
口語訳聖書
たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。
心のデボーション0067
「欺きとりし糧は人に甜(うま)し されど後にはその口に沙(すな)を充されん」 箴言20:17 明治元訳聖書
「欺き取ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。」 口語訳聖書
「だまし取ったパンはうまい。しかし、後になると、口は砂利でいっぱいになる」 フランシスコ会訳聖書
עָרֵ֣ב לָ֭אִישׁ לֶ֣חֶם שָׁ֑קֶר וְ֝אַחַ֗ר יִמָּֽלֵא־פִ֥יהוּ חָצָֽץ׃
「欺きとりし糧」
「欺שֶׁקֶר」は相手をないがしろにし、口を大きく開けて出まかせをいうこと。「欺きとりし糧לחֶם שֶׁקֶר」は、オレオレ詐欺の連中の常食である。(箴言20:17) やがて彼らの腹は「砂利でいっぱいになる」だろう。だが、このパンは家庭の食卓にも、上品なレストラントのフルコースにも出されるのである。ギリシャ語の「欺き」は
ἀποστερέωは「欺きをもって物を奪う」の意である。
満州からの引き上げの時、集合場所までの遠い道を食糧もなく、幼子を背負い、小さな娘の手を引いて、幾日も歩いた人がいた。小さな娘が泥水の中に落ちているイモのしっぽを見つけて食べようとした。母親は「そんなものを食べるんじゃない」と激しく叱りつけ、イモのしっぽを取り上げ、娘にわからないように自分の口に入れた。娘を引いた手を放さないで日本までたどり着くには、「欺きとりし糧」を食べなければならなかった。だが、日本に帰国を果たした後、いつまでも、彼女の腹には「砂利」があり、彼女を苦しめた。彼女が口に入れたのは「哀しい欺きのパン」であった。
Ⅰコリント6:8
ἀλλὰ ὑμεῖς ἀδικεῖτε καὶ ἀποστερεῖτε, καὶ τοῦτο ἀδελφούς.
口語訳聖書
しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
心のデボーション0068
「彼等は木葉の搖(うご)く聲(おと)にもおどろきて逃げその逃る事は劍をさけて逃るがごとくまた追ものもなきに顛沛(こけまろ)ばん」 レビ26:36 明治元訳聖書
「またあなたがたのうちの残っている者の心に、敵の国でわたしは恐れをいだかせるであろう。彼らは木の葉の動く音にも驚いて逃げ、つるぎを避けて逃げる者のように逃げて、追う者もないのにころび倒れるであろう。」 口語訳聖書
ְהַנִּשְׁאָרִ֣ים בָּכֶ֔ם וְהֵבֵ֤אתִי מֹ֙רֶךְ֙ בִּלְבָבָ֔ם בְּאַרְצֹ֖ת אֹיְבֵיהֶ֑ם וְרָדַ֣ף אֹתָ֗ם ק֚וֹל עָלֶ֣ה נִדָּ֔ף וְנָס֧וּ מְנֻֽסַת־חֶ֛רֶב וְנָפְל֖וּ וְאֵ֥ין רֹדֵֽף׃
καὶ τοῖς καταλειφθεῖσιν ἐξ ὑμῶν ἐπάξω δειλίαν εἰς τὴν καρδίαν αὐτῶν ἐν τῇ γῇ τῶν ἐχθρῶν αὐτῶν καὶ διώξεται αὐτοὺς φωνὴ φύλλου φερομένου καὶ φεύξονται ὡς φεύγοντες ἀπὸ πολέμου καὶ πεσοῦνται οὐθενὸς διώκοντος LXXレビ26:36
「魂を落とす」
沖縄では何かに驚いて我を失うことを「魂を落とす」といい、その時は落とした場所に行って「魂を拾う」のだという。魂が消えると書いて「魂消る たまげる」というのもそれであろう。「心に恐れるδειλιάωLXX(びくびくする)」者は「木の葉の動く音にも驚いて逃げ」る。(レビ26:36)
魂を落としたところに行ってみれば、それが「風に舞う木の葉の音」であり、自分は「追う者もないのに倒れた」のだとわかる。だが、それが判るだけでは「魂を拾う」ことはできまい。落とした魂は神が預かっておられる。神はいつでも私にそれをお返しくださる。魂に少し元気がないときがそれだ。
詩篇57:8
נָ֘כ֤וֹן לִבִּ֣י אֱ֭לֹהִים נָכ֣וֹן לִבִּ֑י אָ֝שִׁ֗ירָה וַאֲזַמֵּֽרָה׃
ἐξουδενωθήσονται ὡς ὕδωρ διαπορευόμενον ἐντενεῖ τὸ τόξον αὐτοῦ ἕως οὗ ἀσθενήσουσιν
口語訳聖書
わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。
心のデボーション0069
「手に罪のあらんには之を遠く去れ 惡をなんぢの幕屋に留(とど)むる勿れ」 ヨブ11:14 明治元訳聖書は
「もしあなたの手に不義があるなら、それを遠く去れ、/あなたの天幕に悪を住まわせてはならない。」 口語訳聖書
אִם־אָ֣וֶן בְּ֭יָדְךָ הַרְחִיקֵ֑הוּ וְאַל־תַּשְׁכֵּ֖ן בְּאֹהָלֶ֣יךָ עַוְלָֽה׃
εἰ ἄνομόν τί ἐστιν ἐν χερσίν σου πόρρω ποίησον αὐτὸ ἀπὸ σοῦ ἀδικία δὲ ἐν διαίτῃ σου μὴ αὐλισθήτω LXXヨブ11:14
「惡を幕屋に留(とど)むる」
「留むるוְאַל־תַּשְׁכֵּ֖ן」はそこに残るようにと引きとめることで、「住ませる」の意である。LXXαὐλίζομαι は「野営する、夜を共にする、泊まる」の意である。悪を自分の天幕に引きとめ、夜を共にし、泊まらせてはならない。(ヨブ11:14) 悪がいつまでも天幕の中にあるということは、それを「引きとどめ、住まわせよう」とする意志が働いているからである。悪には意外と気弱なところがあり、排除する強い決意を示すと、思ったより早く天幕から出て行く。
詩篇1:1
אַ֥שְֽׁרֵי־הָאִ֗ישׁ אֲשֶׁ֤ר׀ לֹ֥א הָלַךְ֮ בַּעֲצַ֪ת רְשָׁ֫עִ֥ים וּבְדֶ֣רֶךְ חַ֭טָּאִים לֹ֥א עָמָ֑ד וּבְמוֹשַׁ֥ב לֵ֝צִ֗ים לֹ֣א יָשָֽׁב
μακάριος ἀνήρ ὃς οὐκ ἐπορεύθη ἐν βουλῇ ἀσεβῶν καὶ ἐν ὁδῷ ἁμαρτωλῶν οὐκ ἔστη καὶ ἐπὶ καθέδραν λοιμῶν οὐκ ἐκάθισεν
口語訳聖書
悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
人は「悪しき者と共に歩み」、「罪人の道に立ち止まり」、ついに「あざける者の座にすわりこみ」(詩篇1:1)、ついに「悪を自分の天幕に引きとめ、夜を共にし、泊まらせる」(ヨブ11:14)のである。
心のデボーション0070
「われら四方(しはう)より患難(なやみ)を受くれども窮(きう)せず、爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」 Ⅱコリント4:8 大正文語訳聖書
「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。」 口語訳聖書
ἐν παντὶ θλιβόμενοι ἀλλ᾽ οὐ στενοχωρούμενοι, ἀπορούμενοι ἀλλ᾽ οὐκ ἐξαπορούμενοι,
「希望(のぞみ)を失はず」
「爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はずἀπορούμενοι ἀλλ᾽ οὐκ ἐξαπορούμενοι,」を永井訳は「險(けは)しき境(さかひ)に處(お)れども」と訳す。
パウロは、もはや自分に為すべきことがない(ἐν παντὶ θλιβόμενοι「θλίβω完全に生きづまる」)という状況を信仰の出発点にする。それは「イエスの死を我らの身に負う」ことで、「イエスの生命(いのち)の我らの死ぬべき肉體(にくたい)にあらはれん爲」(Ⅱコリント4:10-11)と言うのである。「望みをうしなわず」、ἐξαπορέομαιは「絶望せず、途方に暮れず」の意である。(Ⅱコリント4:8)
Ⅱコリント4:17-18
口語訳聖書
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 4:17なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」
τὸ γὰρ παραυτίκα ἐλαφρὸν τῆς θλίψεως ἡμῶν καθ᾽ ὑπερβολὴν εἰς ὑπερβολὴν αἰώνιον βάρος δόξης κατεργάζεται ἡμῖν, μὴ σκοπούντων ἡμῶν τὰ βλεπόμενα ἀλλὰ τὰ μὴ βλεπόμενα· τὰ γὰρ βλεπόμενα πρόσκαιρα, τὰ δὲ μὴ βλεπόμενα αἰώνια.
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