心のデボーション2_002

デボーション2
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心のデボーション0011

「汝の少(わか)き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先  また日や光明や月や星の暗くならざる先 雨の後に雲の返らざる中に汝然せよ」 伝道12:1-2 明治元訳聖書

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」 新改訳聖書

1וּזְכֹר֙ אֶת־בֹּ֣ורְאֶ֔יךָ בִּימֵ֖י בְּחוּרֹתֶ֑יךָ עַ֣ד אֲשֶׁ֤ר לֹא־יָבֹ֨אוּ֙ יְמֵ֣י הָֽרָעָ֔ה וְהִגִּ֣יעוּ שָׁנִ֔ים אֲשֶׁ֣ר תֹּאמַ֔ר אֵֽין־לִ֥י בָהֶ֖ם חֵֽפֶץ׃

2עַ֠ד אֲשֶׁ֨ר לֹֽא־תֶחְשַׁ֤ךְ הַשֶּׁ֨מֶשׁ֙ וְהָאֹ֔ור וְהַיָּרֵ֖חַ וְהַכֹּוכָבִ֑ים וְשָׁ֥בוּ הֶעָבִ֖ים אַחַ֥ר הַגָּֽשֶׁם׃

1 καὶ μνήσθητι τοῦ κτίσαντός σε ἐν ἡμέραις νεότητός σου ἕως ὅτου μὴ ἔλθωσιν ἡμέραι τῆς κακίας καὶ φθάσωσιν ἔτη ἐν οἷς ἐρεῖς οὐκ ἔστιν μοι ἐν αὐτοῖς θέλημα 

2 ἕως οὗ μὴ σκοτισθῇ ὁ ἥλιος καὶ τὸ φῶς καὶ ἡ σελήνη καὶ οἱ ἀστέρες καὶ ἐπιστρέψωσιν τὰ νέφη ὀπίσω τοῦ ὑετοῦ 

LXX伝道12:1-2

「若き日になんじ何ものをも集めざりき。いかで老いたるときにこれを見だし得んや Ἐν νεότητι οὐ συναγείοχας, καὶ πῶς ἂν εὕροις ἐν τῷ γήρᾳ σου;LXX」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵25:3 日本聖公会訳

 「集め損ねたもの」

「若き日になんじ何ものをも集めざりき。いかで老いたるときにこれを見だし得んや」とベン=シラの知恵は語る。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵25:3 日本聖公会訳聖書) 

「若き日」は多くのものを「集めることのできる」に「出会いの日々」である。良き師、良き友、良き仕事など、人生の基礎を築く重要な出会いが果たされるといっても過言ではない。伝道12:1は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と伝える。若き日の信仰の出会いは、人生の祝福の土台である。

しかし、その祝福に気づくのは、多くの場合、「若き日」を通過した後である。「若き日に(われ)何ものをも集めざりき!」と嘆かないですむ人は稀であろう。私も若き日に集めることをしなかった。

だが、「集めるもの」は「若き日」にのみ限られるものでもない。老いた日に集まり来るものもある。そうであれば、若き日に集めるべきと思うものと、老いた日になって若き日に集め損ねたと思うものは別物かもしれないではないか。

私は若き日の未熟な日々を悔いない。その日でさえも知らずして集めることをしていたのだ。それを導かれたのは神である。私の集めた若き日の悩みを尊いと思える老いた日のあることを喜びたい。 

若き日に「集め損ねた」ものを悔いるまい。若き日の「未熟な日々」を創られたのも神である。その未熟により人は成熟する。「若き日の未熟さ」にも、創造主を「心に刻む」者は「幸い」である。

「汝の若き日ἐν ἡμέραις νεότητός σου」に、「若さνεότητός」を「軽く見るκαταφρονείτω(侮辱する、意に介していない)」ことも、見られることがあってはいけない。「若き日」の純潔と信仰を守れ。(Ⅰテモテ4:12)

ベン=シラの知恵は「老いたる人の智慧と、崇めらるる人の思想と計畫とはいかに美しきかな。深き經驗は老いたる人の冠なり。彼等の光榮は主を畏るることなり」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵25:5,6 日本聖公会訳聖書)と続く。「若き日に集めそこねたもの」とは「主(創造者、造り主)を畏れる深き経験」である。

「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」 詩篇103:14 口語訳聖書

神は「私のつくられたさま」をことごとく知り、それをかけがえのないものとして愛される。

心のデボーション0012

「アダム其妻エバを知る彼孕みてカインを生みて言けるは我ヱホバによりて一個の人を得たりと」 創世記4:1 明治元訳聖書

「わたしは主によって、ひとりの人を得た」 口語訳聖書

וְהָ֣אָדָ֔ם יָדַ֖ע אֶת־חַוָּ֣ה אִשְׁתֹּ֑ו וַתַּ֨הַר֙ וַתֵּ֣לֶד אֶת־קַ֔יִן וַתֹּ֕אמֶר קָנִ֥יתִי אִ֖ישׁ אֶת־יְהוָֽה׃

Αδαμ δὲ ἔγνω Ευαν τὴν γυναῖκα αὐτοῦ καὶ συλλαβοῦσα ἔτεκεν τὸν Καιν καὶ εἶπεν ἐκτησάμην ἄνθρωπον διὰ τοῦ θεοῦ LXX創世記4:1

 「一個(ひとり)の人」

カインが誕生したとき、アダムは「我エホバによりて一個(ひとり)の人(ἄνθρωπος人間)を得たり(κτάομαι獲得した、手に入れた)」と言った。(創世記4:1)アダムにとって子の誕生は「一個の人(人間)」を得ることであった。地平のかなたから出現する旅人のように、礼をもって子どもを「一個の人ἄνθρωπος」として迎えたのである。子どもは未熟な大人ではない。「子どもという一個の人間」である。

人が「子どもという一個の人間」を生きる期間は短い。しかし、その期間をいかに生きるかに、その後の人間としての人生がかかっている。この期間に「自己」が意識され、自己とは別の「他者」が認識される。そこに「自己と他者との有効な関係」が生じ、承認される。そして、人はその後の人生に経験するあらゆる事柄の中に、求めてやまないもの、すなわち「人間」というテーマを見いだすのである。

アダムは「わたしは主によって、ひとりの人を得た」と言う。「人間ἄνθρωπος」は「主によって(διὰ τοῦ θεοῦ主から、神を通して)人に来たもの(人に入ったもの)」に他ならない。

「人間とは何か」という問いは、すべての人を神に導く。神なしに人は「人間」であることの意味を見出すことはできない。神が人を「人間」として創造し、人を「アダム(人間)」と呼ばれたからである。この神の呼びかけを自己に受けて(聞いて)、人は自らを「一個の人間」と理解する(できる)のである。

人は自分の「子どもという一個の人間」の期間を直接認識できない。したがって「内なる子ども」が貧しい環境にあったと悲しむことは正しくない。すべての人の「子どもという一個の人間の時」は神と共にある。

「神人を創造りたまひし日に神に象りて之を造りたまひ 彼等を男女に造りたまへり彼等の創造られし日に神彼等を祝してかれらの名をアダム(人間)と名けたまへり」 創世記5:1∼2 明治元訳聖書

心のデボーション0013

「智慧と權能(ちから)は神に在り 智謀(ちぼう)と穎悟(さとり)も彼に屬す」 ヨブ12:13 明治元訳聖書

「知恵と力は神と共にあり、/深慮と悟りも彼のものである」 口語訳聖書

 ‏עִ֭מּוֹ חָכְמָ֣ה וּגְבוּרָ֑ה ל֝֗וֹ עֵצָ֥ה וּתְבוּנָֽה׃

παρ᾽ αὐτῷ σοφία καὶ δύναμις αὐτῷ βουλὴ καὶ σύνεσις LXXヨブ12:13

「賢からざる者は教えられじ。されど苦しみを増す賢さもありοὐ παιδευθήσεται ὃς οὐκ ἔστιν πανοῦργος, ἔστιν δὲ πανουργία πληθύνουσα πικρίαν. LXX」 ベン=シラの知恵21:12 日本聖公会訳

 「真実を知る」

「知恵と力σοφία καὶ δύναμιςLXX」は真実を知る力のことである。真実を知る力は神にあり、神から来る。(ヨブ12:13)真実を知ることは必ずしも良きことばかりではない。それを知ることによって「苦しみを増す」こともある。しかし、たとえ心が痛むことになっても、真実に蓋をすることはするまい。苦しみもまた「賢さ」の一部である。ただ、真実が自ら蓋をしているときには、力で無理やりこじ開けようとしてはいけない。そんなことをすれば「真実」が壊れてしまう。傷ついた真実は癒し難い。人はすべての意味を知ることはできない。現わされていない意味は神のものである。しかし、人に現わされたことは「永遠に」人のものである。

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」 申命記29:29 新改訳聖書

隠されたことを悲しむまい。むしろ、現わされたことを喜びたい。ヨブは突然の不幸に見舞われ、すてを失った。その意味を尋ねても答えはなかった。しかし、ヨブは「知恵と力は神と共にあり、/深慮と悟りも彼のものである」(ヨブ記12:13 口語訳聖書)と神を賛美する。「神と共にπαρ᾽ αὐτῷ」、「παρά」は「起源、出所」をあらわす。隠されたものは「神の内」に神を起源として隠されており、神の栄光をあらわす。

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。δόξα θεοῦ κρύπτει λόγον δόξα δὲ βασιλέως τιμᾷ πράγματαLXX」 箴言25:2 新改訳聖書

心のデボーション0014

「價たかき眞珠一つを見出さば、往きて有てる物をことごとく賣りて、之を買ふなり」 マタイ13:46 大正文語訳聖書

「高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」 口語訳聖書

εὑρὼν δὲ ἕνα πολύτιμον μαργαρίτην ἀπελθὼν πέπρακεν πάντα ὅσα εἶχεν καὶ ἠγόρασεν αὐτόν.

 「ときめき片づけの魔法」

2015年4月16日、米誌タイム(電子版)が毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表し、日本人から作家の村上春樹さんと片づけコンサルタントの近藤麻理恵さんの二人が選ばれた。近藤さんの「人生がときめく片づけの魔法」の英語版が米国で話題になっているという。近藤さんの「片づけの魔法」は、不必要なものを棄てるのではなく、「ときめき」を感じる物を残すやり方だ。物を持ちすぎた人が整理を真剣に考える時代に入った。「持てるものをことごとく捨てる」のが整理ではなく、「値高き真珠一つ」(マタイ13:46)を見出すことが真の整理になる。

しかし、持ち物の中で「ときめき」を感じるモノは、「値高き真珠一つἕνα πολύτιμον μαργαρίτην」(マタイ13:46)と同様に、めったなことで見出せるものでもない。なにしろ、真珠商人が真珠を求めて世界を歩き、見つけたら「持ち物すべてを売り払って」それを買うだけの探求と決断がなければならない、(マタイ13:45~46)ほどのモノなのである。

「ときめき」とは、「値高き真珠一つἕνα πολύτιμον μαργαρίτην」を発見した商人の「心の高ぶりτῆς χαρᾶς(湧き出る喜び、歓喜)」(マタイ13:44)であ。そのような「ときめき」はめったには出会わない。しかし、あきらめてはいけない。それは「こんなところ」と誰もが見捨てた海辺の浜で見つかる「一粒の真珠」かもしれないからである。

「求めよ(求め続けよ)、されば汝等に與へられん。索ねよ(索ね続けよ)、されば見出ださん。叩けよ(叩き続けよ)、されば汝等に開かれんζητεῖτε καὶ εὑρήσετε, κρούετε καὶ ἀνοιγήσεται ὑμῖν」マタイ7:7 永井直治訳聖書

心のデボーション0015

「地は芽をいだし畑はまけるものを生ずるがごとく 主ヱホバは義と譽とをもろもろの國のまへに生ぜしめ給ふべし」 イザヤ61:11 明治元訳聖書

「地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。」口語訳聖書

 ‏כִּ֤י כָאָ֙רֶץ֙ תּוֹצִ֣יא צִמְחָ֔הּ וּכְגַנָּ֖ה זֵרוּעֶ֣יהָ תַצְמִ֑יחַ כֵּ֣ן׀ אֲדֹנָ֣י יְהוִ֗ה יַצְמִ֤יחַ צְדָקָה֙ וּתְהִלָּ֔ה נֶ֖גֶד כָּל־הַגּוֹיִֽם׃

καὶ ὡς γῆν αὔξουσαν τὸ ἄνθος αὐτῆς καὶ ὡς κῆπος τὰ σπέρματα αὐτοῦ οὕτως ἀνατελεῖ κύριος δικαιοσύνην καὶ ἀγαλλίαμα ἐναντίον πάντων τῶν ἐθνῶν LXXイザヤ61:11

 「ジャガイモの芽」

ジャガイモは地を押し上げて芽を出す。その勢いはあたかも地を割るがごとくである。ある物理学者は溶岩の吹きだす海底のマグマの熱と海水の圧力に閉じ込められた岩石のなかに生きる微生物が「地球のいのち」として現代も上昇していると想像している。

預言者イザヤは「地が芽をいだし」、「畑がまけるものを生ずる」がごとくに、神は「義と譽とをもろもろの國のまへに生ぜしめ給ふ」と語る。(イザヤ61:11)

神の「義と誉δικαιοσύνην καὶ ἀγαλλίαμαLXX(神に嘉納される義と非常な喜び)」は、固い地を割って芽を出す植物のように、もろもろの国のかたい地面を押し割って芽生える。いかなる力も、これを押さえ込む(封じ込める)ことはできない。

ときに人の心は踏み固められた地のようにかたくなである。しかし、神はそのような心にも「義と誉」を生ぜしめ給う。驚くべきは、神は「もろもろの國のまへ」に「私」を「神の義と誉」として発芽せしめ給うという事実である。誰にそれを拒むことができようか? 小さな弱き芽よ、地の堅きにおののくな。神が生ぜしめ給う! 

「またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。」 詩篇65:11 口語訳聖書 

「あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。」新共同訳聖書

 ‏תְּלָמֶ֣יהָ רַ֭וֵּה נַחֵ֣ת גְּדוּדֶ֑יהָ בִּרְבִיבִ֥ים תְּ֝מֹגְגֶ֗נָּה צִמְחָ֥הּ תְּבָרֵֽךְ׃

εἰσήγαγες ἡμᾶς εἰς τὴν παγίδα ἔθου θλίψεις ἐπὶ τὸν νῶτον ἡμῶν LXX詩篇65:11

心のデボーション0016

「心の苦みは心みづから知る其よろこびには他人あづからず 」 箴言14:10 明治元訳聖書

「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない」 新改訳聖書

10לֵ֗ב יֹ֭ודֵעַ מָרַּ֣ת נַפְשֹׁ֑ו וּ֝בְשִׂמְחָתֹ֗ו לֹא־יִתְעָ֥רַב זָֽר׃

καρδία ἀνδρὸς αἰσθητική λυπηρὰ ψυχὴ αὐτοῦ ὅταν δὲ εὐφραίνηται οὐκ ἐπιμείγνυται ὕβρει LXX箴言14:10

「心の傷にあらずば、いかなる傷にてもよしὀφθαλμὸς πονηρὸς φθονερὸς ἐπ’ ἄρτῳ καὶ ἐλλιπὴς ἐπὶ τῆς τραπέζης αὐτοῦ. 」 ベン=シラの知恵25:13 日本聖公会訳

 「心の傷」

ベン=シラの知恵25:13は、心の傷にくらべれば身体の傷の痛みは耐えやすいという意味ではないと思う。身体の痛みは一旦それが始まれば、心は萎えて、心の痛みも忘れるのである。ただ、心の傷は癒され難いという点で、いつかは収まるかもしれない「身体の傷」の方が「よし」と言えるかもしれない。

人はだれでもみな心の傷をもっている。その傷の深さの中に「私」はある。傷を受けた者だけが、癒しの喜びを知る。不幸なのは心の傷などないというほどに深く傷つけられた人である。 


箴言は「心の苦み心(λυπηρὰ ψυχὴLXX「魂の痛み」)は、心みずからが知るκαρδία ἀνδρὸς αἰσθητική λυπηρὰ ψυχὴ αὐτοῦ」と告げる。その人の魂は「自身の心の痛み」をつぶさに知っている。たとえ顔では笑うような時にでも、心はそこにも「痛み」のあることを知るのである。(箴言14:13)

誰かに「心の痛み」を知ってもらおうとすることよりも、自分に「魂の苦しみを知る心」のあることを知ることの方が自らを慰める。なぜなら、「喜び」とは、知られるべき者(真に自己を理解する者)に知られることだからである。それによって「心の痛み」は癒される。それは他の人には成し得ないことである。

「心の傷」は大切にすべきである。それによって魂は神に導かれ、いのちは新しい力を回復していく。

「私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。」 詩篇25:17 新改訳聖書

心のデボーション0017

「萬軍のヱホバかく宣へり云く正義き審判を行ひ互に相愛しみ相憐め」 ゼカリヤ7:9 明治元訳聖書

「万軍の主はこう仰せられる、真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、」 口語訳聖書

「互いに心の中で悪をたくらむな」 新改訳聖書

כֹּ֥ה אָמַ֛ר יְהוָ֥ה צְבָא֖וֹת לֵאמֹ֑ר מִשְׁפַּ֤ט אֱמֶת֙ שְׁפֹ֔טוּ וְחֶ֣סֶד וְרַֽחֲמִ֔ים עֲשׂ֖וּ אִ֥ישׁ אֶת־אָחִֽיו׃

τάδε λέγει κύριος παντοκράτωρ κρίμα δίκαιον κρίνατε καὶ ἔλεος καὶ οἰκτιρμὸν ποιεῖτε ἕκαστος πρὸς τὸν ἀδελφὸν αὐτοῦ LXXゼカリヤ7:9

「妻の悪にあらずば、いなかる悪にてもよしΠᾶσαν πληγὴν καὶ μὴ πληγὴν καρδίας, καὶ πᾶσαν πονηρίαν καὶ μὴ πονηρίαν γυναικός· LXX」 ベン=シラの知恵25:13 日本聖公会訳

 「愛の悪」

聖書外典ベン=シラの知恵25:13には「妻の悪にあらずば、いなかる悪にてもよし」とある。「妻の悪πονηρίαν γυναικόςLXXベン=シラの知恵25:13」というものがある。その中でも辛いのは「愛の悪」であろう。いかなる悪をも凌ぐ激しい愛の痛みである。そして、さらに辛いのは、妻に「愛の悪」を犯させてしまう夫の愛の貧しさである。「妻の悪」が現れるのは愛が冷えたからではない。愛が不安にさらされているからである。夫がそれを激しく憎むことは痛みを増幅させる効果しかない。試されているのは夫の愛である。

「互に相いつくしみ、相あわれみ」(ゼカリヤ7:9)と言われている。愛は双方からのものでなければ決して成熟しない。「妻の悪」が出現する背後に「夫の罪」が隠れている。それに妻も夫も気づかないことが最大の不幸である。「妻の悪」を夫が責めても問題は解決しない。夫が妻への姿勢を改めることが「妻の暴走」を防ぐ最良の道である。

「こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないかἄρα οὗν τὰ τῆς εἰρήνης διώκωμεν καὶ τὰ τῆς οἰκοδομῆς τῆς εἰς ἀλλήλους·」 ロマ14:19 口語訳聖書

「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおうμῖσος ἐγείρει νεῖκος πάντας δὲ τοὺς μὴ φιλονεικοῦντας καλύπτει φιλία LXX」箴言10:12 口語訳聖書

心のデボーション00018

「彼らはクレメンス其のほか生命の書に名を録されたる我が同勞者と同じく、福音のために我とともに勤めたり」 ピリピ4:3 大正文語訳聖書

「いのちの書に名のしるされているクレメンス」 新改訳聖書

ναὶ ἐρωτῶ καὶ σέ, γνήσιε σύζυγε, συλλαμβάνου αὐταῖς, αἵτινες ἐν τῶ εὐαγγελίῳ συνήθλησάν μοι μετὰ καὶ κλήμεντος καὶ τῶν λοιπῶν συνεργῶν μου, ὧν τὰ ὀνόματα ἐν βίβλῳ ζωῆς.ピリピ4:3

 「私のはじめ」

ピリピの信徒でパウロの同労者のクレメンス(柔和な、情け深いという意味の名)は「いのちの書に名のしるされているτὰ ὀνόματα ἐν βίβλῳ ζωῆς」とある。(ピリピ4:3)「いのちの書」とは何か?

新約聖書の冒頭の言葉は「Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ ᾽Αβραάμ」であり、旧約聖書の第一書「創世記」はGenesis と呼ばれる。LXXは「GENESIS  ゲネシス Genesis」であり、創世記5:1「系図の書」は「Βίβλος γενέσεως」と表現される。「創世記Genesis」は「Book of beginnings  始源の書」であり、「系図の書Βίβλος γενέσεως」は「Record of beginnings」である。創世記は「私」の「はじめ」について語り、マタイは「私」の救いの「はじめ」について語る。共に「いのちの書βίβλος ζωή」と呼ばれるのである。

私たちは「いのちの書 βίβλος ζωή」(ピリピ4:3、黙示3:5)に、自分の名の刻まれたのを知る。しかし聖書のどこに、「私のはじめと終わり」が、そしてどのように「私の存在の名」が刻まれてあるのを見出すのだろうか?

それには聖書の全体を「人間」すなわち「私」について語られた神の言葉と読む信仰がその導きとなるだろう。聖書の言葉はことごとく「私」について語られた神の言葉である。私の存在(いのち)の秘密は聖書に隠されているのである。

心のデボーション00019

「人の仇はその家の者なるべし」 マタイ10:36 大正文語訳聖書

「自分の家族の者は敵となる」 フランシスコ会訳聖書

καὶ ἐχθροὶ τοῦ ἀνθρώπου οἱ οἰκιακοὶ αὐτοῦ. マタイ10:36

「憎む者よりの攻撃にあらずば、いかなる攻撃にてもよしΠᾶσαν πληγὴν καὶ μὴ πληγὴν καρδίας, καὶ πᾶσαν πονηρίαν καὶ μὴ πονηρίαν γυναικός· LXX」 ベン=シラの知恵25:13 日本聖公会訳

 「愛する者よりの攻撃」

ベン=シラの知恵は「憎む者よりの攻撃にあらずば、いかなる攻撃にてもよし」(25:13 日本聖公会訳)という。たとえ、いかなる災いにも耐えることが出来たとしても、憎む者からくる災いにはどのように耐えられるだろうか、というのである。「憎む者よりの攻撃」には何とか耐えるとしても、「愛する者よりの攻撃」ほど辛いものはない。

「憎しみ」は、しばしば、外からではなく、内から起こる。親子、兄弟、身内の中から憎しみが始まる。主イエスは、礼拝にゆく途中で、兄弟から憎まれていることに気づいたら、直ちに引き返して兄弟と和解すべきであると教えられた。その後に礼拝に戻ればよい。(マタイ5:23~25)

しかし、兄弟と和解が速やかに行われることは稀である。安易な和解は兄弟間の憎しみを深めもする。「和解」は神への礼拝のごとくに厳粛に誠実になされなければならない。

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。μῖσος ἐγείρει νεῖκος πάντας δὲ τοὺς μὴ φιλονεικοῦντας καλύπτει φιλία. LXX」 箴言10:12 新改訳聖書

心のデボーション00020

「之を作り終(あ)ぐべし」 創世記6:16 明治元訳聖書

「仕上げよ」 フランシスコ会訳

16צֹ֣הַר׀ תַּעֲשֶׂ֣ה לַתֵּבָ֗ה וְאֶל־אַמָּה֙ תְּכַלֶ֣נָּה מִלְמַ֔עְלָה וּפֶ֥תַח הַתֵּבָ֖ה בְּצִדָּ֣הּ תָּשִׂ֑ים תַּחְתִּיִּ֛ם שְׁנִיִּ֥ם וּשְׁלִשִׁ֖ים תַּֽעֲשֶֽׂהָ׃

ἐπισυνάγων ποιήσεις τὴν κιβωτὸν καὶ εἰς πῆχυν συντελέσεις αὐτὴν ἄνωθεν τὴν δὲ θύραν τῆς κιβωτοῦ ποιήσεις ἐκ πλαγίων κατάγαια διώροφα καὶ τριώροφα ποιήσεις αὐτήν LXX創世記6:16

 「作り終(あ)ぐ」

群馬県は海のない県で漁業は限られているが、昔から利根川の岸に近い農家の天井には「大きな舟」が結わえられていた。利根川の魚を獲るためというよりも、繰り返される洪水に備えての舟であった。地に罪がはびこり、人の社会が混乱したとき、神は洪水によってこれを裁かれ、義人ノアにはその日に備えて「方舟」の建造を命じられ、「之を作り終(あ)ぐべし」と語られた。(創世記6:16 明治元訳聖書)

「方舟」はノアが是非とも「作り終(あ)ぐ」べきものだった。(創世記7章)人には自分の手で「作り終(あ)ぐ」べき「方舟」がある。いざ、雨が降り、水が堰を越えようとしてから、他人の「方舟」に入れてもらおうと戸を叩いても無駄である。方舟の戸は神が閉ざされるので、人は開くことができないからだ。(創世記7:16「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」口語訳聖書) 「人生の方舟」はおのおのが自分で用意しなければならない舟である。

「方舟」は常住するところではない。荒れ狂う怒りの海を航海し、いつかは乾いた大地に私を戻す舟である。

これまでどれほど多くを試しながら、「作り終(あ)ぐ」ことが出来なかったことだろうか。しかし、建造の手を緩めてはいけない。完成させ給うのは神である。

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