† 心のデボーション 00971
「相知(あひし)る」 マタイ1:25 大正文語訳聖書
「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」 新共同訳聖書
「知音」
中国春秋時代に鍾子期(しょうしき)は伯牙(はくが)の弾く琴の音を聞いて、伯牙の心をよく理解したという。その鍾子期が亡くなると、伯牙は「自分の琴を知ってくれる者がいなくなった」と琴の弦を切り、再び琴を弾くことはなかった。そこから、自分をよく知ってくれるひとを「知音(ちおん)」というようになった。
ヨセフとマリヤが「子の生るるまでは、相知(あひし)る事がなかった」ということは、むしろ彼らの「知音」の間柄を我らに教えてくれるのである。
琴の音を聞いて、奏者の心を知る耳が欲しいものだ。
(†心のデボーション00971)
† 心のデボーション 00972
「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書
「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書
「神の創造」
「天と地」を創造された神は、「天と地」を新たに創造される神である。
「なんぢ霊をいだしたまへば百物みな造らるなんぢ地のおもてを新にしたまふ」 詩篇104:30 明治元訳聖書
(†心のデボーション00972)
† 心のデボーション 00973
「さとき訓と公義と公平と正直とをえしめ」 箴言1:3 明治元訳聖書
「思慮深い教育を受けて、正義と公正と公平とを体得するためのものであり」 フランシスコ会訳聖書
「公義」
「公義」はギリシャ語 δικαιοσύνη ディカイオスゆネ で、「正義、公正、正直」を意味する。この語は「神の目から見る正しさ」であり、神の義と合致する「義」である。
「知恵」の目的は神の義のもとに我らを導く。
(†心のデボーション00973)
† 心のデボーション 00974
「また天より聲あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり』」 マタイ3:17 大正文語聖書
「そのとき、天から、『これはわが愛する子、わが心にかなう者である』という声がした」 フランシスコ会訳聖書
「愛された子」
「サイエンス」誌に発表された研究によると。母親によく舐められたり、毛づくろいされた子ネズミの海馬の細胞はそうでない子ネズミよりも多かったそうである。
海馬は記憶をつかさどる脳で、海馬に障害があると新しいことを覚えられないという。愛情をかけられた子どもはストレスに強く、必要以上に悩みを抱え込まずに生きていけるようだ。
(†心のデボーション00974)
† 心のデボーション 00975
「我が拳鬪するは空を撃つが如きにあらず」 Ⅰコリント9:6 大正文語聖書
「わたしは空を打つような拳闘はしない」 口語訳聖書
「相手の無い喧嘩」
「相手の無い喧嘩はできない。The quarrel without the partner is not possible.」という。喧嘩は売る者がいても買う者がなければできない。しかし、買い手のいない喧嘩はぶすぶすとくすぶり続けることもあり、そうなれば相手がいないだけに始末が悪い。しかたなく外に相手を求めることになってしまうのだが、本人はそれにも気づかないことがある。いわゆる「八つ当たり」である。自分自身を相手に喧嘩をしているのかもしれない。
(†心のデボーション00975)
† 心のデボーション 00976
「汝ら心の中に鹽を保ち、かつ互に和ぐべし」 マルコ9:50 大正文語聖書
「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」 口語訳聖書
「隣人と一緒祭」
古代ギリシャのカレンダーによると第二の月は8月後半~9月前半頃で、「Μεταγερτνιών メタゲイトニオン」と呼ばれる。「隣人と一緒祭」の意味で、移民たちとの友好関係を祝う祭から来ている。
日本も今は「移民」を迎えて「友好関係を祝う祭」をカレンダーに加えることが大切な意味をもつ時代を迎えているようだ。
(†心のデボーション00976)
† 心のデボーション 00977
「われらが年をふる日は七十歳にすぎず あるひは壯やかにして八十歳にいたらん されどその誇るところはただ勤勞とかなしみとのみ その去ゆくこと速かにしてわれらもまた飛去れり」 詩篇90:10 明治元訳聖書
「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」 口語訳聖書
「悩みのない人生」
悩んでいる間は、この悩みさえなければと思う。しかし、「悩み」のない人生は幸せだろうか? そもそも「悩みのない人生」など存在するだろうか?
人生にあってよいのは「ほどよい悩み」かもしれないが、悩ましいのはいつも「手に負えない悩み」に膨らんでしまうことである。悩みのサイズに注文をつけるうちは、「悩み」を語る資格もないかもしれない。
(†心のデボーション00977)
† 心のデボーション 00978
「その子をイエスと名づけたり」 マタイ1:25 大正文語訳聖書
「そして、その子をイエスと名付けた」 新共同訳聖書
「イエス・バラバ」
ユダヤの祭りのとき、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放する習慣であった。イエスが十字架につけられるとき、ピラトは囚人バラバを指して「バラバ・イエスかメシア・イエスか」と民衆に問いかけた。マタイ27:15~26 民衆は「バラバを赦せ。イエスを十字架につけろ」と叫んだ。
「イエス」という名はユダヤ人にはありふれた名前で、「イエス」の名を持つ人は多かった。「評判の囚人」バラバの名は「イエス・バラバ」だった。
バラバの両親は生まれた子に「イエス」の名をつけた。ヨセフは御使いの告示(マタイ1:20)を信じて生まれた子を「イエス」と名付けたのである。
バラバは「イエス」と呼ばれたが、知らぬ者もいない悪の人生をおくり、自分と同じ名の「イエス」を身代りにして釈放されることになった。
(†心のデボーション00978)
† 心のデボーション 00979
「ただしきものは終日めぐみありて貸あたふ その裔はさいはひなり」 詩篇37:26 明治元訳聖書
「正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る」 口語訳聖書
「情け深く人に貸す」
こんなユダヤの小話を聞いたことがある。
モーセは友人のアブアラハムから金を借りていました。明日の朝までにはどうしても返さなければならなかったのです。眠れずに思い悩み、部屋を歩き回るモーセに妻が「あなた一体何をしているの?」と聞きました。わけを話すと妻は「馬鹿ね。それだったら今晩、眠れないのはアブラハムじゃないの」と言いました。
貸す人にも悩みがある。「情け深く人に貸す」、それが難しい。
(†心のデボーション00979)
† 心のデボーション 00980
「即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け」 使徒20:35 大正文語訳聖書
「あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならない」 口語訳聖書
「自分より弱い者」
自分より弱そうな相手だと分かると、急に居丈高な態度になるのを「相手見てからの喧嘩声。Judge a partner; and of the quarrel speak.」というそうである。相手が反論できない立場にあることを知ると、小さなミスにも厳しい抗議の声をあげたりするが、自分より強い相手には逆らえない。
(†心のデボーション00980)
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