心のデボーション2_003

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心のデボーション0021

「また言ひ給ふ『この故に、天國のことを教へられたる凡ての學者は、新しき物と舊き物とをその倉より出す家主のごとし』」 マタイ13:52 大正文語訳聖書

「そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」 口語訳聖書

ὁ δὲ εἶπεν αὐτοῖς, διὰ τοῦτο πᾶς γραμματεὺς μαθητευθεὶς τῇ βασιλείᾳ τῶν οὐρανῶν ὅμοιός ἐστιν ἀνθρώπῳ οἰκοδεσπότῃ ὅστις ἐκβάλλει ἐκ τοῦ θησαυροῦ αὐτοῦ καινὰ καὶ παλαιά.マタイ13:52

 「自分の倉」

人は皆「自分の倉θησαυρός(貯蔵庫、金庫、宝庫)」をもっている。そこには大量の古い記憶が保管されている。問題はその量ではなく、いかにして、それを倉から取り出して、仕事をさせるかにある。今を新しくするのは、倉に仕舞われた「古いもの」である。古いものはそのままでは役に立たない。取り出す度に新しいものに変容するものこそ、倉に置くにふさわしい。

「古いものπαλαιός」は「使い古した、古びた、昔のもの」の意味である。「新しいものκαινός」は「新しい、使い古していない、今までになかった、新しく創られた、前代未聞のもの」を意味する。自分という「倉」では、「倉」自身が「今までになかった、新しく創られた、前代未聞のもの」を生み出し、蓄えている。

問題は、如何に取りだすかである。

「〔内的な〕倉θησαυρός」に収まるのは「神の国」のこと、すなわち「いのちのことば」すなわち「生ける神のことば」である。(ピリピ2:16)それは倉に退蔵すれば、たちまちに輝きを失う。神の御言葉は、常に「古きもの」と「新しきもの」を、取り出すことのできる倉に蓄えなければならない。

心のデボーション0022

「ヱホバ、ユダとヱルサレムの人々にかくいひ給ふ汝等の新田を耕せ荊棘の中に種くなかれ。」 エレミヤ4:3 明治元訳聖書

「主はユダの人々とエルサレムに住む人々にこう言われる、「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。」 口語訳聖書

「自分たちで休閑地を耕せ。茨の中に種を蒔くな」 フランシスコ会訳聖書

כִּי־כֹ֣ה׀ אָמַ֣ר יְהוָֹ֗ה לְאִ֤ישׁ יְהוּדָה֙ וְלִיר֣וּשָׁלִַ֔ם נִ֥ירוּ לָכֶ֖ם נִ֑יר וְאַֽל־תִּזְרְע֖וּ אֶל־קוֹצִֽים׃

ὅτι τάδε λέγει κύριος τοῖς ἀνδράσιν Ιουδα καὶ τοῖς κατοικοῦσιν Ιερουσαλημ νεώσατε ἑαυτοῖς νεώματα καὶ μὴ σπείρητε ἐπ᾽ ἀκάνθαιςLXXエレミヤ4:3

 「新田を耕せ」

新田は荊棘(いばら)のしげる、石くれの混じる荒地である。荊棘(いばら)は手を傷つけ、石は鍬を拒む。だが、「私の新田」を耕そう。手に血を流すとも、棘を抜き、石を除き、種を蒔こう。「私の新田」は、冷たく痩せた貧しい地、石は除けてもいくらでも生み出す、棘は抜いても次の芽を出す。種を蒔いても出た芽は乾いた風に枯れる。それでも、私は「私の新田」を耕す。荒れた地よ、お前はわたしの新田、神のゆずりの地。岩も砕けば土になろう。荊棘(いばら)も埋めれば堆肥になろう。神は私に「汝らの新田を耕せ」と命じられ、「貧しき者の新田にはおほくの糧あり」(箴言13:23 明治元訳聖書)と約束される。

種は「道端」や「石地」や「棘の中」に蒔くべきではない。耕された良き地に蒔くべきである。(マタイ13:3-9)畑は魂、種は主の言葉である。まず、未だ種の蒔かれたことのない魂(新田)に種まきの準備をする。魂から固い石や木の根を取り除き、柔らかく柔軟な魂に整えよ。「見る目」、「聞く耳」がなければ、神のことばは、魂にとどまり、根を張ることができずに枯れてしまう。(マタイ13:14-23) 良き地とは「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(マタイ13:23)

「新田を耕せεώσατε ἑαυτοῖς νεώματα」は「あなたの新田νεώμα(耕作地)を開拓(開墾)せよ」の意。未開の地を耕し、種を蒔け。「百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍」の実を結ぼう。

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取るὡσεὶ βέλη ἐν χειρὶ δυνατοῦ οὕτως οἱ υἱοὶ τῶν ἐκτετιναγμένωνLXX」詩篇126:5 口語訳聖書

心のデボーション0023

「言語(ことば)を出して時に適うはいかに善(よ)からずや」 箴言15:23 明治元訳聖書

「人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ」 口語訳聖書

שִׂמְחָ֣ה לָ֭אִישׁ בְּמַעֲנֵה־פִ֑יו וְדָבָ֖ר בְּעִתֹּ֣ו מַה־טֹּֽוב

οὐ μὴ ὑπακούσῃ ὁ κακὸς αὐτῇ οὐδὲ μὴ εἴπῃ καίριόν τι καὶ καλὸν τῷ κοινῷ LXX箴言15:23

「時を失したる戒めあり。沈黙を守りて賢き人あり Ἔστιν ἔλεγχος ὃς οὐκ ἔστιν ὡραῖος, καὶ ἔστιν σιωπῶν καὶ αὐτὸς φρόνιμος. LXX」 ベンーシラの知恵20:1 日本聖公会訳

 「時に適う言葉」

「時に適う言葉εἴπῃ καίριόν」は善い。時を失した言葉ほどむなしいものはない。むしろ、沈黙すべきなのだ。しかし、いつもいらぬことを口にしてしまう。何がその時に「適う言葉」かは、ほとんどわからないからだ。だから沈黙だけはしないと心に決めている。

「時に適う言葉は善い」ということは、「時宜にかなわない言葉」というものもあるということである。「言葉」としては正しい、しかし、「時宜」を外すと美しくないことがある。しかし、「時宜にかなう」ことばかりを気にしている言葉というものも虚しく感じることがある。時には、時期を失してはいるが、言わなければならない言葉もある。その場合でも、「いつそれを言うか」は考えなければなるまい。伝道者が語るように、「すべての営みには時がある」(伝道3:1新改訳聖書)、

「時」を見抜くことが難しいように、いつも「美しい言葉」を口にするのは難しい。「正しく答える人には喜びがある。」(箴言15:23新共同訳聖書)

「正しいくちびるは王に喜ばれる、彼は正しい事を言う者を愛する。δεκτὰ βασιλεῖ χείλη δίκαια λόγους δὲ ὀρθοὺς ἀγαπᾷ LXX」 箴言16:13 口語訳聖書)

「人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。ἀπὸ καρπῶν στόματος ψυχὴ ἀνδρὸς πλησθήσεται ἀγαθῶν ἀνταπόδομα δὲ χειλέων αὐτοῦ δοθήσεται αὐτῷ LXX」 箴言12:14  口語訳聖書

心のデボーション0024

「キリストの系圖(けいず)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリスト<メシヤ、油そそがれたかた>の家系の書<系図>」 詳訳聖書

Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ ᾽Αβραάμ マタイ1:1

 「いのちの鎖」

マタイの福音書の冒頭で、アブラハムからイエスまで、我々は沢山の人の名を読むことになる。その名の数だけの固有ないのちがある。さまざまないのちは繋がれて1本の鎖となる。人間は多様である。しかし、その一つも「失われてよい」いのちはない。「私」の内には、人間によって生きられたいのちが全体として宿っている。そこから「私」への歩みが始まる。

「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい。καλὸν τὸ ἅλας· ἐὰν δὲ τὸ ἅλας ἄναλον γένηται, ἐν τίνι αὐτὸ ἀρτύσετε; ἔχετε ἐν ἑαυτοῖς ἅλα, καὶ εἰρηνεύετε ἐν ἀλλήλοις.」 マルコ9:50 口語訳聖書

「あなたがた自身の内に塩を持ちなさいἔχετε ἐν ἑαυτοῖς ἅλα」。「塩ἅλας」は腐敗を防ぎ、食物のよき調味料である。人と良き交わりを持つには、「自身の内に塩を持ち」、関係を清くたもち、良き味をもたらすことが求められる。外なる人々と生きるには、内なる人と「互に和らぐ」ことである。内なる対立が人々との対立を招くのである。和解のためにイエスは来られた。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり」 エペソ2:14~15 新改訳聖書

心のデボーション0025

「心の苦みは心みづから知る其よろこびには他人あづからず」 箴言14:10 明治元訳聖書

「心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。」 口語訳聖書

לֵ֗ב יֹ֭ודֵעַ מָרַּ֣ת נַפְשֹׁ֑ו וּ֝בְשִׂמְחָתֹ֗ו לֹא־יִתְעָ֥רַב זָֽר

καρδία ἀνδρὸς αἰσθητική λυπηρὰ ψυχὴ αὐτοῦ ὅταν δὲ εὐφραίνηται οὐκ ἐπιμείγνυται ὕβρειLXX箴言14:10 

 「苦しみの素顔」

ヨブは苦しみの中で、「全能者の矢が、わたしのうちにあり、/わたしの霊はその毒を飲み、/神の恐るべき軍勢が、わたしを襲い攻めている。βέλη γὰρ κυρίου ἐν τῷ σώματί μού ἐστιν ὧν ὁ θυμὸς αὐτῶν ἐκπίνει μου τὸ αἷμα ὅταν ἄρξωμαι λαλεῖν κεντοῦσί μεLXX」(ヨブ6:4 口語訳聖書)と言う。そのような苦しみは、しばしば姿を変えるので、めったに素顔を晒すようなことはしない。しかし、今や他人にはあらわさない苦しみがその素顔を伝えることがある。本性をあらわさない苦しみがその姿を伝えてきたのである。己に来るものを余すところなく知ることが心(魂)の求めるところだからである。

「心の苦しみは心みずからが知るκαρδία ἀνδρὸς αἰσθητική λυπηρὰ ψυχὴ αὐτοῦ」。心(καρδια)は、その魂(ψυχη)の苦しみ、悲しみ(λυπηρος)を知覚している。

苦しみは人には(自身にも)わからない。そして喜びもまた人にはわからない。ただ、心(ψυχη魂)が苦しみの本性を知っている。それが心の喜びでもあるのだ。

「心に喜樂あれば顔色よろこばし 心に憂苦あれば氣ふさぐκαρδίας εὐφραινομένης πρόσωπον θάλλει ἐν δὲ λύπαις οὔσης σκυθρωπάζει」 箴言15:13 明治元訳聖書

「人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。θυμὸν ἀνδρὸς πραΰνει θεράπων φρόνιμος ὀλιγόψυχον δὲ ἄνδρα τίς ὑποίσει LXX」 箴言18:14  口語訳聖書

「全能者の矢が、わたしのうちにあり、/わたしの霊はその毒を飲み、/神の恐るべき軍勢が、わたしを襲い攻めている。βέλη γὰρ κυρίου ἐν τῷ σώματί μού ἐστιν ὧν ὁ θυμὸς αὐτῶν ἐκπίνει μου τὸ αἷμα ὅταν ἄρξωμαι λαλεῖν κεντοῦσί μεLXX」 ヨブ6:4 口語訳聖書

自分の苦しみを確かに知ることができたなら、頭に油を塗り、顔色をよくしよう。真の喜びを知ったのだ。私の心が自分の苦しみを理解せず、ひたすら耳を塞ごうとする、そのことが何よりもつらく苦しい。

心のデボーション0026

「神の櫃のことを演しときエリ其壇より仰けに門の傍におち頸をれて死ねり是はかれ老て身重かりければなり其イスラエルを鞫しは四十年なりき」 Ⅰサムエル4:18 明治元訳聖書

「彼が神の箱のことを言ったとき、エリはその座から、あおむけに門のかたわらに落ち、首を折って死んだ。老いて身が重かったからである。彼のイスラエルをさばいたのは四十年であった。καὶ ἐγένετο ὡς ἐμνήσθη τῆς κιβωτοῦ τοῦ θεοῦ καὶ ἔπεσεν ἀπὸ τοῦ δίφρου ὀπισθίως ἐχόμενος τῆς πύλης καὶ συνετρίβη ὁ νῶτος αὐτοῦ καὶ ἀπέθανεν ὅτι πρεσβύτης ὁ ἄνθρωπος καὶ βαρύς καὶ αὐτὸς ἔκρινεν τὸν Ισραηλ εἴκοσι ἔτη LXX」 口語訳聖書 

 「年に先立ちて老いる」

老いた人に「あなたは何ゆえに思い煩うのか」と尋ねよ。「思い煩いなき娘、息子のゆえに」(イザヤ32:9)と答えるだろう。この思い煩いが「年に先立ちて人を老いしむ」のだ。

祭司エリは城門の上からあおむけに落ちて、首を折って死んだ。それは「老いてからだが重たかったから」と説明されているが、ただ「太っていた」だけではあるまい。(Ⅰサムエル4:18) 祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスは、「よこしまで神を知らず」、神殿に三叉の肉刺しをもって神殿に入り、礼拝者のささげるまだ焼かれていない肉を生のままで持ち帰る「愚かな息子」だった。そのためイスラエルは神の祝福を失い、ペリシテ軍に敗北し、契約の箱も奪われ、祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスはペリシテ軍に殺された。ペリシテ軍に契約の箱を奪われ、二人の愚かな息子も死んだと知って、祭司エリは門から落ちて死んだのである。(Ⅰサムエル2~4章) 痩せていても年寄りの身体は重い。

「老いて身が重かったπρεσβύτης ὁ ἄνθρωπος καὶ βαρύς」。(Ⅰサムエル4:18)「身が重いβαρύς」は「重い、耐え難い、重苦しい、難儀な」の意。老人はみな「身が重くβαρύς(重い、耐え難い、重苦しい、難儀な)」なる。

「思いわずらいは、年に先立ちて人を老いしむ ζῆλος καὶ θυμὸς ἐλαττοῦσιν ἡμέρας, καὶ πρὸ καιροῦ γῆρας ἄγει μέριμνα.LXX」ベン=シラの知恵30:24 日本聖公会訳

心のデボーション0027

「なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。」 マタイ6:19 大正文語訳聖書

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

「汝等のために蠹(しみ)と錆(さび)との損ふところ、また盗人の穿ちて盗む處なる地に、財を蓄うる勿れ」 永井直治訳聖書

Μὴ θησαυρίζετε ὑμῖν θησαυροὺς ἐπὶ τῆς γῆς, ὅπου σὴς καὶ βρῶσις ἀφανίζει καὶ ὅπου κλέπται διορύσσουσιν καὶ κλέπτουσιν マタイ6:19

 「盗人の穿ちて盗む」

ユダヤの家は土でかためられており、「盗人」は夜の闇にまぎれて家に穴をあけて押し入った。モンテーニュは「錠前は泥棒を誘う。押し入り強盗は戸の開いた家の前を素通りする」(ゴマラ「インド通史」3-30からの引用)という。(モンテーニュ『エセ―』)盗まれまいとして壁を厚くするのもよいが、あえて戸に鍵をしないという裏ワザもあるかもしれない。盗まれまいとして高い塀で囲うよりも、跨げるほどの低い生垣にしたりするのも同じ知恵である。盗人に狙われる程の「お宝」を貯めこまないことだ。しかし、盗人が常に倉のお宝を狙うとは限らない。高級な盗人は「天に蓄えられるお宝」をこそ狙う。盗まれ人が天に行ってはじめて蓄えたはずのものが何もないことに気づいて、はじめて、盗人の巧妙な計画を知ることになる。

「春雨のもるにまかせてすむ庵は壁うがたるるおそれげもなし」 橘曙覧

† 心のデボーション0028

「なんぢら既に飽き、既に富めり、我らを差措きて王となれり。われ實に汝らが王たらんことを願ふ、われらも共に王たることを得んが爲なり。」 Ⅰコリント4:8 大正文語訳聖書

「あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。」 口語訳聖書

ἤδη κεκορεσμένοι ἐστέ· ἤδη ἐπλουτήσατε· χωρὶς ἡμῶν ἐβασιλεύσατε· καὶ ὄφελόν γε ἐβασιλεύσατε, ἵνα καὶ ἡμεῖς ὑμῖν συμβασιλεύσωμεν.Ⅰコリント4:8

 「既に飽き」

「あなたがたは、もう満ち足りていますἤδη κεκορεσμένοι ἐστέ」(Ⅰコリント4:8口語訳聖書)満ち足りて豊かというのではない。あたかも飽きた者のごとく、富める者のごとくであるというのだ。人は器が小さければわずかで満ちると思うかもしれない。ささやかに「満ち足りる」と考えてもみる。だが、小さいなりにも、その心には富者の「既に飽きたり」という奢りはある。器の容積の問題ではない。

「満ち足りるκορέννυμι」は「腹いっぱい食べる」の意味で、これ以上食べられないほどに満足していることを現わす。「渇くδιψάω」の反対である。「満ち足りる」ことが問題なのではない。何を以て満たされているかが問題である。すなわち「何に渇くか」が問われる。「魂ψυχή」は「渇き」によって満たされる。「渇き」を忘れるような満足は祝福としての「満たし」ではない。

キリストにある人は「キリストにあって、それ〔キリスト〕に満たされ(πληρόω)」(コロサイ2:10)、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(エペソ4:13)

心のデボーション0029

「ヨブ土瓦(やきもの)の碎片(くだけ)を取り其をもて身を掻き灰の中に座りぬ」 ヨブ2:8 明治元訳聖書

「ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。」 口語訳聖書

‏וַיִּֽקַּֽח־ל֣וֹ חֶ֔רֶשׂ לְהִתְגָּרֵ֖ד בּ֑וֹ וְה֖וּא יֹשֵׁ֥ב בְּתוֹךְ־הָאֵֽפֶר׃

καὶ ἔλαβεν ὄστρακον ἵνα τὸν ἰχῶρα ξύῃ καὶ ἐκάθητο ἐπὶ τῆς κοπρίας ἔξω τῆς πόλεως LXX2:8

 「灰の山」

エルサレムの城門の外にヒンノムの谷(ヘブライ語ゲーヒンノーム(גי(א)-הינום)があり、そのギリシャ語からゲヘナ(英語 Gehenna「地獄」)と呼ばれた。ごみの焼却場で、火が燃え続け、処刑された罪人の身体や、家畜の死骸が焼か、悪臭が漂い、それらが堆積して「灰の山」になった。

ヨブは人々から離れ、一人ゲヘナの「灰の山」に座り、頭から灰をかぶり、土瓦(やきもの)の碎片(くだけ)で身を掻いた。(ヨブ2:8)心のどこかに「灰の山」をもたぬ人はいない。悲しみの涙を流す嘆きの場である。

アブラハムは神に対して「私はちりや灰にすぎません」と告白している。「アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。」(創世18:27口語訳聖書) 「灰」は無価値なものの象徴であった。「悔改め」は、自らを全く無価値な者とすることである。

「灰を被る、灰の中に座る」は悔い改めのしるしとされた。(エステル4:1 ダニエル9:3  マタイ11:3) ダビデの子アブシャロムの娘タマルは父の弟アムノンに辱めを受け、「灰を頭にかぶり、着ていた長そでの着物を裂き、手を頭にのせて、叫びながら去って行った」。(Ⅱサムエル13:19) 

「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」イザヤ58:8  新改訳聖書

心のデボーション0030

「愛を追求むる者は人の過失をおほふ 人の事を言ひふるる者は朋友をあひ離れしむ」 箴言17:9 明治元訳聖書

「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」 口語訳聖書

מְֽכַסֶּה־פֶּ֭שַׁע מְבַקֵּ֣שׁ אַהֲבָ֑ה וְשֹׁנֶ֥ה בְ֝דָבָ֗ר מַפְרִ֥יד אַלּֽוּף׃

ὃς κρύπτει ἀδικήματα ζητεῖ φιλίαν ὃς δὲ μισεῖ κρύπτειν διίστησιν φίλους καὶ οἰκείους LXX17:9

 「愛は過ちをおおう」

愛は人の過ちをおおう。人の目からだけでなく、自分の目からも隠す。愛が求めるのは「人の過失」ではなく「ゆるし」である。

神が天地を創造されたとき、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記1:2口語訳聖書)。「覆うרחף」は母鳥が雛を抱えるように「抱きしめる」の意味である。創造の始めに混沌とした地を神の霊が母鳥の翼のように「覆って」いた。愛は「罪」を「抱きしめ」、いのちを生み出す。「過ちをおおう(רחף)」は罪を不問に付すことではない。母鳥の抱える卵に新しいいのちが誕生するように、神は罪を「覆われ」、やがて新しいいのちが誕生するのである。愛は「過ち」を覆い、新しいいのちを孵化せしめる。

「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。ἀγαπητοί, ἀγαπῶμεν ἀλλήλους, ὅτι ἡ ἀγάπη ἐκ τοῦ θεοῦ ἐστιν, καὶ πᾶς ὁ ἀγαπῶν ἐκ τοῦ θεοῦ γεγέννηται καὶ γινώσκει τὸν θεόν.」 Ⅰヨハネ4:7 口語訳聖書 

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