心のデボーション100

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 00991

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「創造の神と人間」

聖書は神を証明しない。神は「有て在るもの」(出エジプト3:14)である。

この神は創造の神であり、人間は神に創られた。イザヤは、陶工の手で作られた土の器が陶工に「あなたはいない」と言えるだろうかと問いかける。

「なんぢらは曲れりいかで陶工をみて土塊のごとくおもふ可んや 造られし者おのれを作れるものをさして我をつくれるにあらずといふをえんや 形づくられたる器はかたちづくりし者をさして智慧なしといふを得んや」 イザヤ29:16

すべての人間には「神への想い」がある。そのような「私」の存在が神を証しする。

(†心のデボーション00991)

† 心のデボーション 00992

「我わが面をなんぢらに向て攻ん汝らはその敵に殺されんまた汝らの惡む者汝らを治めん汝らはまた追ものなきに逃ん」 レビ26:17 明治元訳聖書

「わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう」 口語訳聖書

 「今、ここでの課題」

人生に本当に必要としているものは、自分が何を避けようとしているかをつきとめることからもわかる。人生が「今、ここで」与える課題を避けている限り、生活は充分な意味と内容をもたない。尻込みすることをやめ、「今、ここで」の自分を生きるなら、たましいの成長に出会うだろう。避けてばかりいると、やがて「誰も追いかけてこないのに逃げる」ようになる。人生が与えるものから逃げないことだ。

(†心のデボーション00992)

† 心のデボーション 00993

「慈父が乳哺子を抱くがごとくに彼らを懐に抱きて」 民数11:12 明治元訳聖書

「養い親が乳児を抱くように、彼らをふところに抱いて」 口語訳聖書

 「思春期さなぎ説」

河合隼雄さんは「思春期さなぎ説」を唱えた。「毛虫が蝶になる前にさなぎの時期が必要なように、人間も、子どもが大人になる前に、さなぎのように閉じこもり、内面的な大変化本人にも―何が何やらわからない―が生じるのを、うまく乗り切っていく」というものである。思春期を「さなぎの殻」にうまく守られないと、外に突出して「無茶苦茶」をやりはじめてしまう。

(†心のデボーション00993)

† 心のデボーション 00994

「まことに彼はわれらの病患をおひ我儕のかなしみを擔へり 然るにわれら思へらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと」 イザヤ53:4 明治元訳聖書

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」 口語訳聖書

 「言葉の刃物」

子どもの頃、兄に性的ないたずらをされた女性が成長して、恋人からそのことを「不潔」と言われて、その後の人生をめちゃめちゃにしてしまった。「不潔」という言葉が刃物となって、彼女の心をえぐったのである。それは彼女が一人で自分に引きうけるしかない苦しみだった。負い抜くことでしか癒されない痛みであった。

イエスはそのような「われらの病患をおひ我儕のかなしみを擔い」給う。

(†心のデボーション00994)

† 心のデボーション 00995

「こは人に智慧と訓誨とをしらしめ哲言を暁らせ」 箴言1:2 明治元訳聖書

「これは知恵を知り、教育を与え、悟りの言葉を深く知るためのものであり」 フランシスコ会訳聖書

 「知らしめる」

「箴言」は人々に「知らしめ」られるべき神のことばである。「箴言」は人によらず、自ずから、人から人へ「知らしめる」力を内包している。しかし、神は「箴言」のことばを人に託された。「悟りのことば」を深く知る者はそれを内に秘め私有すべきではない。

(†心のデボーション00995)

† 心のデボーション 00996

「撃こと愈すことは凡て我是を爲す」 申命記32:39 明治元訳聖書

「わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす」 口語訳聖書

 「七つの人形の恋物語」

ポール・ギャリコの「七つの人形の恋物語」は冷酷非情な座長のキャプテン・コックの操る7体の個性豊かな人形と純粋な少女ムーシュの心の交流を描いている。

キャプテン・コックは冷酷な男だが、その心には7体のユニークな人形のようなさまざまな側面を併せ持っている。少女ムーシュはキャプテン・コックの心を傷つけられながらも、彼の人形に励まされ癒されていく。その物語が人形劇となって人々の心を打つ。冷酷非情な座長のキャプテン・コックもまた心に傷を負っていたのであり、少女ムーシュによって癒されていく。

「真の愛」に気づくことによって心の傷は癒される。

(†心のデボーション00996)

† 心のデボーション 00997

「我らに負債(おひめ)ある者を我らの免したる如く、我らの負債(おひめ)をも免し給へ」 マタイ6:12 大正文語訳聖書

「わたしたちの負い目をゆるしてください。同じようにわたしたちも、わたしたちに負い目のある者をゆるします」 フランシスコ会訳聖書

 「私の負い目」

支払うべきものを支払わず、果たすべきものを果たさない人には憤りを感じ、憤りはじきに怒りに変わる。

赦しを学ぶまで、私たちはこの怒りから離れることができない。赦しとは相手を負いめあるものと見なさないことである。神は私の「負い目」を赦し、それにふれることをされない。私も人の「負い目」に触れてはいけない。

(†心のデボーション00997)

† 心のデボーション 00998

「レア福來れりといひて其名をガドと名けたり」 創世30:11 明治元訳聖書

「そこでレアは、『幸運がきた』と言って、名をガドと名づけた」 口語訳聖書

 「幸運」

努力もしないのに幸運が舞い込むのを、「開いた口へ牡丹餅。The bean jam rice cake ([botamochi]) entered an open mouth.」というらしい。「棚から牡丹餅」である。めったなことでは起こらないが、あれば嬉しい。

しかし、レアのように口を開かなければ幸運は来ない。

(†心のデボーション00998)

† 心のデボーション 00999

「ヱホバ、ヨセフとともに在す彼享通者となりてその主人なるエジプト人の家にをる」 創世記39:2 明治元訳聖書

「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」 口語訳聖書

 「和解」

生まれた時から幸運を約束されたような人に出会うことがある。たいした努力もしないで成功を収めてゆくようにしか見えない。羨望のまなざしの一つも送りたくなろうというものだ。

しかし、人生で出会うものをすべて受け入れていくなら、同じ幸運が私にも訪れる。人生と戦うのではなく、和解するのだ。ヨセフは奴隷としての自分を、神の導かれた運命として受け入れることによって「幸運な人」と呼ばれた。

(†心のデボーション00999)

† 心のデボーション 01000

「是われら敬虔と謹嚴とを盡して、安らかに靜に一生を過さん爲なり」 Ⅰテモテ2:2 大正文語訳聖書

「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである」 口語訳聖書

 「内から来る静穏」

「静かな ἡσύχιος ヘーシュキオス」は「内から来る静穏」を意味する。人生には思わぬことが次々と起こるが、神に生きる人の心には「内から来る平穏」がある。

(†心のデボーション01000)

コメント