心のデボーション336

デボーション1
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心のデボーション3351

「神の子イエス、キリストの福音の始」 マルコ1:1 大正文語訳聖書

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 口語訳聖書

 「はじまりの告知」

これは「神の子イエス・キリストの福音の始め᾽Αρχὴ τοῦ εὐαγγελίου ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ[υἱοῦ θεοῦ]」である。我らは「私の福音の始めεὐαγγέλιον」として読むのである。イエスによって始まる「私」を読みたい。「福音」は私に訪れた「はじまり」の「はじめ」である。(マルコ1:1)

(心のデボーション3351)

心のデボーション3352

「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世1:3  明治元訳聖書

「神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」 口語訳聖書

 「ほのかな明るさ」

目の不自由な人の話では「自分の心のイメージで目の前が明るくなり、暗くもなる」という。光は見えなくても、見える人が目を閉じたときの闇ではなく、それとは別の「ほのかな明るさ」が感じられるというのである。神は創造の第一日に「光よ、あれ」と仰せられた。目の不自由な人は、その「光」を見ているのかもしれない。目を閉じて「ほのかな明るさ」を感じてみたい。

(心のデボーション3352)

心のデボーション3353

「天よきけ地よ耳をかたぶけよ ヱホバの語りたまふ言あり 曰く われ子をやしなひ育てしにかれらは我にそむけり」 イザヤ1:2  明治元訳聖書

「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。」 口語訳聖書

 「背く者」

神は人を「我が子」として養い育てた。しかし、「彼らはわたし〔神、主〕にそむいた。δέ με ἠθέτησαν」(イザヤ1:2口語訳聖書)「背くἀθετέω」は「無効にする、廃止する、軽んじる」の意。神は人を「神のかたち」に創造され(創世記1:27)、人間として養い育てられた。しかし、人は神を「無効にし、廃止し、軽んじた」。それによって人は自己を「無効にし、廃止し、軽んじる」。(イザヤ1:2)

(心のデボーション3353)

心のデボーション3354

「かれらは劍のごとくおのが舌をとぎ その弓をはり矢をつがへるごとく苦言をはなち」 詩篇64:3  明治元訳聖書

「彼らはその舌をつるぎのようにとぎ、苦い言葉を矢のように放ち、」 口語訳聖書

 「舌の矢」

「舌」はときに「鋭く研がれた矢」である。射られた者のいのちをも奪う。多くの場合、人は自分の「舌」が人を殺める武器となったことすら知らない。

(心のデボーション3354)

心のデボーション3355

「温柔き舌は生命の樹なり 悖れる舌は霊魂を傷ましむ」 箴言15:4  明治元訳聖書

「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。」 口語訳聖書

 「優しい舌」

「優しい舌ἴασις γλώσσηςLXX」は「穏やかな舌」(新改訳聖書)、「癒しをもたらす舌」(新共同訳聖書)、「慰めの言葉」(フランシスコ改訳聖書)である。「優しいἳᾶσις」は「治療、治癒」の意である。「乱暴な言葉(ねじれた言葉)」は魂を傷つけるが、「優しいἳᾶσις」は傷ついた魂を癒す「いのちの木」である。

(心のデボーション3355)

心のデボーション3356

「我らの中に成りし事の物語につき、始よりの目撃者にして、」 ルカ1:1  大正文語訳聖書

「わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、」 口語訳聖書

 「福音」

「わたしたちの間に成就された出来事 τῶν πεπληροφορημένων ἐν ἡμῖν πραγμάτων」。「成就する πληροφορέω」は「満たす、完結する」であり、その受動態は「完全に確信する、確信に満ちる」の意である。漢訳聖書(新約全書美華書店1863年)は本節を「以我儕中篤信之事」とし、明治元訳聖書は「我儕の中に篤く信ぜられたる事」と訳す。「篤」は「心に固く定める、動揺しない」の意である。福音は「わたしたちの間」で「完全に実現し、完結し、成就」し、なおかつ「私たちの間」で「完全に確信され(固く定まり)、確信に満ちた、内に成りし」ものとなって、はじめて「福音」である。(ルカ1:1)

(心のデボーション3356)

心のデボーション3357

「われ河をかぶろの山にひらき泉を谷のなかにいだし また荒野を池となし乾ける地を水の源と變ん」 イザヤ41:28  明治元訳聖書

「わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、荒野を池となし、かわいた地を水の源とする。」 口語訳聖書

 「水の源」

ここには、まず、砂漠の渇きがある。舌は渇いて、ことばを失う。その時は、自分という存在を掘り下げてみる。状況はそのままに、ただ、ひたすらに静まる。渇きが「水の源」をさぐる。やがて、かすかな水音と共に「わたしはあなたを見捨てない」という神のみ声を聞く。全くつながらないと思えた状況が崩れ、変化がはじまる。砂漠の地が割れ「水の源」が開かれたのである。

(心のデボーション3357)

心のデボーション3358

「殊更に謙遜をよそほひ御使を拜する者に、汝らの褒美を奪はるな。かかる者は見し所のものに基き、肉の念に隨ひて徒らに誇り、」 コロサイ2:18  大正文語訳聖書

「あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、」 口語訳聖書

 「わざとらしい謙遜」

「わざとらしい謙遜ταπεινοφροσύνη」は「ことさらな自己卑下、卑しいへりくだり」の意で、「謙遜を装う高慢」である。(コロサイ2:18) 「偽りの謙遜」はすべて人の肉の思いから発生する。(コロサイ2:18)

(心のデボーション3358)

心のデボーション3359

「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」 新改訳聖書

 「平和を実現する人々」

「平和を実現する人々εἰρηνοποιός」。英語の聖書ではpeacemakerとなっている場合が多い。アメリカの銃器メーカーコルト社が1873年に発売した6連発銃コルト・シングルアクション・アーミー(Colt Single Action Army)は通称peacemakerと呼ばれた。拳銃によって実現する平和。なんという皮肉、皮肉を越えた言葉の暴力か。平和という言葉に対する冒涜である。この拳銃が「西部開拓」という名のもとに多くの先住民を苦しめる武器であったことはいうまでもない。「開拓者」にとっての平和は、被征服者にとっての殺戮だった。狩猟に使うライフルではなく、人に向けるために作られた拳銃にpeacemaker「平和を実現するもの」と名づける恐ろしさを感じとることのできない人はいないと私は信じている。

聖書の「平和を実現する人々εἰρηνοποιός」は「εἰρήνη平和+ποιέω造る」からなり、平和のないところに「平和を来らせる、平和を創造する人、平和を生ぜしめる平和をうち立てる者」の意である。(マタイ5:9)

(心のデボーション3359)

心のデボーション3360

「また自己を證し給はざりし事なし。即ち善き事をなし、天より雨を賜ひ、豐穰の時をあたへ、食物と勸喜とをもて汝らの心を滿ち足らはせ給ひしなり』」 使徒14:17  大正文語訳聖書

「それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。」 口語訳聖書

 「主の用意される食卓」

神は「天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜び」をもって「あなたがたの心を満たし」てくださる。神は「食物と喜びἐμπιπλῶν τροφῆς(食物と楽しみ)」で「あなたがたの心を満たしεὐφροσύνης τὰς καρδίας ὑμῶν(あなた方の心を快活、陽気、上機嫌に)」する。主の用意される食卓には「喜びと感謝」のあかしがある。(使徒14:17)

(心のデボーション3360)

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