心のデボーション2_006

デボーション2
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心のデボーション0051

「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書

「饑渴(うゑかわく)ごとく義を慕者は福(さいはひ)なり其人は飽ことを得べければ也」 明治元訳聖書

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」 口語訳聖書

μακάριοι οἱ πεινῶντες καὶ διψῶντες τὴν δικαιοσύνην, ὅτι αὐτοὶ χορτασθήσονται.マタイ5:6

 「渇く」

「渇くδιψάω」を明治元訳聖書は「饑渴」と訳し、「うゑかわく」と読む。「饑」は穀物が成熟しないさまをあらわす。「飢饉」の餓えと渇きである。「渇くδιψάω」は「水なきところで水を求める」の意である。(マタイ5:6)

犬養道子さんが砂漠で水だけでなく塩が足りなくなって困った時に、ポケットから飛行機の機内食についてくる2グラム入りの塩の小袋を開けたところ、はるかかなたにいたラクダの群れが猛烈な勢いで駆け寄ってきたという。(犬養道子『こころの座標軸』)

イエスがサマリヤの町に来られた時、旅の疲れに井戸端に腰をおろされ、一人のサマリヤの女に井戸の水を求められた。女は5人の夫を次々と失うという過去を持つ人であった。イエスは女に答えて「この水を飲む者はだれでも、またかわく(διψάω)であろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくこと(διψάω)がないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 」と語られた。(ヨハネ4:13-14 口語訳聖書)

渇きは飢餓や飢饉だけではなく、人の心に発生する。「渇く人」は、水の気配を感じたら、ただちに「駆け寄る」。渇いているのに駆け寄ることをしないのは、「渇く」ことにも躓いたのかもしれない。

ヨハネ6:35 

εἶπεν αὐτοῖς ὁ ἰησοῦς, ἐγώ εἰμι ὁ ἄρτος τῆς ζωῆς· ὁ ἐρχόμενος πρός ἐμὲ οὐ μὴ πεινάσῃ, καὶ ὁ πιστεύων εἰς ἐμὲ οὐ μὴ διψήσει πώποτε.

口語訳聖書

イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

心のデボーション0052

「斯(かく)てエホバ彼を外に携出して言い給ひけるは天を望みて星を數へ得るかを見よと」 創世記15:5 明治元訳聖書

そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。

וַיֹּוצֵ֨א אֹתֹ֜ו הַח֗וּצָה וַיֹּ֨אמֶר֙ הַבֶּט־נָ֣א הַשָּׁמַ֗יְמָה וּסְפֹר֙ הַכֹּ֣וכָבִ֔ים אִם־תּוּכַ֖ל לִסְפֹּ֣ר אֹתָ֑ם וַיֹּ֣אמֶר לֹ֔ו כֹּ֥ה יִהְיֶ֖ה זַרְעֶֽךָ׃

ἐξήγαγεν δὲ αὐτὸν ἔξω καὶ εἶπεν αὐτῷ ἀνάβλεψον δὴ εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ ἀρίθμησον τοὺς ἀστέρας εἰ δυνήσῃ ἐξαριθμῆσαι αὐτούς καὶ εἶπεν οὕτως ἔσται τὸ σπέρμα σου LXX創世15:5

 「星を數へ得るかを見よ」

神はアブラハムに「わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。」と約束された。(創世記13:16 口語訳聖書)

しかし、アブラハムはいまだに約束の子は与えらえていなかった。そのアブラハムに神は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。…あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記15:5口語訳聖書)と語られる。アブラハムはこの時から、夜空を見上げる毎に、星を数えたのではないだろうか。

神は数えるもののない時に「数えて見よ」と言われる。数えてみることもせずに「すごい夜空だ」と言うのはやめようと思う。夥しい数の困難と、それと同量の祝福を、疲れて目を閉じるまで、一つ一つ数えながら眠りにつきたい。

天には「數へ得ぬもの」がある。「數へ得ぬもの」のあることが嬉しい。ペテロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と不漁の海に網を入れた。(ルカ5:5) 

心のデボーション0053

「爾(なんじ)は遐齡(よきよわい)に達(いた)りて葬らるべし」 創世記15:15 明治元訳聖書

「あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。」 口語訳聖書

וְאַתָּ֛ה תָּבֹ֥וא אֶל־אֲבֹתֶ֖יךָ בְּשָׁלֹ֑ום תִּקָּבֵ֖ר בְּשֵׂיבָ֥ה טֹובָֽה׃ 

σὺ δὲ ἀπελεύσῃ πρὸς τοὺς πατέρας σου μετ᾽ εἰρήνης ταφεὶς ἐν γήρει καλῷ LXX創世記15:15

神はアブラハムに「あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。」創世記

「遐齡(よきよわい)に達(いた)り」

神はアブラハムに「あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。」創世記

15:15 口語訳聖書)と告げられる。明治元訳聖書は「爾(なんじ)は遐齡(よきよわい)に達(いた)りて葬らるべし」と訳す。「遐齡(よきよわい)」の「遐」は「遠い、永い」を意味し、「遐齡(かれい)」は「高齢」をあらわす。「遐+想」で「遐想(思いをはせる)」となり、「遐+思」で「遐思(思いにひたる」となる。「遐齡(よきよわい)に達(いた)る」は、遠くに思いをはせ、思いにひたる年齢のことかもしれない。年寄りはただの高齢者ではない。年齢を重ねさえすればなれるものでもないらしい。

ヘブライ語で「よきよわい」の「齢שֵׂיבָּה e」は「白髪頭」のことで、「よきטוּב」は「正しいこと、善きこと」を意味する。熟年とは「正しいこと、善きことを行う歳」に達したと人の意味である。そのために「遠くに思いをはせ、思いにひたる」日が来たことを喜ぶ。

心のデボーション0054

「爾(なんじ)は遐齡(よきよわい)に達(いた)りて葬らるべし」 創世記15:15 明治元訳聖書

「あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。」 口語訳聖書

וְאַתָּ֛ה תָּבֹ֥וא אֶל־אֲבֹתֶ֖יךָ בְּשָׁלֹ֑ום תִּקָּבֵ֖ר בְּשֵׂיבָ֥ה טֹובָֽה׃ 

σὺ δὲ ἀπελεύσῃ πρὸς τοὺς πατέρας σου μετ᾽ εἰρήνης ταφεὶς ἐν γήρει καλῷ LXX創世記15:15

 「遐齡(よきよわい)」

早すぎる死も、延ばされた死もない。神が私を召される、その日が「遐齡(よきよわい)」である。「遐齡(よきよわい)」とは「正しいこと、善きことを行う歳」に達するの意味である。(心のデボーション0053参照)

「正しいこと、善きことを行う歳」に達し得るならば、「葬られる」ことも善しである。老いてなお、為すべきことのなにかを知らないことほどの不幸はない。人は生きたように死ぬと言われる。年老いてなお為すべきを知らないのではなく、為すべきを知らずに生きて来たのでそのように老いたのだ。

創世記25:8 アブラハム

口語訳聖書

「アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた。」

וַיִּגְוַ֨ע וַיָּ֧מָת אַבְרָהָ֛ם בְּשֵׂיבָ֥ה טֹובָ֖ה זָקֵ֣ן וְשָׂבֵ֑עַ וַיֵּאָ֖סֶף אֶל־עַמָּֽיו׃

καὶ ἐκλιπὼν ἀπέθανεν Αβρααμ ἐν γήρει καλῷ πρεσβύτης καὶ πλήρης ἡμερῶν καὶ προσετέθη πρὸς τὸν λαὸν αὐτοῦ LXX創世記25:8

Ⅰ歴代誌23:1 ダビデ

口語訳聖書

「ダビデは老い、その日が満ちたので、その子ソロモンをイスラエルの王とした。」

‏וְדָוִ֥יד זָקֵ֖ן וְשָׂבַ֣ע יָמִ֑ים וַיַּמְלֵ֛ךְ אֶת־שְׁלֹמֹ֥ה בְנ֖וֹ עַל־יִשְׂרָאֵֽל׃

καὶ Δαυιδ πρεσβύτης καὶ πλήρης ἡμερῶν καὶ ἐβασίλευσεν Σαλωμων τὸν υἱὸν αὐτοῦ ἀντ᾽ αὐτοῦ ἐπὶ Ισραηλ LXXⅠ歴代誌23:1

心のデボーション0055

「彼其處よりベテルの東の山に移りて其天幕を張り西にベテル東にアイありき彼處にて彼ヱホバに壇を築きヱホバの名を龥(よべ)り」 創世記12:8 明治元訳聖書

「彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。」 口語訳聖書

וַיַּעְתֵּ֨ק מִשָּׁ֜ם הָהָ֗רָה מִקֶּ֛דֶם לְבֵֽית־אֵ֖ל וַיֵּ֣ט אהלה בֵּֽית־אֵ֤ל מִיָּם֙ וְהָעַ֣י מִקֶּ֔דֶם וַיִּֽבֶן־שָׁ֤ם מִזְבֵּ֨חַ֙ לַֽיהוָ֔ה וַיִּקְרָ֖א בְּשֵׁ֥ם יְהוָֽה׃

καὶ ἀπέστη ἐκεῖθεν εἰς τὸ ὄρος κατ᾽ ἀνατολὰς Βαιθηλ καὶ ἔστησεν ἐκεῖ τὴν σκηνὴν αὐτοῦ Βαιθηλ κατὰ θάλασσαν καὶ Αγγαι κατ᾽ ἀνατολάς καὶ ᾠκοδόμησεν ἐκεῖ θυσιαστήριον τῷ κυρίῳ καὶ ἐπεκαλέσατο ἐπὶ τῷ ὀνόματι κυρίου LXX創世記12:8

 「神との親しき和らぎ」

アブラハムはベテルの東の山に移り、そこにも石の壇を築き、神の名を呼んだ。(創世記12:6) 「呼んだקרא」の文語訳は「龥(よべ)り」の字をあてる。「龥(やく)」は「呼ぶ」「和らぐ」の意味である。昔、天子や貴族の車の前にある横木に付けられた鈴を「和(鸞らん)」といった。そこから「和」は「声で応じる」「演奏にあわせて歌う」の意味になった。「神と和らぐ」は、神と声を合わせて歌うことである。

ヘブライ語の「呼んだקרא」は「呼ぶ」とともに「読む」の意味もある。ギリシャ語LXX ἐπικαλέωは「大声で呼ぶ」の意である。

祈りは神との親しき和らぎであり、神の名を大声で呼ぶことである。どこにても、その在るところで神への祭壇を築け。

ヨブ記22:21 

口語訳聖書

あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。

הַלְאֵ֥ל יְלַמֶּד־דָּ֑עַת וְ֝ה֗וּא רָמִ֥ים יִשְׁפּֽוֹט׃

πότερον οὐχὶ ὁ κύριός ἐστιν ὁ διδάσκων σύνεσιν καὶ ἐπιστήμην αὐτὸς δὲ φόνους διακρινεῖ LXXヨブ記22:21

心のデボーション0056

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリスト<メシヤ、油そそがれたかた>の家系の書<系図>」 詳訳聖書

Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ ᾽Αβραάμ

 「ビブロス」

「系圖」は「系図の書 Βίβλος γενέσεως」である。「系図の書」の「書 βίβλος」はエジプト産の葦「パプロス πάπυρος」の茎の繊維で作られた長い巻物であった。ラテン語liberは、もともと「樹皮」を意味したことばであったが、やがて「本」をあらわすようになった。英語のBibleはラテン語 biblia「書物」からきている。

16世紀フランスの愛書家ジャン・グロリエは8000の蔵書を金箔押しの幾何学的な文様で装飾された皮装丁本とし、表紙下方にはラテン語で「IO. GROLIERII ET AMICORUM(ジャン・グロリエとその友人たちのもの)」という銘を金箔で入れたという。

「書βίβλος」は友人と共有するべきものであった。共有すべき「書βίβλος」を見出すことには、友を見出す喜びがある。

「書βίβλος」は「いのちのことば」(ヨハネ1:1-5)の記された「命の書」である。(黙示録20:12; 22:7)

心のデボーション0057

「目を擧て見たるに視よ三人の人其前に立り彼見て天幕の入口より趨(はし)り行て之を迎へ」 創世記18:2 明治元訳聖書

「目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、」 口語訳聖書

וַיִּשָּׂ֤א עֵינָיו֙ וַיַּ֔רְא וְהִנֵּה֙ שְׁלֹשָׁ֣ה אֲנָשִׁ֔ים נִצָּבִ֖ים עָלָ֑יו וַיַּ֗רְא וַיָּ֤רָץ לִקְרָאתָם֙ מִפֶּ֣תַח הָאֹ֔הֶל וַיִּשְׁתַּ֖חוּ אָֽרְצָה׃

ἀναβλέψας δὲ τοῖς ὀφθαλμοῖς αὐτοῦ εἶδεν καὶ ἰδοὺ τρεῖς ἄνδρες εἱστήκεισαν ἐπάνω αὐτοῦ καὶ ἰδὼν προσέδραμεν εἰς συνάντησιν αὐτοῖς ἀπὸ τῆς θύρας τῆς σκηνῆς αὐτοῦ καὶ προσεκύνησεν ἐπὶ τὴν γῆν LXX創世記18:2

 「アブラハム趨(はし)る」

アブラハム九十九歳、趨(はし)る! 老衰(おとろ)えし背を丸め、転ぶように趨(はし)る。それにて神は、「我為さんとする事をアブラハムに隠すべけんや」と言われた。九十九歳のアブラハムが走ったのは、近づく人が神と知ったからではない。荒野の彼方から三人の旅人が現れたからに他ならない。客人を迎えに「走り寄る」ことが、九十九歳のアブラハムの日常であった。(創世記1-8)この日常の中に、アブラハムの神との出会いはあった。友よ、我らアブラハムの天幕にて再会せん。共に趨(はし)りて主を迎えいでようではないか。

「走り寄るπροστρέχω」は「(驚きて)走り寄る」(マルコ9:15)である。イエスを見て驚きて趨(はし)るのである。

心のデボーション0058

「かれらは神をおのが前におかざりき」 詩篇54:3 明治元訳聖書

「彼らは自分の前に神を置こうとしないのです」 新共同訳聖書(詩篇54:5)

כִּ֤י זָרִ֨ים׀ קָ֤מוּ עָלַ֗י וְֽ֭עָרִיצִים בִּקְשׁ֣וּ נַפְשִׁ֑י לֹ֤א שָׂ֨מוּ אֱלֹהִ֖ים לְנֶגְדָּ֣ם סֶֽלָה׃

 ἡ καρδία μου ἐταράχθη ἐν ἐμοί καὶ δειλία θανάτου ἐπέπεσεν ἐπ᾽ ἐμέ LXX詩篇54:3

「自ら奇妙なる恐れに襲われて病みたればなり」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵17:8

 「奇妙なる恐れ」

ある所に自分の魂から一切の恐れと悩みを追い出すことを誓った男がいた。その結果、魂を悩まし恐れを生じるようなものは何もなくなった。しかし、間もなくその男は「奇妙な恐れ」に襲われ、その魂は病んだ。「獣の過ぎ行く音」と「蛇の声」に怯えるというもので、やがて男は、「見えざるを得ぬ大気」におののきながら死んでしまった。(ベン=シラの知恵17:8-10)

ふとした瞬間に、自分に忍び寄るその「音」を聞かなかった者がいるだろうか? 魂から「恐れと悩み」を追い出そうとしてはならない。それは魂の平安は恐れや平安と向き合うことによって深化するものだからである。

あまりの恐れと悩みに魂が押しつぶされるとき、私は「自分の前に神を置こうとしない」ことに気づくのである。「自分の前に神を置く」とき、「奇妙な恐れ」は平安に変わる。

「とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない。τοῦ Δαυιδ μὴ παραζήλου ἐν πονηρευομένοις μηδὲ ζήλου τοὺς ποιοῦντας τὴν ἀνομίαν LXX」 詩篇36:1  口語訳聖書

心のデボーション0059

「斯るがゆゑにヱホバの言かれらにくだりて 誡命にいましめをくはへ誡命にいましめをくはへ 度にのりをくはへ度にのりをくはへ 此にもすこしく彼にも少しくをしへん 之によりて彼等すすみてうしろに仆れそこなはれ罟にかかりて捕へらるべし」 イザヤ28:13 明治元訳聖書

「それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。」 口語訳聖書

‏הֵ֣ן׀ אֶ֣רֶץ כַּשְׂדִּ֗ים זֶ֤ה הָעָם֙ לֹ֣א הָיָ֔ה אַשּׁ֖וּר יְסָדָ֣הּ לְצִיִּ֑ים הֵקִ֣ימוּ בחיניו בַחוּנָ֗יו עֹרְרוּ֙ אַרְמְנוֹתֶ֔יהָ שָׂמָ֖הּ לְמַפֵּלָֽה׃

καὶ εἰς γῆν Χαλδαίων καὶ αὕτη ἠρήμωται ἀπὸ τῶν Ἀσσυρίων οὐδὲ ἐκεῖ σοι ἀνάπαυσις ἔσται ὅτι ὁ τοῖχος αὐτῆς πέπτωκεν LXXイザヤ28:13

「何を言っているのかわからぬ言葉」

神は民の指導者に、「此(こ)は安息(やすみ)なり、此(こ)は安慰(なぐさめ)なり」と民に伝えるように語られた。しかし、民の指導者は「疲困者(つかれたるもの)たち」に、「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ 命令に命令、命令に命令」「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ 規則に規則」と言い続け、民の魂を休ませなかった。イザヤ28:10-13

同じ間違いは現代の教会にも見られる。指導者が「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ 命令に命令」「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ 規則に規則」と言い始めたら、つまり、何を言っているのかわからぬ言葉を口にするなら、神が何を言われたかを自分で調べなければならない。

真の信仰は規則や命令によって従うことを要求する偽りの信仰を見分けることができる。

† 心のデボーション 00060

「是故に其名はバベル(淆亂)と呼ばるる是はエホバ彼處に全地の言語を淆(みだ)し給ひしに由りてなり彼處よりエホバ彼等を全地の表に散し給えり。」 創世記11:9  明治元訳聖書

「これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」 口語訳聖書

עַל־כֵּ֞ן קָרָ֤א שְׁמָהּ֙ בָּבֶ֔ל כִּי־שָׁ֛ם בָּלַ֥ל יְהוָ֖ה שְׂפַ֣ת כָּל־הָאָ֑רֶץ וּמִשָּׁם֙ הֱפִיצָ֣ם יְהוָ֔ה עַל־פְּנֵ֖י כָּל־הָאָֽרֶץ

καὶ εἰς γῆν Χαλδαίων καὶ αὕτη ἠρήμωται ἀπὸ τῶν Ἀσσυρίων οὐδὲ ἐκεῖ σοι ἀνάπαυσις ἔσται ὅτι ὁ τοῖχος αὐτῆς πέπτωκεν LXX創世記11:9

 「一つの民、一つの言葉」

バベルの塔(ヘブライ語:מגדל בבל‎、英語:Tower of Babel)「バベル lb,B’ 」は「llB 混ざる、混乱する」から来た言葉で、明治元訳聖書は「バベル(淆亂)と呼ばるる」と訳す。(創世記11:9)「淆亂(こうらん)」の「淆(こう)」は「まじる」、「亂(らん)」は「みだれる、みだす」を意味する。

このとき、地は「一つの民」であり、「一つの言葉」を用いていた。やがて人々は、天にまでとどく「邑と塔」を築きはじめたので、神は言葉を「混ぜられ」た。それ以来、「一つの民」「一つの言葉」は人の心に深く眠り、時々目覚めては恐ろしいエネルギーを吐き出すようになった。「一つの民、一つの言葉」への期待とが「一つの民以外は民にあらず」、「一つの言葉以外に言葉なし」という思想と容易く結びつく。「一つの民、一つの言葉」が問題なのではない。それ以外を排除することが問題である。人間に罪の力が働くところでは、「一つの民、一つの言葉」は恐ろしい乱れと破壊(バベル)を生み出す。

「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。」 創世記6:111-12  口語訳聖書

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