心のデボーション2_004

デボーション2
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† 心のデボーション0031

「ああなんぢ美はしきかな わが佳耦よ ああなんぢうるはしきかな なんぢの目は面帕のうしろにありて鴿のごとし なんぢの髮はギレアデ山の腰に臥たる山羊の群に似たり」 雅歌4:1 明治元訳聖書

「わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい。あなたの目は、顔おおいのうしろにあって、はとのようだ。あなたの髪はギレアデの山を下るやぎの群れのようだ。」 口語訳聖書

הִנָּ֨ךְ יָפָ֤ה רַעְיָתִי֙ הִנָּ֣ךְ יָפָ֔ה עֵינַ֣יִךְ יֹונִ֔ים מִבַּ֖עַד לְצַמָּתֵ֑ךְ שַׂעְרֵךְ֙ כְּעֵ֣דֶר הָֽעִזִּ֔ים שֶׁגָּלְשׁ֖וּ מֵהַ֥ר גִּלְעָֽד׃

ἰδοὺ εἶ καλή ἡ πλησίον μου ἰδοὺ εἶ καλή ὀφθαλμοί σου περιστεραὶ ἐκτὸς τῆς σιωπήσεώς σου τρίχωμά σου ὡς ἀγέλαι τῶν αἰγῶν αἳ ἀπεκαλύφθησαν ἀπὸ τοῦ Γαλααδ LXX雅歌4:1

「わたしの愛する人。あなたは何と美しいことか」 フランシスコ会訳聖書

 「わが佳耦(とも)よ」

モンテーニュは「空腹の人間がご馳走よりも美しい着物を得ようとするのは実にばかげている」と言うが、現代は「美しい着物を得ようとして、空腹をこらえる娘」が増えている。実にばかげている。

「佳耦(とも)」(雅歌4:1)の「佳」は「美しい」、「耦」は「並んで耕す」で「美しきつれあい」の意味。「わがつれあい」は並んで畑を耕す美しい人のことである。「わが愛する者LXXἡ πλησίον μου」は「私の近しい女(ひと)」で、パウロは「隣人(信仰の兄弟)」に用いる。(ロマ15:2)

「良き妻」を得たければ箴言31:10-31を開くがよい。

「だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。その夫の心は彼女を信頼して収益に欠けることは彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。彼女は畑をよく考えてそれを買い、その手の働きの実をもって、ぶどう畑をつくり、手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる。彼女は亜麻布の着物をつくって、それを売り、帯をつくって商人に渡す。力と気品とは女の着物である、そして後の日を笑っている。彼女は口を開いて知恵を語る、その舌にはいつくしみの教がある。彼女は家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない。その子らは立ち上がって彼女を祝し、その夫もまた彼女をほめたたえて言う、「りっぱに事をなし遂げる女は多いけれども、あなたはそのすべてにまさっている」と。」 箴言31章 口語訳聖書

心のデボーション0032

「エホバよ、なんじの大路をわれにしめし、なんじの徑(みち)をわれにおしへたまへ」 詩篇25:4 明治元訳聖書

「主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。」 口語訳聖書

「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください」 新改訳聖書

「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」 新共同訳聖書

 ‏‏נְקִ֥י כַפַּ֗יִם וּֽבַר־לֵ֫בָ֥ב אֲשֶׁ֤ר׀ לֹא־נָשָׂ֣א לַשָּׁ֣וְא נַפְשִׁ֑י וְלֹ֖א נִשְׁבַּ֣ע לְמִרְמָֽה׃

τὰς ὁδούς σου κύριε γνώρισόν μοι καὶ τὰς τρίβους σου δίδαξόν μεLXX詩篇24:4

 「花徑(ホアジン)」

「大路ὁδόςLXX」は死海の東を南北に走る「王の道」で、大海沿いの「海の道」があり貿易の荷車が行き交い、兵の馬が疾走する幹線道路である。

明治元訳聖書は「大路、道τρίβοςLXX」を「徑」と訳す。「徑」は「足で踏み固めた道」で「小道」である。杜甫の詩には「花徑(ホアジン)」という言葉がある。狭いが脇を小川が流れ、野の花の咲く道である。(詩篇25:4)

神の道には「大路」あり、「小道」あり。大路に道あり、小道に道ある。小道、大路に導き。大路、小道に隠れ居る。神よ、私に「大路」をしめし、「花徑」(神に従う道)を教え給え。

「大路ὁδόςLXX」は「義しき道」「公平なる路徑」である。「徑τρίβοςLXX」は「大路ὁδόςLXX」に見出される「私の足で踏み固めた小道」であろう。

「我は義しき道にあゆみ 公平なる路徑のなかを行むἐν ὁδοῖς δικαιοσύνης περιπατῶ καὶ ἀνὰ μέσον τρίβων δικαιώματος ἀναστρέφομαι」 箴言8:20 明治元訳聖書

心のデボーション0033

「我心を盡し知慧をもちひて天が下に行わるる諸の事を尋ねかつ考覈(しらべ)たり、此苦しき事件(わざ)は神が世の人にさづけて之に身を労せしめ給ふ者なり」 伝道1:13 明治元訳聖書

「わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である」 口語訳聖書

וְנָתַ֣תִּי אֶת־לִבִּ֗י לִדְרֹ֤ושׁ וְלָתוּר֙ בַּֽחָכְמָ֔ה עַ֛ל כָּל־אֲשֶׁ֥ר נַעֲשָׂ֖ה תַּ֣חַת הַשָּׁמָ֑יִם ה֣וּא׀ עִנְיַ֣ן רָ֗ע נָתַ֧ן אֱלֹהִ֛ים לִבְנֵ֥י הָאָדָ֖ם לַעֲנֹ֥ות בֹּֽו׃

καὶ ἔδωκα τὴν καρδίαν μου τοῦ ἐκζητῆσαι καὶ τοῦ κατασκέψασθαι ἐν τῇ σοφίᾳ περὶ πάντων τῶν γινομένων ὑπὸ τὸν οὐρανόν ὅτι περισπασμὸν πονηρὸν ἔδωκεν ὁ θεὸς τοῖς υἱοῖς τοῦ ἀνθρώπου τοῦ περισπᾶσθαι ἐν αὐτῷ LXX伝道1:13

 「尋ねかつ考覈(しらべ)たり」

伝道者は「わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた」。(伝道1:13口語訳聖書) 「尋ね、また調べた」を明治元訳聖書は「尋ねかつ考覈(しらべ)たり」と訳す。「覈(かく)」は「事実を明らかにすること」で「考覈(こうかく)」は「考え調べること」である。それは「神が与えた苦しき事件(わざ)だ」と伝道者はいう。

「覈」には「危言覈論 きげんかくろん(危険を顧みずに直言し、激しく議論を戦わせる)」、「検覈 けんかく(きびしく調べる)」、「研覈 けんかく(事実を詳しく調べる)」「推覈 すいかく(罪を取り調べる)」、「精覈 せいかく(詳しく調べ、明らかにする)」などあり、いずれも神が人に与えた「苦しき事件(わざ)」であり、「つらい務め」である。

だがソロモンは「我わが家に入り來る時、智慧の許にて憩を得ん。智慧と語る時は、おぞましき事なし。智慧と住む事には苦なく喜と樂とあり。εἰσελθὼν εἰς τὸν οἶκόν μου προσαναπαύσομαι αὐτῇ οὐ γὰρ ἔχει πικρίαν ἡ συναναστροφὴ αὐτῆς οὐδὲ ὀδύνην ἡ συμβίωσις αὐτῆς ἀλλὰ εὐφροσύνην καὶ χαράν LXX」(知恵の書8:16聖公会訳聖書)という。

「天が下に行わるる諸の事を尋ねかつ考覈(しらべ)る」は、時につらい作業だが、虚しくはない。事実を明らかにすることは、自身の事実と向き合うことである。最も「苦しき事件(わざ)」であるに違いない。

心のデボーション0034

「縦ひいくさびと營をつらねて我をせむるともわが心おそれじ たとひ戰ひおこりて我をせむるとも我になほ恃あり」 詩篇27:3 明治元訳聖書

「たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。」 口語訳聖書

 ‏אִם־תַּחֲנֶ֬ה עָלַ֨י׀ מַחֲנֶה֮ לֹֽא־יִירָ֪א לִ֫בִּ֥י אִם־תָּק֣וּם עָ֭לַי מִלְחָמָ֑ה בְּ֝זֹ֗את אֲנִ֣י בוֹטֵֽחַ׃

εἰσάκουσον τῆς φωνῆς τῆς δεήσεώς μου ἐν τῷ δέεσθαί με πρὸς σέ ἐν τῷ με αἴρειν χεῖράς μου πρὸς ναὸν ἅγιόν σου LXX詩篇27:3

 「我になお恃(たのみ)あり」

「私に対する戦い」が起こった。軍勢が陣を敷き、ひとりの私に向かって備えをした。

しかし、詩人は「我になお恃(たのみ)あり」という。「今、この私の(所に)恃(たのみ)あり」という。

戦いがあり、私ひとりを目指して押し寄せる兵の姿が見えるその場で「我になを、恃(たのみ)あり」という。如何なる時にも「ひとり」になれる人こそが、この「恃(たのみ)」を見出すことができる。

「ヱホバはわが光わが救なり われ誰をかおそれん ヱホバはわが生命のちからなり わが懼るべきものはたれぞや」 詩篇27:1 明治元訳聖書

「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまへるヱホバよりきたる」 詩篇121:1-2 明治元訳聖書

心のデボーション0035

「又なんぢらの中に在りて乏しかりしとき、誰をも煩はさず、マケドニヤより來りし兄弟たち我が窮乏を補へり。斯く凡ての事に汝らを煩はすまじと愼みたるが、此の後もなほ愼まん。」 Ⅱコリント11:9 大正文語訳聖書

「あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。こうして、わたしはすべての事につき、あなたがたに重荷を負わせまいと努めてきたし、今後も努めよう。」 口語訳聖書

καὶ παρὼν πρὸς ὑμᾶς καὶ ὑστερηθεὶς οὐ κατενάρκησα οὐθενός· τὸ γὰρ ὑστέρημά μου προσανεπλήρωσαν οἱ ἀδελφοὶ ἐλθόντες ἀπὸ μακεδονίας· καὶ ἐν παντὶ ἀβαρῆ ἐμαυτὸν ὑμῖν ἐτήρησα καὶ τηρήσω.

 「汝らを煩わすまじ」

パウロは自分のことでコリントの信徒をいささかも「煩わすまい」と思う。「煩わすまじἀβαρής」は「ἀ否定+ βάρος(重さ)」で、「目方がない、軽い」から「重くない、めんどうをかけない」の意味である。

パウロは伝道旅行する時にも、その町の教会に食事のことで迷惑をかけないように「昼も夜も働きながら」町々を巡回している。(Ⅰテサロニケ2:9)パウロにとって、たとえ宣教の旅であっても、地域の教会に気遣いをさせない為に「パン」は「自分の金で買って食べるべきもの」であった。老いたる者の思いと覚悟もこれと同じである。身重き者であるが、自分でそれを負いたいのである。

初代教会の使徒たちは宣教のために諸教会の献金を受ける権威を主張することもできたた(Ⅰテサロニケ2:6)が、ある者たちは自分の職をもち、しばしば「昼も夜も」働きながら宣教活動を続けた。(Ⅰテサロニケ2:9)パウロは「天幕造り」であり、ペテロは「漁師」だった。(使徒18:3)

心のデボーション0036

「何時まで汝かかる事を言や 何時まで汝の口の言語を大風のごとくにするや」ヨブ8:2 明治元訳聖書

「いつまであなたは、そのような事を言うのか。あなたの口の言葉は荒い風ではないか。」 口語訳聖書

‏אִם־אַ֭תָּה תְּשַׁחֵ֣ר אֶל־אֵ֑ל וְאֶל־שַׁ֝דַּ֗י תִּתְחַנָּֽן׃

σὺ δὲ ὄρθριζε πρὸς κύριον παντοκράτορα δεόμενοςLXXヨブ8:2

 「ポストに嫌われる」

ヨブの友人はヨブの言葉を「荒い風ではないか」と非難する(ヨブ8:2)騒がしい音を立てる風のようだというのである。

サッカーの選手が放ったシュートがゴールポストに当たって外にはじかれると、アナウンサーが「ポスト(バー)に嫌われましたね」と残念そうに叫ぶ。「ゴールポスト」は円柱で、ボールが当たると、どこに飛ぶかわからない。そこで、ボールがゴールすれば「ポストに好かれた」のであり、外にはじかれれば「ポストに嫌われた」になる。狙い澄ました「言葉」もポストに嫌われれば、「大風(「荒い風」口語訳)」になる。

ヨブの言葉は深い苦悩からの魂の叫びである。しかし、それを理解しないヨブの友人にとっては「喧しい荒い風」にすぎない。ゴールに飛び込ませなければ、言葉は虚しく弾き飛ばされるしかない。聞く耳のある者にだけ言葉はよい働きをする。

ヨブは友人に「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。あなたがたはことばで私を責めるつもりか。絶望した者のことばは風のようだ。」と答える。(ヨブ6:25-26  新改訳聖書)

絶望して「荒い風」のような言葉で心を傷つけるのは、ヨブの心を理解しないで責めるヨブの友人なのだ。

心のデボーション0037

「耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし、勝を得る者には我かくれたるマナを與へん、また受くる者の外たれも知らざる新しき名を録したる白き石を與へん」黙示2:17 大正文語訳聖書

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。」口語訳聖書 

ὁ ἔχων οὗς ἀκουσάτω τί τὸ πνεῦμα λέγει ταῖς ἐκκλησίαις. τῶ νικῶντι δώσω αὐτῶ τοῦ μάννα τοῦ κεκρυμμένου, καὶ δώσω αὐτῶ ψῆφον λευκὴν καὶ ἐπὶ τὴν ψῆφον ὄνομα καινὸν γεγραμμένον ὃ οὐδεὶς οἶδεν εἰ μὴ ὁ λαμβάνων.黙示2:17

 「未だ味わいし事なき美味」

「イエス・キリストの御生涯に就いて深く黙想を凝らすこと、之を私共の最高要務とすべきである。誰でもその御霊をもつ者は、その中に「隠れる霊的食物(マナ)を見出す筈である」(アケンピス『基督のまねび』より)

イエスは「我に隠されしマナあり。未だ味わいし事なき美味、隠しあり。」と言われた。(ヨハネ4:32)「汝らの知らぬ我が食する食物」とは神の御心を行ない、その業を成し遂げることであった。(ヨハネ4:34)

「勝利を得る者」は「隠されているマナ〔隠されているみことば〕」を食し、「受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある白い石」が与えられる。(黙示2:17)

心のデボーション0038

「神よねがはくはわれ老て頭髮しろくなるとも我がなんぢの力を次代にのべつたへ なんぢの大能を世にうまれいづる凡のものに宣傳ふるまで我をはなれ給ふなかれ」 詩篇71:18 明治元訳聖書

「神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に/宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。」 口語訳聖書

 ‏וְגַ֤ם עַד־זִקְנָ֨ה׀ וְשֵׂיבָה֮ אֱלֹהִ֪ים אַֽל־תַּעַ֫זְבֵ֥נִי עַד־אַגִּ֣יד זְרוֹעֲךָ֣ לְד֑וֹר לְכָל־יָ֝ב֗וֹא גְּבוּרָתֶֽךָ׃

αὶ ἕως γήρους καὶ πρεσβείου ὁ θεός μὴ ἐγκαταλίπῃς με ἕως ἂν ἀπαγγείλω τὸν βραχίονά σου πάσῃ τῇ γενεᾷ τῇ ἐρχομένῃ τὴν δυναστείαν σου καὶ τὴν δικαιοσύνην σου LXX詩篇71:18

「人にとりては、さとき心こそ白髪にして、汚れなき生涯こそ、まどかなる老年なれπολιὰ δέ ἐστιν φρόνησις ἀνθρώποις καὶ ἡλικία γήρως βίος ἀκηλίδωτος」 智慧の書4:9 日本聖公会訳

 「まどかなる老年」

老いて白髪にこそなったが、「さとき心」に遥か遠く、自分の汚れが見えてくる。それだけ「まどかなる老年」(ソロモンの知恵4:9)に近づいたということか。人はだれでも老いていくが、年齢をかさねれば「老年」に入るのではなさそうである。

詩人は、生まれ来るすべての者たちに神の力を伝えることが「老いた者」の務めとし、その事が成し遂げられるまで自分から離れないでくださいと神に祈る。自分の経験のうちに知ることのできた神を、自分のことばで伝え得る者こそが「老い」の務めに他ならない。「まどかなる老年」は、失敗多く、挫折にみちた経験の背後に神がおられることを知るところに始まる「汚れなき生涯」ではないだろうか。

「まどかなる老年」とは、「〔自らの経験した〕(神)の力を、きたらんとするすべての代に宣べ伝えんとする、さとき心による熱く汚れなき生涯(日日)」である。

心のデボーション0039

「アブラハムの裔(こ)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「亞伯拉罕(アブラハム)の裔(すえ)」 漢訳聖書

υἱοῦ ᾽Αβραάμ マタイ1:1

 「アブラハムの裔(こ)」

漢訳聖書、明治元訳聖書は、「子」に「裔(こ)」の字をあてる。「裔(こ)」は「衣服のふち、へり、すそ」を意味する言葉で、後代の子孫をさす。「裔孫」といえば「遠い子孫」である。(マタイ1:1)人は「衣服のふち、へり、すそ」までを含めての「私」である。「私」は自身の内に「遠い子孫のいのちとなるであろう信仰」を見出さなければいけない。それには、私の遠い祖先が生きて見出し現在の私に伝えているいのちをさらに深化させ「私」としていくことである。「遠い子孫のいのちとなるであろう信仰」はその過程の中に育まれていく。

人生の後半は「私」を深化してく期間である。それは存在を創造された神への渇望に人を導く。人はみな「アブラハムの裔」である。

「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」ガラテヤ3:29  口語訳聖書

「さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである。」(ガラテヤ3:16  口語訳聖書) 

「アブラハムの裔」は「キリストの裔」である。

心のデボーション0040

「今我一の願を汝に求む請ふわが面を黜くるなかれバテシバかれにいひけるは言されよ」 Ⅰ列王2:16 明治元訳聖書

「今わたしはあなたに一つのお願いがあります。断らないでください」口語訳聖書

וְעַתָּ֗ה שְׁאֵלָ֤ה אַחַת֙ אָֽנֹכִי֙ שֹׁאֵ֣ל מֵֽאִתָּ֔ךְ אַל־תָּשִׁ֖בִי אֶת־פָּנָ֑י וַתֹּ֥אמֶר אֵלָ֖יו דַּבֵּֽר׃

καὶ νῦν αἴτησιν μίαν ἐγὼ αἰτοῦμαι παρὰ σοῦ μὴ ἀποστρέψῃς τὸ πρόσωπόν σου καὶ εἶπεν αὐτῷ Βηρσαβεε λάλει 

LXXⅠ列王2:16

 「お願い」

元気すぎてママにしかられてばかりいる男の子がお祈りをしている。

「もっといい子になれるように神さまにお願いしたの?」

「ううん、ママがもっと辛抱強くなるようにお願いしたの」 (「ユーモア大百科」より)

神さまはこの男の子のお祈りにどうお答えになるのだろうか。男の子は、ママがもっと辛抱強くなるようにお願いしている。ママに「辛抱強くボクとつき合って」と言っているようだ。大抵の場合、反省すべきは子どもよりもママにある。いいママになりますように。

「辛抱」の英語はpatienceで自分に不都合なことでも誤魔化さないで受け取ることを意味する。漢字の「辛抱」は文字通り「辛さ」を「抱える」である。「忍耐」を意味するギリシャ語ὑπομονηは「苦痛の下にながくとどまる」の意である。神は「忍耐と励ましの神」である。(ロマ15:5)

男の子は主イエスが私にそうされるように、「ママはボクの辛さをかかえてよ」と言っているのかもしれない。

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