心のデボーション2_005

デボーション2
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心のデボーション0041

「『また「たれか底なき所に下らん」と言ふなかれ』と。是キリストを死人の中より引上げんとするなり」 ロマ10:7 大正文語訳聖書

「また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」 口語訳聖書

ἤ, τίς καταβήσεται εἰς τὴν ἄβυσσον; τοῦτ᾽ ἔστιν χριστὸν ἐκ νεκρῶν ἀναγαγεῖν. ロマ10:7

 「底なき所」

「底なき所ἄβυσσος」は「βσσός 底なしの、海の深み、底」から来た言葉で「死者の住む所、黄泉、地獄」を意味する。(民数16:33  ヨブ17:13他)人は「地獄」を覗き見たがる。しかし、「いざ、下りて、我ら見るべし」と言ってはならない。そこは「汚れし霊」でさえも行くことをためらうほどの「底なしの深淵」であり、「サタンとその使いのために用意された永遠の火(審判)の場」である。(マタイ25:41)

ソドムの滅亡から逃れる途中で後ろを振り向いて「塩の柱」になったロトの妻のこともある。(創世19:26)

御使いはロトに「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる。」(創世19:17)と告げる。命がけで、後ろも振り向かずに逃げなければならない「滅び」がある。

(「地獄」は仏語で、「悪行を重ねた者が死後裁きを受ける所」とされ、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻(無間)の八大地獄があり、それぞれにさらなる小地獄が設けられる。それらは死後の世界というよりも、生ける者がこの世で受け悪行の報いを示すものである。「地獄」の概念はどの宗教にも共通したものが認められものの、「地獄」という仏語のもつイメージを聖書の「底なき所ἄβυσσος」に単純に重ねることは、聖書の罪とその審判と死と救済の教えを混乱させることがあり、注意深く、それぞれの教えを理解する必要がある)

心のデボーション0042

「死よ、なんじの勝は何虚(いずこ)にかある」 Ⅰコリント15:55 大正文語訳聖書

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」口語訳聖書

κατεπόθη ὁ θάνατος εἰς νῖκος.ποῦ σου, θάνατε, τὸ νῖκος; ποῦ σου, θάνατε, τὸ κέντρον; Ⅰコリント15:55

 「しつこい借金取立人」

死はしつこい借金取立人のようだ。こちらが忘れようとしても、むこうは忘れることなどなく、いきなりやって来て戸を叩く。しかし、それは「死」そのものというよりも、「死への恐れ」だ。

「死」は穏やかに来るもので、恐れと一緒には来ない。「死へ恐れ」は「不確かな生」の裏返しであることもある。生に意味を失っていることから死を消滅への不安として感じてしまう。そうした死への不安を解消するには生を成熟させることだ。しつこい借金取立人にはなにがしかの金を与えて追い返し、返済へのしっかりとした計画を練り直すことだ。

それにしても、「死への恐れ」が全くなくなる信仰というものはない。死への恐れを消すのではなく、死の意味を知って生を整えることが生きた信仰である。いのちのために死は大切な役割をもっている。死はいのちの完成である。

「知恵ある人の教は命の泉(πηγὴ ζωῆς)である、これによって死のわなをのがれることができる。νόμος σοφοῦ πηγὴ ζωῆς ὁ δὲ ἄνους ὑπὸ παγίδος θανεῖται LXX」 箴言13:14 口語訳聖書 

心のデボーション0043

「汝かろがろしく出でて争ふことなかれ、恐らくは終にいたりて汝の鄰(となり)に辱められん。その時汝如何になさんとするか」 箴言25:8 明治元訳聖書

「あなたが目に見たことを、軽々しく法廷に出してはならない。あとになり、あなたが隣り人にはずかしめられるとき、あなたはどうしようとするのか。」 口語訳聖書

「軽々しく法廷に持ち出すな。さもないと、隣人が、お前に恥をかかせた時に、お前はどうすればよいか、分からなくなる」 フランシスコ会訳聖書

אַל־תֵּצֵ֥א לָרִ֗ב מַ֫הֵ֥ר פֶּ֣ן מַה־תַּ֭עֲשֶׂה בְּאַחֲרִיתָ֑הּ בְּהַכְלִ֖ים אֹתְךָ֣ רֵעֶֽךָ׃

μὴ πρόσπιπτε εἰς μάχην ταχέως ἵνα μὴ μεταμεληθῇς ἐπ᾽ ἐσχάτων ἡνίκα ἄν σε ὀνειδίσῃ ὁ σὸς φίλος 箴言25:8

 「かろがろしく争う」

友よ、老いた日のためにこの箴言を覚えておこう。何故に我らが「かろがろしく争う」のか、その訳は誰にも分からないことも含めて。「かろがろしく」のヘブライ語は「急いで、性急に、速やかに」の意味である。争いごとは性急に答えを出そうとしてはならない。答えをださずに過ごしていると「時」が解決してくれる争いごとが少なくない。その間のもやもやした気分は、「答えをださない」という答えをだしたと思えば我慢できないことではない。

「隣り人と争うことがあるならば、ただその人と争え、他人の秘密をもらしてはならない。ἀναχώρει εἰς τὰ ὀπίσω μὴ κατα」 箴言25:9 口語訳聖書 

箴言に「隣り人と争うことがあるならば、ただその人と争え」と言われている。(箴言25:9)しかし、「妻との争い」は速やかに原因を突き止め、修繕した方がよい。小さな雨漏りも放置すると土砂降りの雨漏りになる。

「愚かな子はその父の災である、妻の争うのは、雨漏りの絶えないのとひとしい。 αἰσχύνη πατρὶ υἱὸς ἄφρων καὶ οὐχ ἁγναὶ εὐχαὶ ἀπὸ μισθώματος ἑταίραςLXX」 箴言19:13 新改訳聖書

心のデボーション0044

「外にて汝の工(わざ)をととのえ田圃(はたけ)にてこれを自己(おのれ)のためにそなへ、然るのち汝の家を建てよ」 箴言24:27 明治元訳聖書

「外で、あなたの仕事を整え、畑で、すべての物をおのれのために備え、その後あなたの家を建てるがよい。」 口語訳聖書

אַל־תְּהִ֣י עֵד־חִנָּ֣ם בְּרֵעֶ֑ךָ וַ֝הֲפִתִּ֗יתָ בִּשְׂפָתֶֽיךָ׃

ἑτοίμαζε εἰς τὴν ἔξοδον τὰ ἔργα σου καὶ παρασκευάζου εἰς τὸν ἀγρὸν καὶ πορεύου κατόπισθέν μου καὶ ἀνοικοδομήσεις τὸν οἶκόν σου LXX箴言24:27

 「然るのち汝の家を建てよ」

「外で、あなたの仕事を整え、畑で、すべての物をおのれのために備え、その後あなたの家を建てるがよい」(箴言24:27口語訳聖書) 現代では、この箴言は「汝まず家を建てよ。しかる後、汝の工(わざ)をととのえ田圃(はたけ)に出で行き、ローンを支払え」と読み変えるのが普通になったようだ。しかし、そのため、家に家の喜びなく、工(わざ)に工の悦びが消えようとしているのではないだろうか。

まず、自分の人間としての「工(わざ)をととのえ」、自分の畑をよく耕作し、しかる後に自身の家を建てるべきである。

人間として「私」をととのえ自立した者となる。そのような人は日々の糧を生み出す「よき畑」を耕す。「自分の家」はその上に建てられるのである。彼はどのような時代の危機にも生きる力を失うことはない。

ルカ14:28-30

口語訳聖書

あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。

ダニエル2:23

口語訳聖書

「わが先祖たちの神よ、あなたはわたしに知恵と力とを賜い、今われわれがあなたに請い求めたところのものをわたしに示し、王の求めたことをわれわれに示されたので、わたしはあなたに感謝し、あなたをさんびします」 口語訳聖書 

心のデボーション0045

「長(おさ)たる者は善き業の懼れ(おそれ)にあらず、悪しき業の懼れなり」 ロマ13:3 大正文語訳聖書

「いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。」 口語訳聖書

οἱ γὰρ ἄρχοντες οὐκ εἰσὶν φόβος τῶ ἀγαθῶ ἔργῳ ἀλλὰ τῶ κακῶ. θέλεις δὲ μὴ φοβεῖσθαι τὴν ἐξουσίαν; τὸ ἀγαθὸν ποίει, καὶ ἕξεις ἔπαινον ἐξ αὐτῆς·ロマ13:3

口語訳聖書

 「長(おさ)たる者」

「善き業」をなす者は支配者を恐れず、「悪しき業」をなす者は身を隠す。「悪しき長(おさ)たる者ἄρχων」は、「善き業」でも「悪しき業」でもなく、自分に都合の良い「業」を求めるものだ。彼にとっては、「善き業」であれ「悪しき業」であれ、自分に都合に悪いものはすべて「悪しきもの」である。そのとき、迫害を受けるのは、身を隠すことを知らない「善き業」であろう。してみれば、「善き業」をなす者は、「悪しき業」をなす者の「身を隠す」知恵をも学ばなければならない。

「善き業」をなすには「蛇のような知恵と、鳩のような素直さὡς οἱ ὄφεις καὶ ἀκέραιοι ὡς   αἱ  περιστεραί」(マタ10:16)が求められる。「善き業を退けない長たる者」は褒められるべきである。しかし、「善き業を恐れ、悪しき業をそそのかす長たる者」も少なくない。

心のデボーション0046

「またエフライムの首はサマリヤ、サマリヤの首はレマリヤの子なり 若なんぢら信ぜずばかならず立ことを得じと 」 イザヤ7:9 明治元訳聖書

「エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない』」。」 新改訳聖書

‏וְרֹ֤אשׁ אֶפְרַ֙יִם֙ שֹׁמְר֔וֹן וְרֹ֥אשׁ שֹׁמְר֖וֹן בֶּן־רְמַלְיָ֑הוּ אִ֚ם לֹ֣א תַאֲמִ֔ינוּ כִּ֖י לֹ֥א תֵאָמֵֽנוּ׃

καὶ ἡ κεφαλὴ Εφραιμ Σομορων καὶ ἡ κεφαλὴ Σομορων υἱὸς τοῦ Ρομελιου καὶ ἐὰν μὴ πιστεύσητε οὐδὲ μὴ συνῆτε LXXイザヤ7:9 

 「信ぜずば知ることを得じ」

LXX(七十人訳)は「ἐὰν μὴ πιστεύσητε οὐδὲ μὴ συνῆτε 汝ら信ぜずば知ることを得じ」となっている。「信じる」は一つの「理解」である。「信じる πιστεύω」から始まる「霊的理解」であり、「理解する συνίημι」は「立つこと」である。「理解 συνίημι」が即「立つ」であるような「信」は神からくる。信じなければ決して知ることの出来ないものがある。信じることに始まるのは、一つ一つの新しい事実であり、一つ一つの「立」である。「長く立つ」は「支えられる」の意味である。(新共同訳聖書「確かにされる」)信じる者を神は「長く支えられる、確かな者とされる、知る者とされる」。アウグスティヌスはイザヤ7:9を好んで引用している。

「なんじ我をたふさじとわが足をまもり」 詩篇56:13 明治元訳聖書 

心のデボーション0047

「ヨセフ寐(ねむり)より起き、主の使いの命ぜし如くして妻を納(い)れたり」 マタイ1:24 大正文語訳聖書

「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。」 口語訳聖書

ἐγερθεὶς δὲ ὁ ᾽Ιωσὴφ ἀπὸ τοῦ ὕπνου ἐποίησεν ὡς προσέταξεν αὐτῷ ὁ ἄγγελος κυρίου καὶ παρέλαβεν τὴν γυναῖκα αὐτοῦ,マタイ1:24

 「腹に抱える」

「妻を納(い)れるπαραλαμβάνω」は、「妻を掴み、腹に抱える」の意。結婚は妻に属するものをすべて「主の命ぜし如く」引き継ぎ、己が腹に抱え込むことである。夫たる者は、「妻」の信じること、またその人間関係を丸ごと「腹に抱え」なければならない。

アダムは深い眠りから覚めてエバと出会うと、彼女を「骨からの骨、肉からの肉」と呼んだ。(創世記2:23) それは「あなたこそ、私そのもの」という意味だった。言葉を変えれば「あなたという存在がなければ、私というものが完成しない、そういう存在としてのあなた」という意味である。夫婦の愛は、夫が妻を自らの「骨からの骨、肉からの肉」として受け入れるところから始まる。

エペソ5:25 

ἵνα αὐτὴν ἁγιάσῃ καθαρίσας τῶ λουτρῶ τοῦ ὕδατος ἐν ῥήματι,

口語訳聖書

夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。

心のデボーション0048

「汝は平康(やすき)にやすきをもて心志(こころざし)かたき者をまもり給ふ」 イザヤ26:3 明治元訳聖書

「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」 口語訳聖書

「志の堅固な国民を、あなたは全き平和のうちに守られます」 フランシスコ会訳聖書

‏יֵ֣צֶר סָמ֔וּךְ תִּצֹּ֖ר שָׁל֣וֹם׀ שָׁל֑וֹם כִּ֥י בְךָ֖ בָּטֽוּחַ׃

ἀντιλαμβανόμενος ἀληθείας καὶ φυλάσσων εἰρήνην ὅτι ἐπὶ σοὶ LXXイザヤ26:3

 「シャローム、シャローム」

「心志(こころざし)かたき者」は七十人訳(LXX)では、「ἀντιλαμβανόμενος ἀληθείας 真実を捉えこれを掴む者」となっている。フランシスコ会訳聖書は「志の堅固な国民」と訳す。

神はこれを「平康(やすき)にやすきをもて」守られる。(ヘブル語で「 שׁלוֹם שָׁלוֹם シャローム、シャローム」は「全き平和」の意味である)「平康(やすき)」は「畏れ」とともにある。神は人に「志」を与え、「平康(やすき)にやすきをもて」これを守り給う。「志」を与えられる神は、「志」を全うされる神である。「平康(やすき)にやすきをもて」喜べ。

ピリピ1:6 

πεποιθὼς αὐτὸ τοῦτο, ὅτι ὁ ἐναρξάμενος ἐν ὑμῖν ἔργον ἀγαθὸν ἐπιτελέσει ἄχρι ἡμέρας χριστοῦ ἰησοῦ·

口語訳聖書

そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。

心のデボーション0049

「また約束し給ひし者は忠實(ちゅうじつ)なれば、我ら言ひあらはす所の望を動かさずして堅く守り」 へブル10:23 大正文語訳聖書

「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、」 口語訳聖書

κατέχωμεν τὴν ὁμολογίαν τῆς ἐλπίδος ἀκλινῆ, πιστὸς γὰρ ὁ ἐπαγγειλάμενος·へブル10:23 

 「神の忠実」

私に約束してくださったのは、「忠実πιστός(信頼できる、確かな)なお方」である。神の「忠実πιστός(確かさ)」が私に入り、私は「我が言ひあらはす所の望を動かさずと信じた(πιστός (信用する、当てにする)」のである。

いつか、自分の信仰が揺るぐのではないかという不安は常にある。しかし、人が神を信じるのは人の信仰によるのではなく、神から来るのである。神は御自身を裏切ることがない。人の信仰をまっとうするのは「神の忠実」によるのである。「神の忠実」のゆえに、私の言いあらわす所の希望は揺らぐことがない。信じる人から「希望」が失われることはない。

ヨハネ4:23 

ἀλλὰ ἔρχεται ὥρα, καὶ νῦν ἐστιν, ὅτε οἱ ἀληθινοὶ προσκυνηταὶ προσκυνήσουσιν τῶ πατρὶ ἐν πνεύματι καὶ ἀληθείᾳ· καὶ γὰρ ὁ πατὴρ τοιούτους ζητεῖ τοὺς προσκυνοῦντας αὐτόν.

口語訳聖書

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

ロマ5:5 

ἡ δὲ ἐλπὶς οὐ καταισχύνει, ὅτι ἡ ἀγάπη τοῦ θεοῦ ἐκκέχυται ἐν ταῖς καρδίαις ἡμῶν διὰ πνεύματος ἁγίου τοῦ δοθέντος ἡμῖν,

口語訳聖書

そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

心のデボーション0050

「さらば悔改に相應(ふさは)しき果を結べ」 マタイ3:8 大正文語訳聖書

「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」 口語訳聖書

ποιήσατε οὖν καρπὸν ἄξιον τῆς μετανοίας マタイ3:8

 「悔い改めに値する実」

永井訳聖書は本節を「この故に悔い改めに値する実を出だせ」と訳す。「悔い改めμετάνοια」と同じ量と質の「悔い改めの実」を「出だせ」と訳す。どのような「悔い改めμετάνοια」にも「相應(ふさは)しき果καρπὸν ἄξιον τῆς μετανοίας」は、すでに来ている。ただ、この「実καρπὸν」は「出だす」意志がなければ育たない。

実を「結ぶποιέω」には「創り出す、創出する」の意味がある。創造的結実である。思考の根源が変わるとき、いのちは新しく創出される。

その「悔い改め」が何かを生み出し、何かを創り出すのでなければ、我々は悔い改めてはいないのである。「悔改め」がすでに「実」である。

エペソ5:9

ὁ γὰρ καρπὸς τοῦ φωτὸς ἐν πάσῃ ἀγαθωσύνῃ καὶ δικαιοσύνῃ καὶ ἀληθείᾳ

口語訳聖書

光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――

ガラテヤ5:22-23

ὁ δὲ καρπὸς τοῦ πνεύματός ἐστιν ἀγάπη, χαρά, εἰρήνη, μακροθυμία, χρηστότης, ἀγαθωσύνη, πίστις, πραΰτης, ἐγκράτεια· κατὰ τῶν τοιούτων οὐκ ἔστιν νόμος.

口語訳聖書

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 

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