心のデボーション3381
「神の子イエス、キリストの福音の始」 マルコ1:1 大正文語訳聖書
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 口語訳聖書
「はじまり」
すべてのものごとに「始めἀρχή」」がある。何がはじまるにしても、「始めἀρχή」を促し、もたらすのは神である。途中で消滅する「はじまり」があったとしても、神のはじめられたことは私の中で静かに継続している。(マルコ1:1)
(心のデボーション3381)
心のデボーション3382
「互に仁慈と憐憫とあれ、キリストに在りて神の汝らを赦し給ひしごとく、汝らも互に赦せ。」 エペソ4:32 大正文語訳聖書
「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」 口語訳聖書
「親切のさじ加減」
親切な人はどんな時にも親切であろうとする。しかし、そういう親切な人ほど内に怒りをためやすい。時には親切を控えるのが親切であることもある。少しの不親切くらいがちょうどいいかもしれない。親切のさじ加減にきまりはない。目検討で覚えるしかない。相手が「喜ぶ」のを見たら、それがちょうどよい親切である。(箴言12:25)
(心のデボーション3382)
心のデボーション3383
「われ詰朝おきいでて呼はれり われ聖言によりて望をいだけり」 詩篇119:147 明治元訳聖書
「わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。」 口語訳聖書
「朝早く起きて」
「わたしは朝早く起き出て呼ばわります。」。物事を始める前に「み言葉によって望みをいだく」ことは神の祝福の基である。朝のしじまに神の御言葉に思いを巡らす。その日の「望み」は御言葉から来る。
(心のデボーション3383)
心のデボーション3384
「われ汝らを見んことを切に望むは、汝らの堅うせられん爲に靈の賜物を分け與へんとてなり。」 ロマ1:11 大正文語訳聖書
「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。」 口語訳聖書
「三千人」
ある調査によると、一人の人間が一生のうちでつきあう人の数はほぼ三千人だそうである。一生を通してつきあう人ともなれば、その数はほんのわずかになる。人生で出会う人がこれほどに限られるのなら、せめて、出会えた人は大切にしたい。しかし、私は数の少ないのを、それほど残念には思わない。一人の人と本当に出会うことは、すべての人に出会うに等しいことだからである。
(心のデボーション3384)
心のデボーション3385
「嗚呼われの言ところを聽わくる者あらまほし(我が花押ここに在り 願くは全能者われに答へたまへ)我を訴ふる者みづから訴訟状を書け」 ヨブ31:35 明治元訳聖書
「ああ、わたしに聞いてくれる者があればよいのだが、/(わたしのかきはんがここにある。どうか、全能者がわたしに答えられるように。)/ああ、わたしの敵の書いた/告訴状があればよいのだが。」
「だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば、τίς δῴη ἀκούοντά μου χεῖρα δὲ κυρίου εἰ μὴ ἐδεδοίκειν συγγραφὴν δέ ἣν εἶχον κατά τινος LXX」 新改訳聖書
「私を確認してくださる方」
人には理解してもらえない苦しみがある。ヨブは友と多くの言葉を交わしたが、彼らの理解を得ることはできなかった。そこでヨブは「見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる」という。(ヨブ31:35)「私の真実」をことごとく確認してくださるのは神である。それによって私は真実の自己を確認するのである。
(心のデボーション3385)
心のデボーション3386
「ヱホバかくいふ汝らカルデヤ人は必ず我らをはなれて去んといひて自ら欺く勿れ彼らは去ざるべし」 エレミヤ37:9 明治元訳聖書
「主はこう言われる、あなたがたは、「カルデヤびとはきっとわれわれを離れ去る」といって自分を欺いてはならない。彼らは去ることはない。」 口語訳聖書
「自分を欺く」
イスラエルの民は一度は退却したカルデヤ人が戻って来て町を攻撃するとの警告に「カルデヤびとはきっとわれわれを離れ去る」と自ら「自分を欺く」。都合の悪いことには目を閉ざして見ないのは、「自分を欺く」のである。間もなく、その実を刈り取ることになる。(ガラテヤ6:7)
(心のデボーション3386)
心のデボーション3387
「かかる人は水流のほとりにうゑし樹の期にいたりて實をむすび 葉もまた凋まざるごとく その作ところ皆さかえん」 詩篇1:3 明治元訳聖書
「このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。」 口語訳聖書
「ユズの大バカ」
「モモ、クリ三年、カキ八年、ユズの大バカ十八年」。大バカよばわりされて、ユズは気の毒だが、時がくれば実を結ぶのである。「実を結ぶ時」は一律ではない。クリのように律儀なのがあれば、ユズのように忘れた頃になってやっと実をつけるのもいる。十八年も経って、やっとつけた実がたいして役にたたないユズでも、どこかうれしい。神の園には色々の木がある。
(心のデボーション3387)
心のデボーション3388
「また傷める蘆ををることなくほのくらき燈火をけすことなく 眞理をもて道をしめさん 」 イザヤ42:3 明治元訳聖書
「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。」 口語訳聖書
「傷ついた葦」
「傷ついた葦」はもはや役に立たず、燃やすしかない。「ほのぐらき燈心」は再び燃えることはない。しかし、神は「傷ついた葦」を折りすて給わず、「ほの暗き燈心」を消したまわ、それをもって「道を示し」給う。
(心のデボーション3388)
心のデボーション3389
「幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり」 マタイ5:10 大正文語訳聖書
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」 口語訳聖書
「義のために責められる」
初代教会において、「義のために責められる者οἱ δεδιωγμένοι ἕνεκεν δικαιοσύνης」は、そのまま迫害、殉教を意味した。人々はそれがいのちをかける信仰であれば、信じるに価するものであることを真剣に求めた。それによって彼らは信仰に出会った。
江戸時代、キリシタン禁止令により、日本の各地でキリシタン改めが行われ、多くのキリシタンが処刑され、その資料が残されている。岩手県一関市にある大籠(おおかご)キリシタン殉教公園はその一つである。仙台藩のたたら製鉄をおこなう「炯屋(どうや)」を仕切っていた千葉土佐が、製鉄技術をもつ備中国の千松大八郎・小八郎兄弟を招いた。千松大八郎・小八郎兄弟がキリシタンで、この地に布教し、多くのキリシタンが生まれた。しかし、キリシタン改めにより、300人以上が打ち首、磔などにより処刑された。カトリックでは、死後その徳と聖性を認められた信者を「福者(ふくしゃBeatus)」という称号を与え、それを「列福」という。さらに「列聖」の調査があり「聖者」の称号が与えられることもある。(正教には「列福」「列聖」の区別がない)
(心のデボーション3389)
心のデボーション3390
「惡をもて惡に、謗をもて謗に報ゆることなく、反つて之を祝福せよ。汝らの召されたるは祝福を嗣がん爲なればなり。」 Ⅰペテロ3:9 大正文語訳聖書
「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」 口語訳聖書
「賛美と祝福の相続者」
「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」。「祝福を受け継ぐ者εὐλογίαν κληρονομήσητε(賛美と祝福の相続者)」。(Ⅰペテロ3:9)ただひたすらに祝福する者であれ。
(心のデボーション3390)
コメント