心のデボーション099

デボーション1
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† 心のデボーション 00981

「汝等竊むべからず偽べからず互に欺くべからず」 レビ19:11 明治元訳聖書

「あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互に偽ってはならない」 口語訳聖書

 「自分を欺く」

人を欺くよりも、自分を欺く方が罪が深いのではないだろうか。人は、他人を欺くことは自覚できても、自分を欺くことに気づかないからである。生き方に一貫性が欠けているのに、本人にその自覚がない。欺く人の影をなげかけられた人は、訳のわからない不安にさらされる。そして、それが相手の影に踊らされる混乱であることがわからない。しかも、その混乱を見て、欺く人の精神はどっしりと安定する。不思議としか言えない。

(†心のデボーション00981)

† 心のデボーション 00982

「イエスはヘロデ王の時、ユダヤのベツレヘムに生れ給ひしが、視よ、東の博士たちエルサレムに來て言ふ」 マタイ2:1 大正文語訳聖書

「イエズスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムにお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムに来て」 フランシスコ会訳聖書

 「中心」

星はマギたちを、まずヘロデのところに導く。イエスの誕生はヘロデに、そしてヘロデは民の指導者たちに伝える。こうして、イエスの誕生は「中心」に伝えられるが、しかし「中心」は必ずしもイエスに好意的ではない。イエスは「中心」をおびやかすものだからである。私の中心もまたその予感を持っている。

(†心のデボーション00982)

† 心のデボーション 00983

「愛は大水も消ことあたはず」 雅歌8:7 明治元訳聖書

「愛は大水も消すことができない」 口語訳聖書

 「愛の量」

「愛は小出しにするがよい。 Give the love bit by bit.」という。惜しみなき愛はすばらしいが、行き過ぎると息切れがして長続きしない。「少し愛して、長く愛して。Love me little, love me long.」というではないか。

だが、愛はコントロールできないものでもある。ましてや、「愛の量」をコントロールするなど「愛」とはいえない。神は私に常に最大量の愛を下さる。

(†心のデボーション00983)

† 心のデボーション 00984

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「私のはじめ」

「はじめ」を意識すること。意識はその深みには入れない。しかし、自分というものが始まった始めとしての時がある。自己以前の自己から現在の自己が来る。時々刻々に変化する時に初めの時が対応している。「私」の生命的根拠としての「はじめ」である。

「なんぢを創造し なんぢを胎内につくり又なんぢを助くるヱホバ如此いひたまふ わがしもベヤコブよわが撰みたるヱシュルンよおそるるなかれ」 イザヤ44:2 明治元訳聖書

(†心のデボーション00984)

† 心のデボーション 00985

「主よわが口唇をひらきたまへ 然ばわが口なんぢの頌美をあらはさん 」 詩篇51:15 明治元訳聖書

「主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう」 口語訳聖書

 「良い問い」

「いい問いは答えよりも重要だ」という。確かに、問うことがなければ、見出すこともない。問うものがないときに、心は本当に苦しむ。「聞くこと」を見失っているからである。「答えはないのだ」という気づきが解決という問題も少なくない。答えはすでに表れているのである。

(†心のデボーション00985)

† 心のデボーション 00986

「是われら敬虔と謹嚴とを盡して、安らかに靜に一生を過さん爲なり」 Ⅰテモテ2:2 大正文語訳聖書

「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである」 口語訳聖書

 「安らぎを与える騒音」

米ワシントン州レドモンドのマイクロソフト本社には世界一静かな部屋とされる「無響室」がある。一切の音が遮断された部屋で、入ると自分の心臓の鼓動が聞こえ、耳を裂くような耐えがたい耳鳴りがし、動けば自分の骨がきしむ音が聞こえ、呼吸の音が恐ろしく大きく聞こえる。長くは入ってはいられず、ほとんどの人は30分以耐えることは難しく、これまでの最長滞在時間は約55分だという。

る。
人間は騒音の中に生きている。安らぎを与える騒音というものがあるのだ。

(†心のデボーション00986)

† 心のデボーション 00987

「こは人に智慧と訓誨とをしらしめ哲言を暁らせ」 箴言1:2 明治元訳聖書

「これは知恵を知り、教育を与え、悟りの言葉を深く知るためのものであり」 フランシスコ会訳聖書

 「金銀にまさる」

「箴言」を知ることの価値は金銀にまさる。金銀で買えるような「知恵」は役に立たない。「箴言」は金銀をいたずらに蓄えることなく、正しい使い道を知っている。

「知恵を得るのは金を得るのにまさる、悟りを得るのは銀を得るよりも望ましい」 箴言16:16 口語訳聖書

「愚かな者はすでに心がないのに、どうして知恵を買おうとして手にその代金を持っているのか」 箴言17:16 口語訳聖書

(†心のデボーション00987)

† 心のデボーション 00988

「陰府のごとく彼等を活たるままにて呑み 壯健なる者を墳に下る者のごとくになさん」 箴言1:12 明治元訳聖書

「陰府のように、彼らを、生きたままで呑み込もう。穴に落ちる者のように、彼らを丸呑みにしよう」 フランシスコ会訳聖書

 「待ち伏せ」

蛸は岩に張りついて形も色も岩に擬態し、近づく小魚を腕を伸ばして捕える。いきなり蛸の腕に絡めとられた小魚は岩の一部が腕を伸ばして自分を捕えたとしか思えないだろう。

「待ち伏せ」されて絡めとられる者は最後まで自分を捕えたものの正体を知らないかもしれない。

(†心のデボーション00988)

† 心のデボーション 00989

「己が給料をもて足れりとせよ」 ルカ3:14 大正文語訳聖書

「自分の給与で満足していなさい」 口語訳聖書

 「破れぬ程度の獲物」

蜘蛛は「巣が破れぬ程度の、しかもちょうど蜘蛛の腹を満たすに足りるほどのものがかかるように網を張る」という。(アイリアノス「ギリシャ奇談集」より)

釣り竿でクジラを釣るものではない。仮にクジラがかかったとしても、クジラは釣りあげられるとは思っていないし、釣りあげられるものでもない。

予想外の大物をねらうよりも、「破れぬ程度の獲物」で満足すべきである。

(†心のデボーション00989)

† 心のデボーション 00990

「我は主また師なるに、尚なんぢらの足を洗ひたれば、汝らも互に足を洗ふべきなり」 ヨハネ13:14 大正文語訳聖書

「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」 口語訳聖書

 「奉仕」

「奉仕」という言葉はギリシャ語で「ディアコニア」である。「コニア」は「ほこり、ゴミ」のことで、「ほこり、ゴミを通して」という意味になる。身をかがめてほこりに汚れた相手の足を洗い、手ぬぐいでていねいに拭くことが「奉仕」と呼ばれた。ひざまずいて、ほこりやゴミに汚れることを厭わない気持ちがないとできることではない。教会の役員は「奉仕者」と呼ばれた。

(†心のデボーション00990)

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