心のデボーション3431
「愚なる者の口にたもつ箴言は酔へるものの刺ある杖を手にて擧ぐるがごとし」 箴言26:9 明治元訳聖書
「愚かな者の口に箴言があるのは、酔った者が、とげのあるつえを手で振り上げるようだ。」 口語訳聖書
「棘の杖」
「愚かな者の口に箴言があるのは、酔った者が、とげのあるつえを手で振り上げるようだ。」(口語訳聖書) 振り上げた棘は人を傷つけ、それを握る彼の手も血を流す。賢者の杖は羊飼いの杖のごとく、羊を正しく導き、羊を襲う野獣を退ける。
(心のデボーション3431)
心のデボーション3432
「我これを算へんとすれどもそのかずは沙よりもおほし われ眼さむるときも尚なんぢとともにをる」 詩篇139:18 明治元訳聖書
「わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。」 口語訳聖書
「目ざめるとき」
神のはからいは一つや二つではない。数えようとしても、それは「砂よりも多く」、「おびただしい」と、ダビデは語る。ダビデは「流血を好む者」とわたりあう日々にも、まず、眠る。目が覚めれば神のはからいが自分と共にあると信じられるからである。目が覚めても、神のはからいが感じられないのは、眠りが足りないか、眠りの質が悪いのかもしれない。
(心のデボーション3432)
心のデボーション3433
「故なき詛は雀の翔り燕の飛ぶが如くにきたるものにあらず」 箴言26:2 明治元訳聖書
「いわれのないのろいは、飛びまわるすずめや、飛びかけるつばめのようなもので、止まらない。」 口語訳聖書
「いわれのないのろい」
「いわれのないのろい(ἀρά)は、飛びまわるすずめや、飛びかけるつばめのようなもの」。(箴言26:2口語訳聖書)飛び回って止まらない。だが、ほっておけばいつの間にかどこかに飛んでいく。人を襲って傷つけるような力もない。片手で追い払えば、怯えて逃げてもいくくらいの小鳥(小心者)なのだ。
(心のデボーション3433)
心のデボーション3434
「此の故にキリスト汝らを容れ給ひしごとく、汝らも互に相容れて神の榮光を彰すべし。」 ロマ15:7 大正文語訳聖書
「こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。」 口語訳聖書
「意味の貧しさ」
生活の貧しさにも、それなりの楽しみ方がある。しかし、生きる意味の貧しさは楽しみようがない。申し分もなく充たされた生活の中に、ふいに顔をのぞかせて暗い影を落とす。生きることが貧しいのではなく、人生に意味を与えてくれる人との出会い、縁が貧しいのかもしれない。縁は互いの嬉しさ楽しさばかりでなく、怒りや哀しさをも「受け入れる」ことからはじまる。
(心のデボーション3434)
心のデボーション3435
「アブラム九十九歳の時ヱホバ、アブラムに顯れて之に言たまひけるは我は全能の神なり汝我前に行みて完全かれよ」 創世記17:1 明治元訳聖書
「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」 口語訳聖書
「全能の神」
神は99歳のアブラハムに現れ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われた。(創世記17:1口語訳聖書)神は99歳になる者に、「全能の神の前を歩め」と言われる。99歳にして、なお信ずべき「神の全能」があり、99歳にしてはじめて信じる「全能の神」がいまし給う。
(心のデボーション3435)
心のデボーション3436
「そはいのちの泉はなんぢに在り われらはなんぢの光によりて光をみん」 詩篇36:9 明治元訳聖書
「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」 口語訳聖書
「神の光」
「われらはあなた〔神〕の光によって光を見る(ראה ὁράω)」。「見る(ראה ὁράω)」は「理解する、見つける、心に尋ねて知る」の意。神の光(אוֹר φῶς)が事物の本質といのちの根源を明らかにすする。(詩篇36:9)
(心のデボーション3436)
心のデボーション3437
「金を愛することなく、有てるものを以て足れりとせよ。主みづから『われ更に汝を去らず、汝を捨てじ』と言ひ給ひたればなり。」 へブル13:5 大正文語訳聖書
「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」 口語訳聖書
「金銭感覚」
相手を愛するなら、その金銭感覚をも愛することができなければなるまい。金銭感覚は、その人の価値観をよく現わすからである。なぜ、こんなもののために金を使うのかといぶかるよりも、その人が大切にしたいと思うものに気づく必要もある。しかし、また「金銭を愛する生活」とは、所有への貪りを戒める言葉でもある。そこには金銭感覚へのこだわりも含まれている。互いの金銭感覚を相手に押しつけず、異なる金銭感覚も愛せるだろうか?
(心のデボーション3437)
心のデボーション3438
「光はただしき人のためにまかれ 欣喜はこころ直きもののために播れたり」 詩篇97:11 明治元訳聖書
「光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。」 口語訳聖書
「光と喜びの種」
新改訳聖書は本節を「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。」と訳す。「光」は「正しい者」に「種のように蒔かれ」彼を正しくし、「喜び」は「心の直ぐな人」に「種のように蒔かれ」て彼に喜びをもたらす「光と喜びの種」は魂に芽生え、いのちを育む。
(心のデボーション3438)
心のデボーション3439
「喜びよろこべ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者たちをも、斯く責めたりき」 マタイ5:12 大正文語訳聖書
「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 口語訳聖書
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」 新共同訳聖書
「小躍りして喜びなさい」 塚本虎二訳聖書
「小躍りして」
「喜びなさい(χαίρω)。大いに喜びなさい(ἀγαλλιάω)」(新改訳聖書)塚本虎二訳聖書は「小躍りして喜びなさい」と訳す。「大いに喜ぶ(ἀγαλλιάω)」は、「小躍りして喜ぶ、狂喜する」の意である。「躍」の「翟」は「羽」+「隹 とり」で、きじなどの鳥が羽を高くかかげること。「躍」は「翟」+「足」で高くとびあがること。「躍」は大きな飛び跳ねであり、「踊」は小さな飛び跳ねである。迫害が嬉しいのではない。かの預言者を身近にしたことが嬉しいのである。迫害を受けたイエスに近づくことが嬉しいのである。(マタイ5:12)
(心のデボーション3439)
心のデボーション3440
「是において民は遠くに立ちしがモーセは神の在すところの濃雲に進みいたる」出エジプト20:21 明治元訳聖書
「そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。」 口語訳聖書
「濃雲」
神は「濃い雲の中」におられ、モーセは近づき神のことばを聞いた。「濃雲עֲרָפֶל」には「暗黒、深い闇」の意味をあらわず。神は近づきがたい深淵のうちに在す「隠れた神」であり、隠れたこと(隠れた真実)を知らされる。
(心のデボーション3440)
コメント