心のデボーション2_001

デボーション2
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心のデボーション00001

「アブラム乃(すなは)ちヱホバの自己(おのれ)に言たまひし言に從て出たり ロト彼と共に行りアブラムはハランを出たる時七十五歳なりき」  創世記12:4 明治元訳聖書

「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」 口語訳聖書

「アブラハムは主の仰せになったとおりに出発した」 フランシスコ会訳聖書

וַיֵּ֣לֶךְ אַבְרָ֗ם כַּאֲשֶׁ֨ר דִּבֶּ֤ר אֵלָיו֙ יְהוָ֔ה וַיֵּ֥לֶךְ אִתֹּ֖ו לֹ֑וט וְאַבְרָ֗ם בֶּן־חָמֵ֤שׁ שָׁנִים֙ וְשִׁבְעִ֣ים שָׁנָ֔ה בְּצֵאתֹ֖ו מֵחָרָֽן

καὶ ἐπορεύθη Αβραμ καθάπερ ἐλάλησεν αὐτῷ κύριος καὶ ᾤχετο μετ᾽ αὐτοῦ Λωτ Αβραμ δὲ ἦν ἐτῶν ἑβδομήκοντα πέντε ὅτε ἐξῆλθεν ἐκ Χαρραν Lxx 創世記12:4  

 「出発 アブラハムとロト」

アブラハムは「自己(おのれ)に言いたまいし言(こと)に従いて(καθάπερ 全くその通りに)」出発した。アブラハムの出発は「神が彼に語られたとおりに、全く同様に」なされた。(創世記12:4)

アブラハムに対してロトは「出発するアブラハムに」従っての出発であった。「自己(おのれ)に言いたまいし言(こと)に従いて(καθάπερ 全くその通りに)出発する」アブラハムと、「彼と共に行くᾤχετο μετ᾽ αὐτοῦ(οἲχομαι 立ち去る)」ロトでは、出発に根本的な違いがある。

ベン=シラの知恵21:8に「他人の金にて家を建つる人は、おのが墓のために石を集むる人のごとし」とある。

アブラハムの出発はアブラハムの「自己(おのれ)に言いたまいし〔神の〕言(こと)に従いて出でたる」もので、アブラハムだけの出発であった。それに対して、ロトの出発は、「他人の金にて家を建つる人」のごときもので、「おのが墓のために石を集めた」にすぎなかった。ロトにはロトの「出発」がなければならなかった。

アブラハムがカランから「出発」したとき、父テラはまだ生存していた。アブラハムは父をカランに残して神の示される地に出発したのである。(創世記11:32) 真の「出発」には辛い別れが伴う。(マタイ10:34)ロトの出発にはそれがない。

「さてパウロは、なお幾日ものあいだ滞在した後、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向け出帆した」 使徒18:18 口語訳聖書

小さくても、自分の金で家は建てたい。貧しくても「私」に語られる神の言葉に従って今日を出発したい。出発した以上はとのような急坂も自分の足で登りたい。

心のデボーション00002

「そはヱホバは智慧をあたへ 知識と聰明とその口より出づればなり」 箴言2:6 明治元訳聖書

「これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである」 口語訳聖書

כִּֽי־יְ֭הוָה יִתֵּ֣ן חָכְמָ֑ה מִ֝פִּ֗יו דַּ֣עַת וּתְבוּנָֽה

ὅτι κύριος δίδωσιν σοφίαν καὶ ἀπὸ προσώπου αὐτοῦ γνῶσις καὶ σύνεσις LXX箴言2:6  

「われ量りをもて教えを分かち与え、確かなる知識を告げんἐκφανῶ ἐν σταθμῷ παιδείαν καὶ ἐν ἀκριβείᾳ ἀπαγγελῶ ἐπιστήμην. LXX」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵16:25 日本聖公会訳 

 「悩みと智慧」

主の御手には「はかりζυγός(黙示録6:5)」があり、一方の皿には「悩み」が載せられ、もう一方には「智慧」が載せられる。

神は悩みに見合うだけの「智慧」を量り与えられる。深い悩みには同量の「智慧」を、軽き悩みには同量の「智慧」を量られる。

「軽い悩み」に「深い智慧」は不必要なのではなく、「深い悩み」に「浅い智慧」は意味がないのでもない。

物事は「深く」悩むのがよいのでも、「軽く」悩むのがよいのでもない。「悩み」そのものの深さに届くことが肝要である。

「深い悩み」を「浅い智慧」が解決することもあり、「軽い悩み」が「深い智慧」を必要とすることもある。神はそれぞれの「悩み」に見合った「智慧」をくださる。深くても軽くても現在の「悩み」を解決してくれるのが「智慧」である。

「智慧」を量り与えられるには、悩む力を失わないことだ。「悩む力」とは「悩みそのものを見抜き、その深さに届く力」のことである。

「わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた」 詩篇118:5 口語訳聖書

「知恵と悟りγνῶσις καὶ σύνεσις」は、神の「み口から出でるἀπὸ προσώπου αὐτοῦ」。(箴言2:6) 「み口」は「LXX πρόσωπον 御顔、前(神の御前、神御自身、神の御存在)」から出る。

心のデボーション00003

「妻を得るものは美物を得るなり 且ヱホバより恩寵をあたへらる」 箴言18:22 明治元訳聖書

「妻を得る者は、良き物を得る、かつ主から恵みを与えられる」 口語訳聖書

מָצָ֣א אִ֭שָּׁה מָ֣צָא טֹ֑וב וַיָּ֥פֶק רָ֝צֹ֗ון מֵיְהוָֽה

ὃς εὗρεν γυναῖκα ἀγαθήν εὗρεν χάριτας ἔλαβεν δὲ παρὰ θεοῦ ἱλαρότητα LXX箴言18:22

 「割れ鍋にとじぶた」

「割れ鍋にとじ蓋」のどちらが歪みに合わせるかといえば、それはとじ蓋だろう。はじめから割れ鍋にピッタリのとじ蓋などあるはずもない。鍋の歪みに、とじ蓋は身を捩り、少しでもすき間を埋めようとしたのだ。そうやって、長い間連れそううちに、とじ蓋に鍋の歪みがうつされ、それが少しも不自然に感じられなくなったのだ。

私としては、とじ蓋に深く感謝したい。だが、破れ鍋のほうにも、合わせようにも無残に割れてしまったわが身への若干の後ろめたさはある。そんなわが身に寄り添ううちに何とか収まって見えるとじ蓋に憐れの情が感じられるのを禁じ得ないのである。

主の備え給う妻を得る者は、まことに「良きものἀγαθός(好ましく善い、有能な、善良な、心地よい幸せ)」を得る。彼女は「神の恵みχάρις(恩寵、愛)」をもたらす。(箴言18:22)

「なんぢの妻はいへの奧にをりておほくの實をむすぶ葡萄の樹のごとく汝の子輩はなんぢの筵に円居してかんらんの若樹のごとし」 詩篇128:6 明治元訳聖書

「妻を得るものは美物を得るなり 且ヱホバより恩寵をあたへらる」 箴言18:22 明治元訳聖書
「教會のキリストに服ふごとく、妻も凡てのこと夫に服へ。 夫たる者よ、キリストの教會を愛し、之がために己を捨て給ひしごとく、汝らも妻を愛せよ」エペソ5:24-25 大正文語訳聖書

心のデボーション00004

「汝猝禅(にわか)なる恐懼(おそれ)をおそれず」 箴言3:25 明治元訳聖書

אַל־תִּ֭ירָא מִפַּ֣חַד פִּתְאֹ֑ם וּמִשֹּׁאַ֥ת רְ֝שָׁעִ֗ים כִּ֣י תָבֹֽא

 καὶ οὐ φοβηθήσῃ πτόησιν ἐπελθοῦσαν οὐδὲ ὁρμὰς ἀσεβῶν ἐπερχομένας LXX箴言3:25

「にわかにおこる恐慌」 口語訳聖書  

「突然襲う恐怖」 新共同訳  

「にわかにおこる恐怖」 新改訳聖書

「不意に起こる恐怖」 フランシスコ会訳聖書  

「突如としてくる恐怖」 バロバロ訳聖書

 「にわかに起こる恐怖」

江戸時代から明治時代にかけて、宴席や路上などで行われた即興の芝居を「俄狂言(にわかきょうげん)」といった。素人が路上や座敷で突然はじめる即興の狂言で「いきなり始まる」ことを「俄」と呼ぶようになった。

「にわか雨」など、一時的な雲行きであり、軒下に逃げれば、じきに通りすぎる。

しかし、「にわかに起こる恐怖πτόησιν ἐπελθοῦσαν(俄かにおこる禍しきことの恐怖)LXX箴言3:25」は、そうはいかない。突如として、それも原因もわからないままに始まり、濡れた衣のようにべったりと身に張りつく。「にわかに起こる恐怖」は「にわか雨」と心得て、近くに恰好な軒を見つけてやり過ごすのもよい。雨上がりを待つ間に、「主がわたしの傍らにいます」(箴言3:26)を取り戻せばさらによい。

「軒の下」は一刻身を寄せ、雨を避けるだけの仮の場所で、いつまでも居るところではない。例えばカウンセリングがそれである。 しかし、「にわかに彼に臨み、たちまちにして打ち敗られ、助かることはない」(箴言6:15 口語訳聖書)というような事態は一過性の災いではない。これは「災害」である。軒下に難を避けるのではなく、一刻も早く危機から逃れるべきである。

心のデボーション00005

「われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ」 黙示3:15 明治元訳聖書

「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」 新改訳聖書

「お前は冷たくもかく熱くもない。むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを」 フランシスコ会訳聖書

οἶδά σου τὰ ἔργα, ὅτι οὔτε ψυχρὸς εἶ οὔτε ζεστός. ὄφελον ψυχρὸς ἦς ἢ ζεστός.  黙示3:15

 「初心」

「初心忘れるべからず」は、能を大成した世阿弥が、50歳半ばに書いた『花鏡(かきょう)』という伝書に書き残されたもので、始めの下手な芸位を捨てずに取っておくの意である。

これには次の三箇条の口伝がある。

是非の初心忘るべからず

時々の初心忘るべからず

老後の初心忘るべからず

成人して声も落ち着く頃になると、一応の舞も舞えるようになり、客も見事な芸だと認めるようになる。しかし、それは時々の一時的な花にすぎない。高い芸位に達した者が、自分の未熟に気づき、初心の芸を演じる。名人がその道の極意を尽くして、修行していない普通の人と同じところに立つ。そこに新しい初心が始まり、「まことの花」を咲かせるのである。

信仰が「冷たくもなく熱くもないοὔτε ψυχρὸς (冷たい、無関心)εἶ οὔτε ζεστός(沸騰している)」(黙示3:15)というのは、若い頃の未熟を捨ててしまったからではないか。「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そうὅτι χλιαρὸς (口から吐き出したくなるような気味の悪いなまぬるさ)εἶ καὶ οὔτε ζεστὸς οὔτε ψυχρός, μέλλω σε ἐμέσαι ἐκ τοῦ στόματός μου」(黙示録3:16  口語訳聖書)という状態である。信仰も又、極めるほどに下手が大切になる。

心のデボーション00006

「ヱホバ神の造りたまひし野の生物の中に蛇最も狡猾(さが)し蛇婦に言ひけるは神眞に汝等園の諸の樹の果は食ふべからずと言たまひしや」 創世記3:1  明治元訳聖書

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった」 口語訳聖書

וְהַנָּחָשׁ֙ הָיָ֣ה עָר֔וּם מִכֹּל֙ חַיַּ֣ת הַשָּׂדֶ֔ה אֲשֶׁ֥ר עָשָׂ֖ה יְהוָ֣ה אֱלֹהִ֑ים וַיֹּ֨אמֶר֙ אֶל־הָ֣אִשָּׁ֔ה אַ֚ף כִּֽי־אָמַ֣ר אֱלֹהִ֔ים לֹ֣א תֹֽאכְל֔וּ מִכֹּ֖ל עֵ֥ץ הַגָּֽן

ὁ δὲ ὄφις ἦν φρονιμώτατος πάντων τῶν θηρίων τῶν ἐπὶ τῆς γῆς ὧν ἐποίησεν κύριος ὁ θεός καὶ εἶπεν ὁ ὄφις τῇ γυναικί τί ὅτι εἶπεν ὁ θεός οὐ μὴ φάγητε ἀπὸ παντὸς ξύλου τοῦ ἐν τῷ παραδείσῳ 

「へびよりのがるるごとく罪よりのがれよ、これに近づかば罪なんじをかまんὡς ἀπὸ προσώπου ὄφεως φεῦγε ἀπὸ ἁμαρτίας· ἐὰν γὰρ προσέλθῃς, δήξεταί σε· ὀδόντες λέοντος οἱ ὀδόντες αὐτῆς ἀναιροῦντες ψυχὰς ἀνθρώπων. 」 旧約聖書外典ベン=シラの知21:2日本聖公会訳

 「噛みつく蛇」

罪は「噛みつく蛇」である。迂闊に手を出せば毒の牙を向ける。しかし、エバは蛇に驚かないばかりか、親しげに言葉を交わす。(創世記3:1) 蛇が「野の生き物のうちで最も賢い」といわれるのは、「毒の牙」を「目に美麗しく」見せることによる。噛まれた者は自らを「賢い」とさえ感じてしまう。

「蛇」を見たら直ちに「逃れ」るがよい。「その傷」は「癒すすべがない」(ベン=シラの知恵21:3)からだ。

だが、それができるだろうか? 人にとって蛇は「野の生き物のうちで最も魅力的」な話し相手なのだ。「罪との対話」ほど人を惹きつけるものはない。

アブラハムと別れたロトは「低地の町々に住み、ソドムの近くまで天幕を張った」(創世記13:12)。そして、創世記19章では「ロトはソドムの門のところにすわって」いる。(創世記19:1)ソドムの人々は「邪な者で、主に対しては非常な罪人」であった。(創世記13:13)ロトは初めから「ソドムに住んだ」のではない。初めはその周辺に天幕を張ったが、いつの間にか、門にすわる「ソドムの顔役」になっている。

「されど我が恐るるは、蛇の惡巧によりてエバの惑されし如く、汝らの心害はれてキリストに對する眞心と貞操とを失はん事なり」 Ⅱコリント11:3 大正文語訳聖書

心のデボーション00007

「彼を尊べ さらば彼なんぢを高く擧げん もし彼を懐かば彼汝を尊榮(たふと)からしめん」 箴言4:8 明治元訳聖書

「それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える」 新改訳聖書

סַלְסְלֶ֥הָ וּֽתְרֹומְמֶ֑ךָּ תְּ֝כַבֵּ֗דְךָ כִּ֣י תְחַבְּקֶֽנָּה

περιχαράκωσον αὐτήν καὶ ὑψώσει σε τίμησον αὐτήν ἵνα σε περιλάβῃ LXX箴言4:8

 「知恵を抱きしめる」

文中の「彼」は「智慧」である。「彼(智慧)を尊べ さらば彼(智慧)なんぢを高く擧げん もし彼(智慧)を懐かば彼(智慧)汝を尊榮(たふと)からしめん」。

「彼を懐く」を新改訳聖書は「それを抱きしめる」と訳す。「抱きしめる περιλάβὰνωLXX」は「抱擁する、手に入れる、すっぽり包む」の意味である。「智慧」は「卵」のようで、外に置いては何も始まらない。雌鶏が卵を抱くように、懐深くに抱きしめ、しばらく身の温もりを伝えなければならない。時満ちていのち(智慧)が生まれ出る。

「智慧」は、気に入ったものを抽出するようなことをすべきではない。自分に都合のよい部分を残し、他を捨てるのは、全体を損なうに等しい。「真の智慧」は人に都合の良いものばかりでなく、受け入れがたいことも含まれているからである。

智慧そのもの(全体)を「すっぽりと包む」べきである。智慧を温め、それが孵化するのを待つ。やがて、抱かれているのはこちらであることが判る。智慧が私を懐深く抱き、「私」を孵化し、いのちを生もうとしている。そして、新しいいのちが誕生する。 

心のデボーション00008

「ヱホバかくイスラエルの家に言たまふ 汝ら我を求めよ さらば生べし」 アモス5:4 明治元訳聖書   

כִּ֣י כֹ֥ה אָמַ֛ר יְהוָ֖ה לְבֵ֣ית יִשְׂרָאֵ֑ל דִּרְשׁ֖וּנִי וִֽחְיֽוּ

διότι τάδε λέγει κύριος πρὸς τὸν οἶκον Ισραηλ ἐκζητήσατέ με καὶ ζήσεσθε LXXアモス5:4

「わたしを求めて生きよ」 新改訳聖書

「わたしを求めよ、そして生きよ」 新共同訳聖書

「わたしを求めよ、そうすればお前たちは生きる」 フランシスコ会訳聖書

 「求めて生きよ」

「求めて生きよἐκζητήσατέ με καὶ ζήσεσθε」は「求めよ、さらば生きん」とも読める。アモスは「神を求めて生きよ」と奨める。自分を知り、人を知って、神と人に仕えるために、「神」を求める。神を忘れるとき、人は愛することを忘れている。自分という存在を忘れ、他者の存在を忘れる。あなたは「忘れられた」のではない。あなたが神を忘れているのである。

「神」は特別な経験のなかにではなく、私の生きている日常のなかにおられる。神を求める人は、ありふれたことの中に生ける神が在すことを見出すだろう。私たちにとって「意味のないありふれたこと」など一つもない。

「求めדָּרַש ‎」は「問う、調べる、探す、尋ねる」の意味である。LXX ἐκζητέω は「深く求める、探求する」の意である。「神」への求めは、人間の全存在をかけての「深い求め」である。そのような「存在からの求め」もまた神からのものである。

「なんぢらわが面をたづねもとめよと(斯る聖言のありしとき)わが心なんぢにむかひてヱホバよ我なんぢの聖顔をたづねんといへり ねがはくは聖顔をかくしたまふなかれ 怒りてなんぢの僕をとほざけたまふなかれ汝はわれの助なり 噫わがすくひの神よ われをおひいだし我をすてたまふなかれ」詩篇27:8-9

心のデボーション00009

「人もし汝に悪を為さずば、故なく之と争うことなかれ」 箴言3:30 明治元訳聖書

אַל־תָּרֹוב עִם־אָדָ֣ם חִנָּ֑ם אִם־לֹ֖א גְמָלְךָ֣ רָעָֽה

μὴ φιλεχθρήσῃς πρὸς ἄνθρωπον μάτην μή τι εἰς σὲ ἐργάσηται κακόν LXX箴言3:30

「理由もなく人と争うな」 新改訳聖書

「ゆえなく、これと争ってはならない」 口語訳聖書

 「故なき争い」

「故なき争いφιλεχθρήσῃς πρὸς ἄνθρωπον μάτην」というものがある。どうしてこれ程怒れるのかというほどの憤りだが、その「故」がはっきりと見えない。「故なき争い」は褒められたことではない。しかしそれを恥じても問題は解決しない。「故」は自分の内に隠れている。それを引きずり出すしかない。

相手が「悪を為さない」ことに苛立って「争いごと」をしかけることもある。そのとりすました顔の下にある別の顔を暴いてやりたいと思うのだろうが、実は自分の中に暴き出されるべきものが隠されていることも少なくない。

「故もなく ῾Νξι」は「いたずらに」の意味であるが、「いたずらに」扱うべきことでもない。思わぬ大事になる前に事の本質を見抜くべきである。 

「争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ」 箴言17:14 

「愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く」 箴言18:6

「隣り人と争うことがあるならば、ただその人と争え、他人の秘密をもらしてはならない」 箴言25:9

「怒る人は争いを起し、憤る人は多くの罪を犯す」 箴言29:22  口語訳聖書

心のデボーション00010

「事の終はその始よりも善し 容忍(しのぶ)心ある者は傲慢(ほこる)心ある者に勝る」伝道7:8 明治元訳聖書

「事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる」 口語訳聖書

טֹ֛וב אַחֲרִ֥ית דָּבָ֖ר מֵֽרֵאשִׁיתֹ֑ו טֹ֥וב אֶֽרֶךְ־ר֖וּחַ מִגְּבַהּ־רֽוּחַ

ἀγαθὴ ἐσχάτη λόγων ὑπὲρ ἀρχὴν αὐτοῦ ἀγαθὸν μακρόθυμος ὑπὲρ ὑψηλὸν πνεύματι LXX伝道7:8

「始めの人、全くは知恵を知らざりしごとく、終わりの人もまた、その深さを量ることあたわじ οὐ συνετέλεσεν ὁ πρῶτος γνῶναι αὐτήν, καὶ οὕτως ὁ ἔσχατος οὐκ ἐξιχνίασεν αὐτήν· 」 ベン=シラの知恵24:28 日本聖公会訳

 「始めと終り」

物事には、常に「始め」と「終り」がある。それを「始めの人」と「終りの人」としよう。「始めの人、全くは知恵を知らざりしごとく、終わりの人もまた、その深さを量ることあたわじ」(ベン=シラの知恵24:28 日本聖公会訳)ベン=シラの知恵24:28によれば、「ことの初め」に知恵を欠くならば、その終わりが深まることはない。しかし、「智慧の始め」に「自分は全く智慧を知らない」と認識し、それを「容忍(しのぶ)心」があるならば、「終わり」に「自分は全く智慧を知らない」と思うほどに智慧を得るだろう。

神は「アルファ初め」であり「オメガ終わり」である。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」ἐγώ εἰμι τὸ ἄλφα καὶ τὸ ὦ, λέγει κύριος ὁ θεός, ὁ ὢν καὶ ὁ ἦν καὶ ὁ ἐρχόμενος, ὁ παντοκράτωρ.」黙示1:8 口語訳聖書

「始めの私」と「終りの私」は同じではない。「終わり」は「始め」に優る。しかし、「終り」を目指して歩み出した人は、実は「始まり」に向かうのである。真の「始め」には、そこから終わりまでの全体が含まれているからである。「収穫の束」を携える終わりの喜びは「涙と共に種を蒔く」始めがなければならない。

「涙とともに播くものは歡喜とともに穫らん その人は種をたづさへ涙をながしていでゆけど禾束をたづさへ喜びてかへりきらん」 詩篇126:5~6 明治元訳聖書
「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。」 ヤコブ5:11  口語訳聖書

「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。」 ヤコブ1:13  口語訳聖書

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